PSYCOMASTERS TOP
新しいページを見るクリエーター別で見る商品一覧を見る前のページへ


<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


 甘美なる監獄

 言葉とはなんと無力な手段なのだろうか。己の想いを言葉にした途端、想いは陳腐な感情に分類され想いとは違うものになってしまう。俺が抱く想いが愛というモノならば俺の行動は許されるのか。憐憫なら‥‥それとも快楽や背徳ならばどうなのだろう。馬鹿馬鹿しい限りだ。想いに言葉を当てはめてその自由を奪っているのは人間だというのに、その言葉に人間は踊らされ本質を見失う。それが人間が人間社会で生きる上での枷だとでも言うつもりなのか。だから俺は言葉を信じない。言葉などに重きは置かない。俺の想いを知るのは俺だけでいい。他の誰に判って貰う必要もない。理解してもらう事も要らない。俺の興味の対象であるあの女にさえもだ。


 可愛らしい小さな子供がパーティ会場の片隅にたった1人で立っていた。壁を覆うように掲げられた紋章入りのタペストリーの下で所在なげに立ち尽くしている。やっと赤子から幼女へと生育したばかりのその子供は大きな目を丸くして、会場を見つめていた。普通パーティは夜に開かれるし、そこに招待されるのは大人の紳士淑女ばかりだ。社交界デビュー前の子供に居場所などはない。俺はおそらく不審そうな目つきをしていたのだろう。子供は俺の視線に気が付き、ゆっくりと顔を向けた。
 その途端、ドキリとした。俺の心の奥底でカチリと何かのスイッチが入ったのかもしれない。子供の汚れを知らぬ無垢で大きな目は……今はもう失われた懐かしい色をしていた。俺がこの唾棄すべき世界の中で最も美しいとかつては思っていた色。汚され光を失った堕天の色。
「あなた‥‥だぁれ?」
 柔らかい桃色の唇がたどたどしく言葉を発した。小首を傾げた様は宗教画に描かれたまさに天使の様だ。
「俺は‥‥」
 名乗るべきなのか。暫しの葛藤が俺の言葉を重くする。何もかも言ってしまいたい衝動と、同時にこの子供を破壊してしまいたい想いが凶暴に心の奥で荒れ狂う。
「お嬢様! あぁこんな場所においでになるなんて」
 子供の背後からしわがれた声が低く響いた。すぐに柱の影から地味なお仕着せをまとった老女が姿を現し両手で子供を抱きかかえる。
「おめめが醒めたら誰もいなかったの。おかーさまはどこ?」
「奥様はお忙しいのですよ、さ、参りましょう」
 老女は俺にごく簡単に会釈をすると、厳しい表情をしたまま今来た方へと戻っていく。
「おにーちゃまぁ〜」
 子供は身体を無理にひねり、哀しげな声をあげ俺に手を伸ばす。けれど老女の歩みは止まらずすぐに見えなくなってしまった。
「‥‥」
 その子供が持つ何かが俺を惹きつけた。いずれまた逢う様なそんな予感がどこかにあった。


 過去の事は真っ白な霧に覆われているかのように何も見えない。だから何も思い出せない。霧の中では幾ら目を凝らしても前が見えない様に、どんなに記憶を辿ろうとしても私の追跡はすぐに手がかりを失ってしまう。断片的な記憶は唐突に心の深海から浮かび上がっては私を時と場合を選ばずに私を混乱させる。だって信じられるだろうか。幼い私はかつて大天使に逢った。光の渦の様な場所で金色の髪と鮮烈な碧の目をした大天使はきらびやかな光をまとって私を見つめていた。悪魔にもあった。美しい悪魔は大天使と似た顔をして、人を引き裂き血に染まっていた。それともこの記憶も『ダミー』なのだろうか。わからない‥‥私が最も信じられないもの、それが私の記憶だから。
「ふぅ‥‥」
 深い溜め息が私の赤く染めた唇から漏れる。ふと思い立って席を立つ。
「お嬢様?」
 まるで千年も前から仕えていてくれているかの様な老執事が姿勢を正したまま声を掛けてくる。幾重にも厳重に警備を敷いた敷地内とは思えないほど静かな庭には私とこの老執事の他には誰もいない‥‥様に見える。もっともそうではないことを私は知っていた。だが、今はどうでもいい。私に敵意や害意を持つものではない。
「あそこに行ってくるわ。1人になりたいの」
「かしこまりました」
 老執事は王侯貴族に対するような恭しい礼をする。私は身ひとつで歩き出した。ゆっくりと5分も歩くと目的地が見えてくる。生体識別式施錠のドアをくぐると幾つかの小部屋を通り徹底的に洗浄される。身につけていたモノも全て脱ぎ捨て専用の服に着替えなくてはならない。面倒な手続きを経て奥へと進むと、熱帯雨林独特の外気が私の身体にまとわ
りついてきた。高すぎる温度と湿度は決して人が住みやすい環境ではない。けれど、ここは楽園だった。少なくとも私の目の前を飛ぶ艶やかな羽を持つ蝶達にはまったくもって住みやすい場所の筈だ。
「‥‥ただいま」
 私は小さくつぶやいた。今の私が持つキチンとした連続性のある最も古い記憶はここから始まっている。この場所で蝶を見ているところから今の私が続いているのだ。だからここは私が生まれた場所。もっとも懐かしい私の故郷。私は空に向かって両手を差し出す。その手に蝶達が集まってくる。


 俺は執事達から定期的に連絡を受ける。実験動物の生態機能測定研究者達が怠ることのないように、執事達は対象となる人物から目を離すことはない。或いは俺も、あの女と同じように執事達に監視されている立場なのかもしれないと思わせる静かな目をしている。分析するかのような目を、だが俺は嫌いではない。
「本日も旧2号実験室においでになっています」
「2号‥‥蝶か」
「左様でございます」
 俺が手を軽く振るとモニターの画面の向こうで執事は45度の角度で礼をし、そのまま画面が消える。
 あのパーティ会場で出会った子供はやはり素晴らしい潜在能力を秘めた逸材であった。俺を覚えているのかいないのか、それからも折に触れて俺はあの子供に会うことになった。数年後には制御出来ないままの力で己の友や母を殺した時は錯乱したあの子供を沈静させた。軍に力を知られ狙われ生体兵器に身を落とした。戻ってきたときはもう廃人であった。それを作り替えたのも俺だ。その頃にはもう俺は俺という者をよく把握していた。俺の可能性も限界も理解している。その上であの子供を引き取った。心も体も、出来る限りの時間と技術を掛けた。それは煩雑で面倒で根気のいる地味な作業であったが、少しも嫌になることはなかった。俺に無限の活力を与えてくれたのは‥‥恐らく怒りという感情だろう。何一つ出来なくなったあの子供は虚無を湛えた目をぼんやりと見開いていた。大いなる潜在能力を持っているにもかかわらずだ。その無力さが俺の心を逆撫でる。弱きこと‥‥それは悪だ。弱いからこそ蹂躙され虐げられていく。生きるには、生き延びて生き続けるのには相応の強さが必要なのだ。その強さを持てない者は死ぬ。あの子供の母の様に、家名に押しつぶされた俺の両親の様に。俺が作る者は力と美が麗しく調和してなくてはならない。死天使の様に典雅で、神々しくも美しい中に華麗な力と技が内包されていなくてはらない。そして、その心は風よりも自由であらねばならない。俺にさえ囚われてはならないのだ。俺は俺の為に、俺を越えるかもしれない神のごとき者を創り出す。誰に理解されなくても、それこそが俺の全てを賭けた快楽なのだ。


 蝶達を従えた銀色の女王は森の中にいた。この空気も木々の葉も蝶達も、そして女王その人さえも自然が創った物ではない。何もかも人の‥‥俺の手によって生まれたものだ。面倒な手順を踏んで降臨した神を迎えるがごとく、銀色の女王は俺を振り返って笑みを浮かべた。

 風が動いた。振り返らなくても私には誰がこの蝶達の楽園を訪れたのかわかる。その人の事はずっと前から知っていたような気がする。私が辛く哀しい時、その人はいつも私の側に居てくれたような気がする。私の霧の向こうに消えた記憶の中で、その人はまばゆく光る黄金の輝きの様に揺るぎなく私の心を照らしている。決して優しいだけの人ではないことはわかっている。その大きな手で頬を打たれた事もぼんやりと覚えている。けれど、それは私の為なのだということ私はよくわかっている。父の様に兄の様に、私の全てを慈しみ厳しく導いてくれる人。蝶達がさっと上空高く飛び立っていく。


 銀色の長い髪がどこからともなく吹き渡る人工の風になびく。蝶達の楽園とジェミリアスは呼ぶが、人の手が創り出した模造の園だ。バイオテクノロジー研究の為に作られた施設には慈悲も未来もない。ただ刹那の今だけがある。
「お久しぶりね。もう今日のお仕事はもう済んだの?」
 花の様な笑顔を向けてくるジェミリアスにクラウスは作り物の笑顔をほんの少しだけその顔に浮かべ、無言でうなずく。ほんの少し表情筋を動かしただけだ。随意筋なのだから造作もない。
「余程ここが気に入った様だ。暇さえあればここにいるのではないか?」
「えぇ。ここが好きなの。特別な場所だから。あ、そういえば昨日は写真集をありがとう」
「‥‥気に入ったようでよかった」
 探る様な目つきでクラウスはジェミリアスを見つめた。碧の瞳は冷たく優しい色を湛えている。
「勿論よ。とても綺麗だわ。哀しいくらい綺麗で‥‥胸がいっぱいになった」
 ジェミリアスの心を強く揺さぶるのは哀しいほどに儚い命、脆くも破壊されてしまいそうな自然。ほんの少し加減を誤っただけで消え去るものだった。自分の中に眠る強大な力の素因がそうさせるのだろうか。興味深いとクラウスは思う。この2つとない貴重な逸材をどのようにしたら長く楽しむことが出来るだろう。そう思いめぐらすときだけクラウスの硬質な顔に自然な笑みが淡く浮かぶ。
「何が良いことがあったの?」
 ささやかな気配を感じてジェミリアスは小首を傾げる。ある意味、彼女は恐るべき力を秘めた兵器であった。その起動鍵は柔らかな銀色の乙女の心に委ねられている。なんともスリリングな情景ではないか。
「良いことはこれから起こる。さぁ、今日からまた新しい別の薬を試してみよう」
 ゆっくりと近寄り、クラウスはジェミリアスを腕に抱く。
「薬は嫌いよ」
「わかっている。だが、これは必要なことだ」
「‥‥はい」
 そっとジェミリアスは頭をクラウスの胸に預ける。目を閉じた乙女は哀しげな顔をしているだろう。だがこれは必要な措置だ。俺の大事な駒を俺が求めるモノに仕上げる為に。
「薬を飲んだらまたここに来てもいい?」
「いや。今日は駄目だ。16時間は安静にしている必要がある。だが、その後でなら30分程度の散策を許そう。それでいいな」
「えぇ、ありがとう」
 ジェミリアスはクラウスを見上げて嬉しそうに微笑む。自分を抱く男の心の内も気が付いてはいない。この状態がそう長くは続かないだろう事をクラウスは理解していた。そもそも16時間後にはもうこの施設はない。そして薄々ジェミリアスも悟っていた。だからこそ、今この時が貴重だった。機械仕掛けの扉が開き2人の姿が消える。すぐに照明が消えたが、幾筋かの光が真っ暗な空間を引き裂く。それだけでそこにいた蝶達の命は消えた。燃え残った極彩色の羽の断片がひらひらと舞い、ゆっくり地面に落ちる。

 そこはもはやジェミリアスには必要のない場所だとクラウスは判断したのだ。来るべきその日の為の準備は着々と整っていくのであった。