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銀縷朧夜、不香の花宴
水音が、ひとつ。また、ひとつ。
そのうちに蹴立てるように荒々しく、連続して水を跳ねる音が、内側に響いた。
「――ああ、繋がった」
続く言葉には、間に合った、とやや疲れを滲ませた。
仰ぐ。
見えた。
感じた。
手を伸ばす。
「獏の札、宝船、退けよ」
そしてゆっくりと――招いた。
***
■あらたまの
榊遠夜は、家路を急いでいた。
いや、家路というのとは少々違う。彼が向かう先は宿のそれであり、しかし定宿として久しければ、この世界での家と称してよいものか。
急かすように、あるいは主を招くように数歩先を優雅な足取りで一匹の猫が行く。
道を辿るのは自分たちだけではない。そこここで火を囲み談笑する人々の姿がある。
今日から、新年。
世界の暦の違いを危惧していたが、懐の広い場所なのだ。遠夜の親しんだ暦に定められた祝日や祭日には、聖都のどこかで関連した行事や品々を見ることができた。
年が明けて、まだ数刻。
早く宿に戻って、新年の祝いをする準備を終わらせて、それから――
「響?」
唐突に、猫の纏う気配が変じる。
己も気を澄まそうとして、
烏丸織も、道を急いでいた。
往路である。編んだ組紐を奉納するために、神社への夜道。長紐を納めるのを毎年の恒例としていたのだが、今年は他の仕事が暮れまで立て込んで、取り掛かる時期が遅かった。いつもならもう宮司へと挨拶を済ませている時間だ。自然早まる足ながら、同じ方向に向かう人の群れに、包みを抱えなおす。
「この時間だと、やっぱり人も多いな……」
呟きさえも喧騒に呑まれ、次第々々に人いきれで空の気さえもが熱を持ったよう。
徹夜続きの作業に、頭の芯がどうにもすっきりとしない。
覚ますために、ゆっくりと頭を振って、
シュライン・エマは、興信所の事務机で書類相手に奮闘していた。
年末に大量発生した怪奇依頼の関連書類を整理しているのだ。おおまかにいくつかの要素を取り出してパソコンにデータとして打ち込み、詳細を記した書類は系統別にファイルに纏める。
それだけの作業だが、事件の事情は複雑なのが一般である。継続調査の必要なものや、解決したものの他の調査員へ注意を促さねばならない案件も混じっており、新たな書類の作成にもずいぶん時間を取られた。なにより数が多い。
「年末年始に忙しいのは、人間だけじゃないってことかしらね」
手に取ったカップの中身が空なのに気づいて席を立つ。
ついでになにか夜食になりそうなものはなかったかと、給湯室へ足を向け、
クレイン・ガーランドは、自室のソファで寛いでいた。
体質のせいもあって、夜間を主な生活時間帯にしている。自然、同居人……同居猫も主に合わせ、この時間になると足元にじゃれついてくる。習慣となったその仕種にやわらいだ表情を向けた。黒猫は主の膝の上に乗ると、てのひらに顔を摺りつけてくる。
今日はどこか、落ち着きがない。
「どうしたのですか?」
問いながらも好きにさせていると、ふいに猫がぴんと耳を立てて、あらぬ方を向く。その先には猫の興味を惹きそうなものはなにもない。
さては微音に反応したのかと、クレインも耳をそばだて、
守崎家の双子の兄弟は、それぞれに蒲団のなかだった。
もう初詣をすませて床に入ったところである。兄の啓斗の行動説明はそれで終わるが、弟の北斗には「初詣」と「床に入った」のあいだに「露店で食い倒して兄貴に叱られて拗ねて」が挿入される。
年が明けてすぐにこれでは、今年もいろいろと思いやられる。お互いに穏やかに新年を迎えたいとは思っていたのだが、北斗は参道沿いに並ぶ食べ物のピークロードにあっさりと飛びついたし、両手に抱えきれないほど焼きそばやら綿飴やらを抱えた弟の姿を発見した啓斗は瞬時にその端整な面に笑顔を浮かべた。ちなみに「笑顔」の後には「般若」が付加される。
目が覚めたら、朝になったら、少しは穏やかさを取り戻せるといい。言葉にせず、言葉にはできず、けれどどこかでそう思いながら目を閉じた。
忍びを生業にしている二人だ。深い眠りに落つることはあっても、気配には敏い。
故に兆しを――掴んだのか否か、判じる間もなく、
セレスティ・カーニンガムは、湯から上がったところだった。
腰までの銀髪が水を含んでいくぶん色を濃くしている。丁寧に雫を拭い去り、絹の寝間着に袖を通して、椅子に落ち着いた。
セレスティは、水霊使いだ。水に関するものすべて、彼の支配下にある。
そして、占い師でもあった。
自らが総帥を務める財閥の未来を視ることはあるが、そう頻繁に占いに接しているわけではない。それに卜の方を水に限ることもしていない。
だが、やはり予兆はあったのだと、数瞬後に覚った。
水音はきっと狭間に置き去られ、
冷覚さえも遅れて、
はじめに、
■初手水
光が、落ちてくる。
遠く鐘の音を聞いた気がする。
「あんた、無事?」
耳を澄ませば、ずっと近くに籠もった少年の声が響く。台詞とは裏腹、笑みを含んだ声音はどうやら自分に向けられているらしい。
「正月早々、ついてないね。まあ、自分だけじゃなかったってだけでも儲け物だと思うけど」
今度ははっきりと笑ってみせると、暗闇のなか、ぐいと強く腕を掴まれた。
「さあ、さっさと立ちな。そんなところにいつまでも坐りこんでたら風邪ひいちまう」
いわれて、自分が浅い水のなかに腰を落としていたことに気づく。
一歩足を運ぶと、そのたびに水に沈む感覚があり、足許だけでなく重い衣服が全身水浸しであることを伝えてきた。様子は、よくはわからない。青い輪郭がぼんやりと物のかたちだけを示す。周囲は暗かった。
「そろそろ目も慣れてきただろ?」
楽しげに先導する少年が、数歩先で止まる気配がある。促されるまま目を凝らすと、突き当たりらしき壁に扉があった。
その扉の前で振り返った少年は、束の間の戯事とも本気ともつかぬ言葉をよこす。
「ようこそ、哀れな来訪者さん。制限時間は日の出までだ。日が昇るまでにここから出て初茜を拝めれば吉。出られなければ元旦から凶と出る」
どうだい、ひとつ運試しをしちゃあ。こちらの気色を読む眼差しで、コン、と扉を叩く。
それに応じるようにゆっくりと開く向こうには――宴。
まだ夜は続いている。
見上げればまるく開けた穴。
いいや、こちらの側が穴のうち。
どういうわけか、落ちこんだ先には少年と、扉が待っていた。
宴に夢を見るも、地へ初日の現を求めるも、吉凶のうちか。
日の出には、あと数刻ばかり。
***
道が、落ちたわけでもあるまい。
石畳のしっかりとした、しかも坂道の中途である。いかな夜道とはいえ今宵は明るく、すれ違う人々の数も多かったし、数メートル先の地面もたしかに見えていた。
落ちたのか。飛んだのか。――いや、飛ばされた、というべきか。
「世の中、奇妙なことが多いなあ……うん」
自分の言葉に自分でそれなりに納得をしめして頷きながら、遠夜は水を吸って重くなったマントを脱ぎ去った。
以前にもこうして異世界へと迷いこんだことのある遠夜だ。一度や二度同じようなことがあっても驚きは……普通、するのだろうが。そのあたりは当人の属性に左右されるのかもしれない。ボではじまりケで終わるアレである。
「あっ」
それまでまったく慌てた様子のなかった遠夜がふいに鋭い声をあげる。
突然見知らぬ場所に転移したかさせられたかは知らないが、同行者があったはずだ。寸前まで傍らにあったその姿を、屈みこんで捜す。
「響」
己の眷属の獣の名だ。呼べばすぐに応うるとしっているが、つい目線を足元の水溜りへと走らせてしまう。
――にゃ。
はたして小さないらえが、少し離れた場所から返った。
ただし、下ではない。
「この子は、あなたの猫ですか?」
見上げる先で、暗闇でもほのかに色を湛えたような銀髪の青年が、響をその腕に抱えている。
「そうです。よかった、一緒にこっちに……あの、あなたも?」
巻き込まれたのですか、とも、落ちたのですか、とも先を続けられなかった。状況が把握しきれていないからだ。
それは相手も同じだったのか、ええ、と曖昧な頷きを返事にして、クレインは腕のなかにおとなしい黒猫を、遠夜の手に戻した。
「私も猫を飼っていたので、近くにいたこの子がそうではないかと慌てました。猫は水が嫌いでしょう? この子はそうでも、ないようですが」
「ああ、響は猫では……普通の猫では、ありませんから」
式神である。
もっともそう説明しても相手に理解してもらえるとも思わず、遠夜は面倒な会話は避けた。クレインもそうですかと穏やかに応じただけだ。
「……ひー、ふー、みー、よ……猫は、数えないよな」
近くに寄ってきた少年がそう数えて、改めて、こっち、と腕を引かれた。
七人だ、と少年は言った。
「年が明けて早々に、こんな場所に落ちてくる人間が、七人」
「……だったらなんだってんだよ」
「よかったな。たとえこれが凶事でも、これだけ人数がいれば少しは薄まるだろうさ」
北斗のぼやきに笑みを崩さず答えて、ぐるりと一同を見渡した。
穴のなかである。
遠夜の取り出した符の放つ淡い光で、ある程度の光源は確保できている。
セレスティ・カーニンガム、シュライン・エマ、榊遠夜、クレイン・ガーランド、烏丸織、守崎北斗、守崎啓斗。
不運なのか幸運なのか、いまいち判断に困る椿事に巻き込まれたのがこの七人というわけだ。なかには見知った顔もあったが、簡単に名乗りあったところだった。
「ラッキーセブン、ともいいますし……短い付き合いかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします」
壁に手を突きながら優雅な美声を響かせるセレスティに、
「七福神にも通じますしね」
日本的にも前向きな意見を述べる織だ。
「とりあえず、」
そしてやはり七に関係する名前の北斗が重々しく放った言葉に、少年以外の六人は一も二もなく頷いた。
「着替えようぜ?」
――長い付き合いは良いことだが、この場所に止まったままのそれは遠慮したい。
■着衣始
全員が水のなかに長い時間いるわけにもいかず、扉の向こうに移動した。穴(なのか井戸なのかはよくわからない)の壁に直接両開きの扉が接続しているわけである。段差もないのに扉の開閉に抵抗はなく、向こう側に水の流入も起こらなかった。
「水が幻覚なのか……それとも扉か、空間自体か」
扉をくぐるしな、さりげなく探る啓斗に、水の専門家であるセレスティは水は本物だとの見解を添える。
「少なくともこの場所では本物、でしょう。なにより重いし、冷たいです」
竦める肩に散る髪は、ぺったりと服に纏いついている。「せっかくお風呂に入った後だったのに、二度目です、乾かすの」
穴のなかは、暗かった。
だがこちらは、仄明るい。
「まるでお花見ね」
周囲を見渡すシュラインが言う。
「外なのか、室内なのか……不思議な場所だ。ついでに季節も時間も曖昧すぎる」
確かめるような遠夜の声が続く。
扉の向こうは、場所も、時も、判然としない空間だ。
部屋とは呼べないだろう。壁も天井も、そこにはなかった。床にあたる一面は、畳敷き。古めかしく重厚な卓子の上には、所狭しと料理が置かれている。しかし北斗を除いて一同の眼はその向こう――本来なら壁であり窓である部分に向けられていた。
人が、いる。
それも大勢の。
シュラインが花見と評したのは、彼らが宴の最中であろう盛り上がりを見せていたからだ。それが少し遠く、二十間ばかり距離を置いて、見えていた。
見えているだけである。声は聞こえないし、その姿は霞を帯びてひとりひとりの衣の色と動きを僅かに伝える程度、動きさえもどこか鈍く、
「――海市。あるいは、糸遊」
織の呟きが、得たり。
非現実の映像が霞をスクリーンに見立てて延々流れている感じだ。
「いつまでぼんやりしてんだよ。着替えるんじゃねえの?」
どこか惚けた視線を彷徨わせる一同が振り向くと、少年がほらこれ、と腕に抱えた大量の布地をその場へ下ろした。「あいつらなら放っておいて平気だ。向こうにとってもこっちは同じように見えてるはずだしな」
灰色の髪に、真紅の瞳。丈の長い白のパーカを羽織った少年は、光の下で見れば、
「意外にフツー」
な姿、だった。
「なんだ、そりゃ」
眉を顰める少年に、北斗はだってさ、と続ける。
「あんなとこで逢うから、まっとうな人間じゃねぇよなーと思って。それともあんたもここへ落ちてきたクチ? そのまま居据わっちまったとか?」
「俺が落ちるかよ。あんたらと違ってそんなへまはしない」
言葉だけ見れば軽く言い争いに発展しそうなものだが、少年の調子が終始変わらぬためにその心配もなさそうだ。
横では各自、着替えを選ぶことにする。
「僕は動きやすい服がいいんだけど……あ、この服ならサイズも大丈夫そうかな」
遠夜は真っ先にシャツとジーンズを引き抜いた。
布の塊を広げてみれば、和装洋装、それぞれに馴染みのある服が混ざっている。皺になりそうなものは近くに置かれていたやけに幅のある屏風に無造作に掛けられていた。黒い屏風だった。
不思議なことに、どの服も誰かのサイズに合致する。
セレスティとクレインが普段の装いに近いものを手に取れば、織は寸法の合う二着和洋のうち、自然と馴染みの手触りを選んでいた。紺縞。袷の長着に羽織を合わせる。
「パンツスーツ……他の女物はスカートだし、一番動きやすそうなのはこれかしら」
男物でもいいのだが、それだとどうにもサイズが合わなさそうだ。グレーのストライプ柄のスーツ上下を手にして、紅一点は屏風向こうで着替えることにする。この方角には例の宴の映像もどきもない。
そして、最後の一着を手に佇んだのは、啓斗である。
「……これは、俺用なのか」
「やあ、渋いな……染色堅牢。紬ですね」
「落ち着いた色合いだから、白の……あ、ちゃんと帯もあるようだよ」
喜色を滲ませた織に、こともなげに遠夜が帯を合わせる。衣の風合いに織はいたく興味を惹かれたらしく、しばらく手にとって見つめていたが、このままでは啓斗が着れないと遠慮して返した。
啓斗は少々複雑な面持ちで――もっとも、無表情が僅かに影を帯びたような気がする、程度だったので誰にも気づかれなかっただろうが、着物を手に取ると馴れた手つきで着付けに掛かった。
――正月吉日、春の新衣を着始むること、きそはじめと云う。
■宴
あけましておめでとうございます
人心地ついて、誰からともなく新年の挨拶がひと通りまわる。
その自然な流れのままで、宴の席についた。とりあえず、席があったので収まった、の感覚が正しい。料理に対しては一応の警戒心も持ち合わせていたのだが、それは伊勢海老に飛びついた北斗の尽力によって払拭された。
……別段、伊勢海老に毒が仕込まれていたとか、食べるのに苦労したとか、そういう理由に力を尽くしたわけではない。齧りついたあとに兄の啓斗からの教育的指導が入っただけである。
押鮎、数の子、古女に開き豆。出し巻き卵。などなど詰められた重箱が縦に長い卓の中央に並べて置かれ、ちょうど人の坐る位置を想定したものか、その脇に椀や小皿、杯が等間隔に据えられていた。結び昆布の沈む雑煮や澄まし汁、茶や酒の類も多く用意されている。着替えに同様、時間の経ったせいで冷めたり味が悪くなったりもしていない。
体をあたためるために含んだ茶は山椒をいれた大服茶だった。邪気を払うと聞く。
ひと通りの食品の安全が確認されて落ち着いたところで、セレスティが隅に坐った少年へここに来てからの疑問を口にしてみた。
「宴ということは、これは祝い事、と受け取っていいのでしょうか。それとも同じように日の出を拝む習慣のある場所なのですか?」
片肘突いた少年はさあ、と気のない返事。
「この場所にこだわるのは得策じゃないと思うけどな。それからここにいるのは俺だけだ。俺は日の出を有難く思ったことはねえけど」
あんたらは違うんだろう? と薄く笑って手元の箸を玩ぶ。その箸も柳の太箸で、いちいち新年の祝いの品をなぞっているのがわかる。ただし、限定的だ。そうと知れたのは、料理や風習を織や遠夜が指摘したからだった。現代東京に住む他の面々も納得したが、クレインなどには珍しいものが多いらしい。
「それと、吉凶を占うという言葉を聞いた気がするんだけれど」
後に続いた遠夜の言葉には素直に頷いておきながら、深く考えるな、とだけ囁いた。
埒の明かないやり取りだ。
「この場所からは……自然と出られるわけでは、ないのですか」
クレインが扉の方へ視線をやり、問うた。白の陶器を口許へ運ぶ。こちらは甘い花茶。文化の違いに対しては、それほど戸惑ってもいなかった。
「吉凶にこだわらず、初日も求めず、か?」
「そうです。このままここへ留まった場合、どうなるのかと思いまして」
「出ようとしなければ、出られねえよ」
相変わらず、よくわからない事情のままだが、少なくとも穴のなか、穴の外、そしてこの宴の場所の三つの場所が在るという事実だけが確かにある。そのうちのふたつに移動することが可能でも、残りのひとつ、穴の外へ出ることがかなわないのなら、やはりそこを目指すべきなのか。
「糸口は穴の外、というわけですか」
状況はけして良いものとはいえない。けれど口許に微かな微笑を過ぎらせたセレスティに、なぜか嬉しげな少年の表情だ。
「そう、糸口。糸口は動いてみなけりゃ見えない。上から救いの糸は垂れてはこない。朝になれば状況は変わるかもしれねえけど――それじゃ、つまらないだろ? それともここで日の出までの時間を、ぼんやり待つか?」
揶揄の口調の少年に、否やの返事をしたのは織だった。
「出られぬままというのも自身の力不足。それにおそらく、お待たせしている方々もいらっしゃいます。時間にかかわらず、努力は惜しみませんが……」
そうですね。期限を提示されたのなら、日の出までに全員で外へ出てやりましょう。
不敵な台詞に忍ばせる、遊戯だ。
「で、あんたはさっきからなにしてんだ?」
酒と雑煮で暖まった体をさっそく動かして、シュラインが屏風の裏などをうろついているところへ、少年は声を掛けた。
「探し物」
短く返したものの、目的の品物たちは見当たらない。
先の会話で、「とりあえず穴から出るために力を合わせようぜアミーゴ」な方向に話は纏まったものの、肝心の「じゃあどうやって出ようかアミーゴ」の段になって、なごやかな歓談はなごやかな笑顔の応酬へと進化を遂げた。口は飲食のためだけに動いた。
もしかしたら一生出られないかもしれないというのに、誰も悲愴な表情を見せてはいない。むしろ楽しんでいる感が強い。大物ぞろいである。そして暢気でもあった。
「なにを探してる?」
「梯子や棒、縄、椅子あたり」
「梯子を使いそうな場所に見えるか? 棒や縄も……飾りでならあるかもしれねえけど、短くて細いのじゃ駄目なんだろ?」
「そう。頑丈で長いものがベストね」
「ねえな」
素っ気ない返答に気落ちした風もなく、宴会の様子を冷静に観察するシュラインだ。畳に敷かれているのは座蒲団。椅子の類はなかった。
仕方がない、服でも繋げて……と扉の方へ向かい掛けた彼女を、
「あの、紐でよかったら手持ちがありますが。それなりに強度はあるので、繋げればなにかに使えるかもしれません」
呼び止めた織は、服と一緒に干していた長組紐を引き寄せる。幾本もの糸を編み合わせたそれは、たしかにそこそこの強度を持っていて容易に切れてしまうようなものには見えなかった。
しかし、本来縄に代用されるべきものでないのも一目でわかる。
「こんなに見事なもの、乱暴に使ってしまっていいのかしら。汚れたり切れてしまったりするかもしれないし……」
シュラインが言いよどむのももっともだ。
織が自ら組んだ組紐は、どれも色鮮やかで華やかな印象の工芸品だ。ただ華やかを前面に押し出したわけではなく、選んだ色からしかるべき相手へ贈るか使うかするつもりだったに違いない。どこか凜とした気配がある。
だが織は、手早くすべての紐を纏めてしまうと、シュラインへ手渡した。
「これもなにかの巡り合わせでしょう。お役に立てれば嬉しいです」
「それじゃ……使わせてもらおうかしら。ありがとう」
「他になにか、必要なものはありますか?」
「具体的に使えそうなものってのが思いつかないのよね……アイテム自体が限られているし……あ、」
唇に指を宛がい悩むシュラインに、ひとつ妙案が浮かぶ。
「鏡、あるかしら」
「鏡ですか……私は、ないですね。女性なら手鏡を持っているかもしれませんが」
といっても、唯一の女性であるシュラインは尋ねる側だ。せめてバッグも一緒にここへ飛ばされていればあれやこれやあんなものまで入っていたのにと、悔しい思い。
そこへ女性ではなかったが、所持者が名乗りをあげた。
「ほへはひ、ほっへふへ?」
北斗である。
「食べるか喋るかどっちかにしろ」
「ぐひぇ!」
「北斗、持ってるの?」
「あの、お茶飲みますか? 烏丸さん、湯呑み……」
「ああ、はい。どうぞ」
「あ……っつ!」
「おや、それだけ熱湯なのですね。大丈夫でしょうか」
「修行だと思え」
さすが語学に優れるシュラインだ。北斗のいわんとするところを察して、彼らの干されていた衣服を振り向く。忍び装束だった。
二人ともここへ来る前にそれらを纏っていたわけではないのだが都合がいい。啓斗が立ってそこから手鏡よりも小さな何枚かの鏡を取り出した。鏡は反射の他にも偽装や火起こしに使う。爆薬にも使用可能で、欠片状のものも含めて幾枚か所持していた。
「……なにに使うんだ? シュラ姐」
「んー、秘密、かしら。すぐにわかると思うけど、成功するかは難しいところだから、期待せずに手伝ってくれると嬉しいかな」
微かに頷いて、啓斗はすぐに扉へ向かう。もともと彼は、宴では弟の目付け役に徹するつもりであったらしく、料理にも大して手をつけていなかった。
兄がさっさと扉をくぐっていくのを見て、弟の方も盃を一杯だけぐいと呷ると後へ続いた。
■彼方此方
見上げるまるい空は初めて見たとき――来たときとまったく変わらぬ色合いで、微量の光を降らせている。もっとも、穴の外がすぐに外に通じているのか、仰いでいるのが空であるのかの保証はない。ただほのかに青白いそこへ散った白点が、星に見えたのだ。
「すぐに日の出ってわけじゃなさそうね。……なんだか自分が、海から顔出す前の日の出みたいな気分だわ」
シュラインは穴の底で、改めて内部の様子を調査する。足元の水は浅い。屈んで探ってみれば石の感触だった。側面はどうか。こちらも手探りで触れてみたが、変わらぬ冷えた鉱石の手応え。硬い。そして幸いなことに無骨な岩を折り重ねていったように、凹凸が絶えず続いている。
ただし、素手で登れるようなものではない。なによりも表面が水気で滑るのだ。
――いや、正確には、全員は登れない、だろうか。
北斗は、慎重な手付きでなんとか登りはじめている。
啓斗は鉤縄や苦無を岩へ打ちつけつつ、それが足場にならないか試す。その音も拾いながら、シュラインは内部に谺する音反応を視た。広さ、高さ、そして隠し通路の有無の検証だ。
「……少し灯り、増やしますね」
様子見にやってきた遠夜の手のなかで折られた符は、放たれれば淡い蛍火となって闇をやわらげた。背丈より高い場所で作業する北斗のために、蛍は上方へもゆらりと舞い上がる。
「あ……そっか」
その様子を眺めた遠夜は、新たな符を取り出すと明確な意図を持ってそれを折りはじめた。満足の出来栄えに、口中で短い呪を唱え、高きへ鋭く放つ。
「滿隹。天地の境を識れ」
遠夜の手から離れた符は、瞬時にその身を白光の鳥の姿へ変え、遠夜や啓斗の頭上、北斗の横をすり抜けて、それよりも高い場所を目指して飛翔する。式神の鳥にためしに外へ向かわせてみたのだ。安全の確保と、せめて高さを知れるといい。
が。
「……遅ぇな」
「……遠いな」
「……高いわね」
「…………」
戻ってこない。
それ以前に、式神はいまだに穴の外へすら到達していないように見えた。
「消えた……?」
やがて星のひとつとなり(臨終の意ではない)、判別すらできなくなってしまう。
「とりあえず、すごく高いみたいだねってことは、わかったかな……」
「なーんか、やる気、なくなってきた」
げんなりと告げる北斗を諫める気も起きない。
シュラインは見失うまでの高さを頭のなかで計算してみて、その距離の理不尽さに、ひそかに頭を抱えた。数字は、いわない方がいいだろう。これ以上やる気を削いでも仕方ない。
ふたたび意識を高みから戻すと、ふるりと身震いする。水の温度には変化がない。
傍の濡れた壁を探ってみながら、ふと遠夜は呟いた。
「それにしても、落ちたり滑ったり……なんだか縁起の悪い場所だね、ここは」
「それ、現役高校生には禁句だからっ」
「そうだね。僕も高校生だし」
口にしたら凶に近づいてしまうね、と朗らかに笑う遠夜には、危機感というものがあまり感じられなかった。
一方、扉向こうの宴会場では、まだのんびりと宴が続いている。
べつに、サボっているわけではないのだ。良い案が出れば作業組(勝手にそんな役割が振られていた)に伝えようとは、している。まだ新たな案が出ていないだけだ。
「そういえば」
クレインが箸で黒豆を摘みながら、やんわりと織に言葉を向けた。左手で掴んだ箸の扱いにも少し慣れてきた。黒いそれを当初未知の料理と見たが、大豆の一種と教えられ、それではとチャレンジしてみた次第。予想外の甘さに驚いたものの、菓子の材料にもなると聞いて納得した。
「話の腰を折ってはと思い、先ほどは尋ねなかったのですが……日の出とは、めでたいものなのですか?」
「ええ、日本……ここが日本なのかはわかりませんが、私のいたところでは特に初日の出は特別とされていますね。元旦の日の出を初日の出といって、高い山などに登って拝むひともいます」
神話に求める縁起のせいであるのかもしれない。
どう説明をつけたものかとしばし悩む間に、クレインからまた料理の質問が掛かる。銀髪紅眼の美しい青年は、たしかにこういった文化に馴染みは薄そうに見える。しかし言葉にはお互いに困らなかった。
やはり転寝の夢のなか、かな。酒を注いでまわる織は、それでも構わない、とも思う。せっかくの機会だ。まだ、もう少し、楽しんでいよう。
刻限は、少年の言葉どおりの夜明けだろうか。曙光にすべてはゆめと、融けてしまうのか。
それは少しだけ……惜しい気もする。
「初日の出とは、どれだけ眩しいものなのでしょうか」
あらかた乾いた服からサングラスを取り出して、クレインはそう尋ねる。実のところ、日光は苦手なのだ。好き嫌いの問題ではなく、アルビノ体質である彼には日光下の活動は困難なのである。
「徹夜明けの目にはとても眩しく感じますが……どうでしょう。サングラスをしていても、まっすぐ眺めるのは少々危険かもしれません」
明確な回答をあえて避けて、織も屏風の傍へ行く。薄手のものは乾いている。皺にならぬよう干し直す途中で、自分の衣からなにかがぽとりと畳の上へ落ちた。
笛だ。
「あれ……服に入れていた憶えは、ないんだけどな」
首をひねるが、これが夢なのならばありうること。願望でもないが、奇縁の礼と余興には、ちょうどよいかもしれない。
「演奏を、なさるのですか?」
和笛を手にした織を目にして、クレインの興味の先が移る。織にしても、クレインにしても、職業柄どこにあってもつい惹かれてしまうものは、変わりがないらしい。
「よければ、聴かせてくださいませんか」
「そうですね……」
視線をちらと遣れば、俺もと同意の声の少年に、瞑目のセレスティの頷きだ。
それでは、と断りを入れて、織は口許に笛を運ぶ。
深く伸びやかな音色が、空間を染める。
笛の音は、穴のなかにも響いていた。
扉ひとつだけを隔てた向こう側である。烏丸さんかな、呟いて、遠夜は数段……数個を登っただけの壁から、ゆっくりと元の水場へ戻った。ワンゲル部副部長の肩書きを幾度胸中で唱えたことか。しかし道具もなしで濡れた岩場を目指すのは、さすがに危険だ。正しい知識があるゆえに、危険性もじゅうぶん理解している。
見上げた。
高い場所に、北斗の姿。そしてその下には、苦無を楔に足場の確保と縄梯子の用意をする啓斗とシュラインだ。この方法は彼らに任せることにして、自分は違う方法を探ってみようか。
潰えた蛍の分を、また新しく生み出して、灯りを保つ。
その何匹かが扉へ向かうのを不思議に思って追えば、半身を凭せた少年が、呆れ顔で穴を仰いでいた。
「……正攻法を、取ったわけか」
「隠し通路もなければ、壁の向こう側に空洞もない。最短かどうかはともかく、定石以外の道が現時点で見つからないなら……試してみるべきだ」
冷静な返答が頭上。ひらりと身軽に着地した忍びの少年の足元の水は、僅かに騒いだだけだ。「もう服も乾いただろうから、着替えてくる」
表情の窺えぬ啓斗が扉向こうにいったん消える。赤い瞳がその後姿を見送ったが、
「無理無理無理っ! 絶対ぇ無理だって! 全然進んでねぇのわかるし! 他の方法試した方がいいってホント」
「そのわりにはお手手はちゃんと動いてんじゃねえの、青いの」
「うるせぇな、兄貴がやるっつったらやるんだよ、赤いの!……シュラ姐、ちょっと休憩してていーよ。兄貴戻るまで危ねぇし」
「そう? じゃあここまでの楔と縄、外れないようチェックしとくから」
遠夜が手を貸して、シュラインは最下へ戻る。その手が冷えているのを察して、暖かい飲み物でも取ってきたら、と勧めて扉へ促した。
「青いの。あとはひとりでがんばれ」
引き止めるような叫びが穴のなか。宴の方へまた戻った少年と遠夜だ。
織の奏ず和笛は低い音域に沈むとき、その広がりをいや増す。絹布を春風が翻す優しさが、そっと琴線に触れるなにげなさで、聴くものを安んずる。
同じ音を辿ってもここまでの多様は模せまい。
曲よりも音ひとつひとつに響くところがある。風は糸に大気を布に、ふるう空間を織り上げて染めれば誰が胸か。あるいはその綾を、眼にした者もあるかもしれない。
演奏を終えて――余韻の去ったのをしおに、織は笛から面を上げた。
拍手のかわりに、感嘆の声が織を囲む。趣味に嗜む和笛である。これが染織ならば冷静に感想を受け止め意見を求めただろうが、どこか身に余る思いで面映ゆい。織は笛を仕舞うと、早々に宴の席に戻った。
「おかえりなさい」
織の演奏の終了とともに卓へ戻ってきた少年は、そのまま突っ伏した。眠いのだ。セレスティはその気配に軽い笑みの声をのぼらせて、そっと灰色の頭を撫でた。
「なんであんたたち、あれ聴いて平気なんだ」
「さあ……精神力の、違いでしょうか」
「……俺は弱くは、ねえぞ」
上目に睨んでみる眼差しが、既にその台詞を裏切っている。しきりに目を擦っていると、眠気覚ましのつもりか適当に眼の前の料理を口に抛りこんだ。ろくに咀嚼もせずに呑みこむ。
「意地悪をやめて差し上げたら、いかがです?」
遠夜から受け取った屠蘇の杯を少年へ渡しながら、唐突な話題の転換に、さて他に聞く耳はあるのかどうか。どちらでも構わぬらしいセレスティに、僅かに声を落とすのは少年の方だった。
「べつに苛めてるわけじゃない。――あれはああいう『造り』なんだ」
睡魔からの逃亡が成功してきたらしい少年の赤い瞳が、セレスティの意識の先を言い当てる。
「気づいてるんなら、あんたこそ教えてやればいいのに」
「私は意地悪な人間ですから。それに先に退屈を訴えたのは、キミの方ですよ?」
ふたたびの、作業風景である。
シュラインの持ってきた湯呑みの茶を啜り指先を暖めた北斗は、底から壁に設えつつある足場を確認した。刃物の先端を埋め込んだ足掛かりが、黒光りして蛍火に照らされている。そして足場の向かう先、現時点でもっとも高いところに兄の姿があった。何段も手を掛けられなさそうな箇所が続いた場合には、短くした梯子が繋がれている。
そう、梯子。
水へ落ちてきたときに懐に重い感触があったので、鎖帷子でも着けているのかと思ったが、それにしては質量がありすぎる。――それは使ってくださいといわんばかりの、縄梯子だった。
「……あっやしいよなあ」
ここに来るまで自分は寝ていたのだ。そんなものを抱えて眠っていたわけはないし、普段持ち歩くようなものでもない。家には置いてあるだろうが、頻繁に使用するものでもなかった。
「ルート間違ってんじゃね? もしくはどっかで鍵取り落としたとか」
「どこかのゲームみたいなこと言わないで」
扉の向こう側でなにやら作業をしていたシュラインが戻ってくる。その手にはきらきらと光を反射する鏡の幾枚か。器用に組紐が括りつけられていた。
「……さっきの鏡、か」
顔のすぐ横の壁に光の映ずるのを見つけた啓斗が、手を止めて下へ視線を遣った。
「どう? 啓斗。眩しくはない?」
「そんなには。……でも、結構届くものだな」
「それをどうすんの?」
「こうするの」
言うなり、数段足場を辿ったシュラインの手は、足掛かりのひとつに添えられる。刃物の柄の部分に、鏡を吊るした紐の先端を結びつけ、幾度か角度を確かめたあとにそこへ固定した。
「どうせなら、宴の席で皆で日の出見れたらいいなあなんて思って」
光の反射を、利用して。
穴の外に昇った太陽の光を、上手く底の方まで運べないだろうか。
全員がこの足場を登ることは難しい。そう判断したシュラインは、せめて初日の明かりを届けたいと考えていたのだった。
「それなら、反対側の壁にも吊るした方がいいな」
「ええ。頼める?」
暗闇にしっかりと頷く啓斗だ。意図を汲んで、素早く光の角度を計算して周囲に視線を走らせた彼は、しかしその中途ではっと空を仰いだ。
「兄貴? どした?」
「……今、」
同時に、シュラインの優れた聴覚が、今までとは違う風音を捉えた。
蛍火よりも微かな、光。
■空より花の散りくるは
「御降……ということは、今の運勢はやや凶寄り、でしょうか」
忌詞を口にして織は、己の唇を撫でた。吉凶。どこかその行く末が楽しみになっている自分を自覚したものか。苦笑が僅か、洩れる。
雪が、降りはじめた。
作業組に呼ばれて一同が扉の周囲に会したところである。
今年は暖冬と聞いていた。東京を住処にする者が多い、雪を見られるのはまだ先のことだろうと思っていた矢先の出逢いに、誰もが視線を上に、ひらひらと頼りなく舞い落つ灰白を追っている。
「……冷たい、ですね」
仰のいた頬に辿りついた一片に、クレインは首を傾ける。
たしかに雪は、冷たい。しかし寒くはなかった。穴の底を湛う水は冷えきってはいるが、扉の彼方側も此方側も気温は大して変わりないのである。水と石に触れてさえいなければ(現時点で他に足場がないので無理だけれども)、長時間止まっていたとしてもさして障りはない。
そしてそのことに、はっきりとした疑問を持っているか、引っ掛かりを覚えているのが――おそらくは、皆。
穴の外側が真冬の吹雪のなかだとして。穴の底、それもかなりの深さを持つこの場所にまで、雪はそのかたちを崩すところなくやってこれるものだろうか。
それにもうひとつ、
「冷たいのは……風もよね」
シュラインの拾った風が、儚し六花を壁に寄す。それはやけに新鮮な風だった。外から飛びこみ吹き荒れて、石道をくだって穴の底。ここまで強さを保てるはずもない。
遠夜が水へ足を踏み入れる。手には折られた符。それを雪を押しとどめるよう、逆らい空中へ放った。
鳥の一羽。
式神は主の短い命に従い外を目指す。二度目だった。一同の頭上で勇むように翼を震わせてから、飛びたつ。そこまでは前と同様に。
違いを知らせたのは、その直後。
「抜けたっ!」
鳥は、視界から消えていた。けれど前のように見失ったのではない。証拠に穴の縁らしき場に一時羽を休めて、底を見下ろしていた。
外がある。それも、近い。
それから慌しく全員が動いた。
この場所に時計はないが、外が雪曇りならば感覚を誤る恐れもある。初日の時にまでこの空模様なら陽の昇るのを見ることは叶わぬかもしれないが、出口が近いというのなら、ここに長く止まる理由はない。
先達に啓斗が穴の近くまで登ってゆく。続く北斗は縄を手に、おおよその長さを測る。底に近い場所で節約したのなら、なんとか上まで持ちそうだった。
双子に、シュライン、遠夜、織が手伝い、途中まで打ち込まれた足場の残りを作り、梯子を掛け、鏡を吊るす。
扉に佇んだままのセレスティが、水には入らず、届く石の壁に触れた。
「逃す先に悩んでいたのですが……そう、こういうことも、できるのですよ」
ぽた、と一滴が落ちる。間を置かず水音が連続して、しかし薄闇ではその在り処が知れない。視覚の不自由のかわり、手を置いていた壁に徐々に水が流れるのを感ずると、徐々に穴の上から下へと水気が去っていった。壁面を濡らしていた水気は、大部分が流れて底の水と合わさったあと、すぐに跡形もなく消えていた。
穴に添う水は底に残るものだけだが、雪はまだ、降り続いている。
クレインには、めずらか極まりない。差し出したてのひらで白を受け、触れた途端に色をなくして水滴と化すそれを、また眺めた。
月日を聞けば、一月一日。ブラジルは夏である。冬であっても南部まで行かぬかぎりは雪も見ることはかなわない。
雫は握った手から零れ落ちた。
「珍しいものは、とりあえず凶兆――の、場合が多いな」
「それでもずいぶん、運は向上してきていると思いますよ」
隣からの少年の声に返して、ここが真実ブラジルならば凶兆かもしれませんが、と胸中で添えた。
「吉寄りってか? なんでそう思う?」
「最初から悪ければ、あとは良い方に向かうだけです」
「なるほどね。でもあんた、あんまり上……というか、外に出ることに積極的じゃないよな」
「日光は、苦手ですから」
「そういうんじゃなくて、外が夜でも、すぐに出ようと思ってる?」
僅かに目を瞠る。どうだろう。日の出のことを聞いて、それならば見てみたいと思った。けれど体質上無理なら、諦めようとも思っている。他の方が外の眩しい光のなかへ帰るのなら、それを見送ることも視野に入れて。
呼気を落とす。
「吉か凶か、往くか止まるか……道はそのふたつだけ、というわけでもないでしょう」
「他になにかあるんなら、俺も楽しくていいが」
先を促す少年に、口許に刷いた笑みはどこか曖昧だ。
「――そのときの状況に、流されるのも一興かと」
セレスティの脚は、少々疲れを感じている。どちらにしろ、この壁を登るのは難しい。クレインと連れ立って、いったん扉向こうの座敷で腰を下ろした。
歩行を助けた織は、また濡れた足を簡単に布で拭って“宴”の場を注意深く見回した。風景は、変わらない。最初こそ気になってはいたものの、遠くで終わりなく騒ぐ人々の映像は相変わらずだし、そこへ至る畳の途切れもそのままで……ふと、軽い衝撃が襲う。
「なんで……」
思わず声になるのも無理はない、だろう。
なぜ気づかなかったのか。というよりも、なぜ思い至らなかったのか。疑問にすら、ならなかったのか。
ここは部屋ではない。
仕切りがないから、そう呼べない。
重い足を、一歩前へ出す。
「そろそろか?」
少年の声。
引きとめる響きはなかったのに、織は足を止めて彼を振り返っていた。
問いかけに口を開きかけたが、それが言葉をなす前に、北斗のものらしい大声が、
訪れを、告げた。
■吉凶の行方
雪空は瞬時に消え失せていた。
なんとか足場を穴近くまで打ち終えて、あとは安全を確認したのちに残りの人々を引き上げようかと算段していた双子である。雪止みより先に、互いの顔を照らす灯りの強さがさっと変わったのを見ると、身軽く穴の縁へ手を掛けた。
弾みをつけて外へと飛び上がる。着地に問題はない。
明かりの方角に、地平線。
すぐに扉向こうの穴へと向かいかけた織だったが、彼はまたもその足を止めることになった。
扉の横に、唯一の仕切りとして置かれていたそれが、変化、している。
思えば、それも不思議であった。着てきた服をどうすればいいか、訊いた先の少年は、そこら辺に掛けておけ、と答えたのだ。普段の自分なら、こんなに立派な屏風になんの躊躇いもなく濡れた衣を掛けることなどするはずがない。
屏風。
黒い屏風、だった。
「お気づきに、なりましたか?」
楽な姿勢で卓子に凭れるセレスティが、屏風の前に立ち尽くした織にやっと声を掛ける。
そしてクレインに向けて、
「サングラスはおそらく、必要ありません」
――と、言った。
底の方へは光はまだ、来ていない。
だが双子の反応を、見守っていたシュラインはすぐに察して、最後の鏡を携え足場を登ってゆく。けして楽な登攀ではないが、下から続く遠夜の助けで手許が覚束ぬこともなく穴近くまで行きついた。
上から北斗と啓斗の腕が、シュラインを引き上げる。
穴のすぐ下で、遠夜が待機し、姿を消していた己が式神へ皆を呼んでくるように令する。
刹那。
瞬時に地平線から、炎の色が溢れた。
自身こそが待ちきれぬのか、揺れる橙は地を染めるだけに飽き足らず、天空の紺青を確実に薄め、世界の色を取り戻させようと手を伸ばす。
今年初の朝陽が、夜を完全に押し退けようとしている。
そしてその様は、穴にいた四人だけではなく、織とクレインとセレスティにも、見えていたのだった。
三人の視線の先には、屏風である。
黒い屏風、だった。今はそうではない。端の方はまだその味が残るものの、段々と玄に藍が取ってかわり、絵全体が照らしだされる。
中央には、日の出。
ただの黒と思われていた屏風絵は、陽を待ち侘びた山々を望む峰であった。山の間に軌跡を覗かせ、そこから届く清浄の光に、手前の草叢の影絵が鮮やかに対比。それらもすぐに本来の色をあらわにしていった。
陽は、あかい。
思わず眼を逸らしかけたクレインだが、一向に日光が射す気配はない。
「私も強い光は苦手ですが、絵画かもしくは、映像ならば対面しても問題はありません」
はたしてその眼に夜明ける山は映っているのか。セレスティは服の袖を引く遠夜の猫の意図をさとって、二人の手を借りながら扉を目指した。
光が舞い躍る。
シュラインの吊った鏡たちは、本来の反射と屈折の法則から外れているようだった。微量でもその表面に上から降りてきた光が映りこめば、正しく道筋を次の鏡へ明け渡す。一度光を当て、些細なずれはその後に修正しようとしていたのだが、鏡自らが誤った道を正していた。
薄れた穴の闇が、奥底に僅かに残るだけである。
こちらは穴の上。
周囲は枯草の繁るどうやら山の頂上付近。
縁に腰掛けたまま、啓斗、北斗、シュラインの三人は、初日の出を拝んでいる。穏やかな新年だった。呆気なさに要らぬ心配をまた浮かべようとした啓斗は、意識してそれを排す。
「セーフ、だよな?」
「……たぶん」
こんなときにまで愛想のない返答の兄だったが、陽に照らされたその面が微かに……ほんとうに微かに笑みのかたちをしているのを見逃さぬ弟だ。視線が合わさる前に抜かりなく逸らした。
「外に出たのはいいけれど、」
シュラインは日の出に手を合わせたあと、目下の問題を挙げてみた。
「ここからどうやって、帰るのかしら」
外へは、出た。しかしどことも知れぬ山中である。麓まで下りねばならぬのだろうか。しかも、それなりの標高がありそうな山を、だ。
「岩登りの次は、山下りか……」
「その前にちょい休憩……って!」
問答無用で頸根を掴まれ、引きずられるかたちで立ち上がる北斗である。啓斗はさっそく周囲を探りに出掛けるようだ。連れ立つ二人へ、シュラインも腰を上げ、穴を離れる。
数歩。
突如周囲に、光が強くなる。影ですらなくなる白さが押し寄せ――それが最後の、ようだった。
「あれ?」
下へ行かせた響へと意識をやっている間に、すぐ近くから聞こえていた三人の声がない。声だけではなく、気配が瞬時に消えた。
穴から顔を出してみるが、誰もいない。
すぐに戻ると、下の梯子に足を掛け……損ねた。
声を出す間も与えられず、辛うじて掴んでいた梯子からも落下しかける。しかけただけで、落ちはしなかった。身体を支えるものがあったからだ。
「あれ?」
「二度目だな、それ。……慌てなくても、下の奴らには伝わってるさ」
少年、だった。いつの間に登ってきたのだろう。そのまま押し上げられ、遠夜は穴の外へと出る。見知らぬ風景に少々面食らった。
「行けよ。出口はそっちだから」
では先の三人は既にどこかへ? 疑問に思う。周囲には草木しか見当たらない。
それでも素直に立ち上がった遠夜は、忘れずに黒猫の名を呼んだ。薄暗い中空に出現した式神は、招かれるままに主の腕のなかだ。
名を呼べば、応うる。
その当然の応酬に、違和を覚えて顔を上げた。
「あ、名前」
「名前?」
違和の先は、少年だ。いまだ穴のなかで、顔すら出さずにこちらを見上げている。
「君の名前を、聞きそびれてた」
「いまさらじゃねえか。必要もなし」
「でも……」
次に逢えたときに目印にしたいから。そう言い微笑む遠夜の毒気のなさに、どこか居心地の悪い思いを味わう少年の方だった。暫時考えこむ素振りを見せてから、口を開く。
「次に……今度逢うときは、初めから朝だといいな」
「え?」
「朝に見れば、吉兆だと聞くぞ。けど、夜でも見逃せ」
謎めいた文句を笑みに乗せて。
少年は名乗るかわりに五音を囁き、さっさと行けと、遠夜へ払うように手を振る。
啓斗も、北斗も、シュラインも、完全に、穴の外へと出ている。いや、出たのだろうか。遠夜はその場所を特定しようと日輪から視線を外して、
――ささがにの、
最後に耳朶をその五音が過ぎった。
光が、眩しい。
今度こそサングラスを掛けて、クレインは穴を見上げる。暗いばかりだった穴に、太陽と鏡の反射で無数の光が生まれている。雪にそうしたように手をかざし、僅かな光のひとつを受け止めた。あたたかい。たいして熱はないはずなのに、照らされたそこが思う以上に焼ける気がした。
きらきらしいなかを、するすると少年が下りてくる。独りだった。
「他の方たちは?」
「上がり」
双六の最後の桝目の名を口にする少年に、織は穴の外へ出たのだろうと了解する。
さて、自分たちはどうしたものか。この梯子をいかように使えば登れるだろう。悩む気配を察した少年が、三人のせなを押して扉向こうへ誘った。
外への出口が、そっちにもあるだろう。
向かわされた先には予想どおりの風景だ。
セレスティの手を少年の肩が引き受けると、おもむろに両手を合わせる織に、すぐに軽い揶揄がくる。
「屏風を拝んで、効果があんの?」
「こういうのは、気持ちの問題だよ」
笑って手を解く織の前には、黎明の風景。新年の祝いに、祈るは皆のさらなる多幸。改めて外に出たら、もう一度拝もうと思った。
「あ、そういえばあの紐さ」
「紐?……ああ、鏡を吊るのに使った長紐のことかな」
「そう、それ。あれ一本貰っていい?」
「もちろん。あのまま残していくものだから……処分に困る?」
結局、織の紐は三分の二ほどが使用され、本数は少ないがなんとか神社へ納めるものは手許に残った。もし少年がこれから片付けるのだとしたら、使ったものも回収していった方がいいだろうか。
織の懸念を少年は否定して、
「糸、気に入ったんだ」
そう、やわらかく微笑んだ。
どこか不思議な言い回しだった。気に入った、とだけいえば紐のことだろうが、糸に限定しての賛辞である。良い糸であるのは確かだが、それほど特別なものを使った覚えもない。
悩む織へ素直に礼の言葉を口にして、少年は屏風を指す。
クレインが、左手をそこへ添えたところだった。
いや、通り越し、屏風を抜ける。重い水面へ腕を差し入れたような波紋が出現していた。
「流れに、」
その感覚を楽しんでいるのか、屏風に吸い込まれてゆく手を見つめるまま、クレインは少年へと問う。
「こうして流れるに身を任せた結果は、どう思います?」
「引きずられて、ぎりぎり吉ってとこ?」
「それでもいちおうは、吉なのですね。……ここを去ることが良いことならば、なるほど吉にはなるのでしょう」
言葉とは裏腹、その表情はそれなりに満足の結果らしい。
クレインは無造作ながら優雅な一礼を残して、屏風の風景へゆく。
ここに来て一番の不思議な光景にしばし言葉を忘れた織だが、やはり躊躇いなく自分も屏風へ触れてみた。感触はないが、たしかに己の手は屏風をくぐっている。
セレスティへと挨拶して、少年へは、
「紐。祈りを籠めて、組んだから」
――永く幸せであるように、と。
大事にしてくれとは、いわなかった。祈りを籠めたから。その加護が君にも、あるといい。
屏風に入る。抵抗は、ない。夢から醒めるのかな……思うのが、最後だった。
「あんたで最後だ」
「そのようですね。……ここを去る前に、もうひとつの出口も、当ててみせましょうか」
上手は、セレスティ。その明確さをしめす口調で、銀の髪が風を感じず空中を流れる。扉向こうに、大きな水音。少年が苦々しい表情でそちらをちらりと見遣った。
「灯台下暗しとは、このことをいうのでしょうか?」
「……まんますぎないか?」
二人の眼前にはその光景はない。だがわかっていたし、視えていた。
――水の消えた穴の底には、両開きの扉があらわになっているはずだ。
「で、あんたはあの扉から外に出るのか?」
てらてらと水気の残る石床のイメージを脳裡に描きながら、セレスティはゆるく首を振った。
「楽な方を、選びましょう」
少年の肩を借りて屏風へ歩み寄る。蒼眸の美貌は微笑みのままに揺るぎない。
「他の奴には、楽な方法教えなかったのにか」
「下を向いているよりは、上に向かっていく方がいいでしょう?」
「あんたも上に行きたいなら、できないことはないが」
穴を登る手助けが可能だと、今更ながらに告げる少年へ、意地悪なのはどちらですかと難ずる台詞に戯れる声音のセレスティだ。
「それに、光へ向かっていくのも、悪くはありません」
そう、悪くはない。
悪くはならないだろう。そうせぬように、進んだのなら。
「少年」
「うん?」
「ご一緒にいかがですか?」
「今は、遠慮しとく。それにこの先は道案内も必要ないだろ」
「では……また時や場所が交わるか、キミの退屈しのぎの頃合いに」
「ああ。今度はあんたの暇つぶしに付き合ってやってもいい」
朝はもう、来ていた。
光に包まれるまま、こぞを背にして降りかえらず、セレスティも初日を歩いてゆく。
吉凶いずれか。
三朝の初明かり。
内から出で、あるいは入りて、その端に、答を知る。
去りゆくものは、淑気に抱かれ。
■ありてなければ
そうして、
榊遠夜は宿へ着き、
烏丸織は境内へ入り、
シュライン・エマは湯を沸かし、
クレイン・ガーランドは猫を抱き上げ、
守崎啓斗は瞳を開き、
守崎北斗は寝返りを打ち、
セレスティ・カーニンガムは乾いた髪を背に流した。
今日から、新年。
年が明けて、まだ数刻。
***
名残の波紋は、揺蕩う組緒のせいだ。
そのうちから一本を掬い取る。白の多く、細けき。
それを片手に巻いて、天へ腕を掲げた。
「獏の札、宝船――役を果たせ」
招く指先に、透明の糸。
釣られて闇に沈みゆくひとつの円とふたつの方形。
閉じきるきわ、糸は最後の光を吸って色を孕んだ。
銀縷。
吉宴、極まる。
<了>
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┏┫■■■■■■■■■登場人物表■■■■■■■■■┣┓
┃┗┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┳┛┃
┗━┛★PCあけましておめでとうノベル2007★┗━┛
【整理番号 / PC名 / 性別 / 年齢 / 職業(クラス)】
■東京怪談 SECOND REVOLUTION
【0086/シュライン・エマ/女性/26歳/翻訳家&幽霊作家+草間興信所事務員】
【0554/守崎・啓斗(もりさき・けいと)/男性/17歳/高校生(忍)】
【0568/守崎・北斗(もりさき・ほくと)/男性/17歳/高校生(忍)】
【1883/セレスティ・カーニンガム/男性/725歳/財閥総帥・占い師・水霊使い】
【6390/烏丸・織(からすま・しき)/男性/23歳/染織師】
■聖獣界ソーン
【0277/榊 遠夜(さかき とおや)/男性/19歳/陰陽師】
■サイコマスターズ アナザー・レポート
【0474/クレイン・ガーランド/男性/36歳/エスパーハーフサイバー】
□■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■□
■ ライター通信 ■
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正月遊びに穴一というものがあるのをご存知でしょうか。
……いえ、なんでもありません。
新年早々、お疲れさまです。今年最初に引いた御神籤は末吉でした、ライターの香方瑛里です。
元旦から穴のなかという不運な幕開けにもかかわらず、飛びこんで頂きありがとうございます。
それにしてもお届けが遅くなり、大変申し訳ありません。
意外だったのは「能力を使って××する」のような方法で穴の突破を考える方がいらっしゃらなかったことでしょうか。
どうやって全員を穴から抜け出させるかでいろいろと想像する楽しさがありました。
新年に関係する要素なども詰めこんでみましたが……なにより皆さまの個性を少しでも描けていたら嬉しく思います。
ありがとうございました。
本年が皆さまにとって良き年となりますよう。
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