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『雨宿り』
重たく灰褐色の空から雨が降り続けていた。
あたしの心にも空と同じように、分厚い雲がかかっているような気がする。
ほんの二時間ほど前に、通りすがりの男を街のチンピラから守った。けれど、心の中はどうもすっきりとはしなかった。チンピラを殴った手は、気分が乗らないまま暴力をふるったためか、手が腫れあがってひどいことになっていた。
「なにやってんだろう、あたし」
相手を殴れば、当然自分も痛い想いをする。それは暴力の代償だ。どんなに正義を振りかざしていようとも、暴力を振れば自分も相手も傷つけることになる。けれど、あのチンピラに平和的な解決なんて望めるはずもなかった。
相手を殴らなければ、あたしのほうがやられる。だから、暴力を振るって解決した。そのことにはなんの後悔もないはずなのに、あたしの心は重たい雲から抜け出すことできなかった。なにが自分の気分を落ち込ませるのか、どうしてもわからない。
「どうしたのよ、あたし……」
あたしは全力で駆け出した。
どこに向かっているのかわからなかったけれど、あたしは走らずにはいられなかった。後ろからつきまとってくる暗闇から逃げ出そうと、必死にもがいた。
全身がずぶぬれとなっていき、走り続けているのに、体が凍りつくように寒い。
やがてあたしは走ることをやめて通路の途中で、ゆっくりと歩き始めた。まるで迷子の子供のように不安でたまらない。なにが不安なのかわからなかったけれど、自分だけがひとり取り残されたような不安ばかりが広がっていく。
そんなとき、どんっとあたしは正面から誰かにぶつかった。
「おっと。悪い」
よろめいて倒れそうになったあたしを、誰かの腕が掴む。
「ご、ごめんなさい」
あたしは振り払うようにして、相手から逃げ出そうとしたが、
「おい、嬢じゃないか」
顔を上げると、よく見慣れた顔が目の前にあった。
男は筋肉質の体格をし、ノースリーブをしたTシャツを着て、ジーパンを履いている。それはまぎれもなく、あたしの知り合いのロック・スティルだった。
「……ロック」
ロックはサングラスの向こう側で、驚いたように目を見開いている。
「こんなところでなにやってんだ? なにかあったのか?」
ようやくひとりぼっちの世界の中で、誰かに出会えたような気がした。胸の中で押さえ込んできた感情があふれ出してきて、あたしはロックにしがみついた。
「お、おい。どうしたんだよ」
ロックが面食らったように声をかけてくるが、あたしは彼の胸に顔をうずめて泣いた。街の人たちが奇異な目を向けてくるが、そんなものにかまっている余裕なんてない。
「……嬢」
ロックは困った顔をしながらも、あたしの体をしっかりと抱きとめてくれた。
***
俺はいま弱り果てている。
昼飯を食べようかと街を出歩いていたら、唐突に雨が降ってきやがった。
どこかで雨宿りでもしようかと考えていたところで、知り合いの門屋嬢と出会った。それだけなら腐れ縁の仲間と知り合えたから、あとは昼飯でも一緒に食って別れるだけなんだが、どうもあいつの様子は、いつもと違っていやがった。
かなり雨に打たれたのか、全身をずぶ濡れにして、捨てられた子猫みたいに震えていた。
俺はどこかで嬢と雨宿りをしようかと考えたんだが、俺の家は嬢と会った場所からはかなり遠い。その間に、嬢が風邪でも引いたら困る。
仕方なく近くにあったビジネスホテルに入ったんだが……。
受付の男は絶対俺たちの関係を勘違いしただろうな。
服はホテルに頼んで、洗濯してもらえることになった。二時間ほどすれば、洗濯が終わるらしいが、その間、俺はあいつとこのホテルにいなければいけねえ。
まったく。俺としては嬢をホテルに連れ込んだみたいで、どうも後ろめたい。
いま嬢はシャワーを浴び、俺は窓際で雨が降り続ける街並みを見下ろしていた。
いまさら女とホテルに入ったぐらいで照れる年でもねえが、相手が嬢となれば別だ。まだあいつは十九だし、あいつとは腐れ縁で恋愛関係にあるわけでもねえ。
そんな奴とホテルに入るのは、さすがの俺も困り果てていた。
ガチャッとシャワールームから、嬢が出てきた。ホテルに備え付けの白いガウンを着ている。いつもはボーイッシュな嬢も、シャワーを浴びたばかりだからか、妙に女っぽい。
嬢もさすがに気恥ずかしいのか、視線をあちこちにさまよわせて、俺とは目を合わせようとしない。いつもなら軽口をたたき合う仲だが、妙にお互いに口数が少なくなってしまう。
「ね、ねえ、ロックもシャワーを浴びてきなよ。寒いでしょ?」
「いや、俺は平気だ。このままでいい」
自分の声音がかたいことが情けなかった。。
嬢とはなんでもない関係だし、仲間が俺の部屋でシャワーを勝手に使ったと思えばいいのに、なんで俺はこんなに狼狽えているんだ。ハイスクールのガキじゃあるまいし。
「ごめん。急に泣いたから驚いたよね?」
「まあな。なにかあったのか?」
嬢はベッドに背中を向けて座る。
それきり嬢はなかなか話をしようとしなかった。彼女は背中を丸めて、膝の上でぎゅっと手を握りしめている。
「別に話したくなけりゃ話さなくていい」
「……ううん。あたしはロックに聞いてもらいたいことがあるの」
嬢は消え入るような小さな声で答えた。
「あのさ、どうして人は暴力を振るうのかなって」
「また唐突な話だな」
俺が素直な感想をもらすと、嬢は弱々しく笑った。
「あたしは親父のように立派な人間になりたくて、いまいろいろと試している最中なんだよ。でも、あたしは自分のやっていることが生半可な気がしてならないんだ」
「……そうか」
「人間はいろいろな理由で暴力を振るって争いを起こす。その争いはいずれ戦争さえ引き起こす。でも、そんなことをしてる動物は人間だけじゃない。
他の動物は自分の身を守るために暴力を引き起こしても、人間のように憎しみや怒りやそのほかいろいろな感情で起こすわけじゃない。あたしは体を鍛えているけれど、それさえもただ相手を傷つけることにしかならないのかなって」
嬢の言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
『なんのために、俺たちは暴力を振るうのか?』
それはかつて俺の相棒が、口にした言葉でもある。
国家のため、正義のため、あるいは家族を守るため。
いくら大儀を振りかざそうとも、俺は数え切れないほどの命をこの手で奪ってきたことには変わりはない。俺の手で殺した奴らにも当然家族はいただろうし、仲間もいたことだろう。けれど、それを俺は大儀を振りかざして簡単に命を奪い取ってきた。
そのことで悩んでいた時期もあるが、いまはその悩みも消えている。
「おまえの抱えている問題は、誰にも答えられないものだ。たくさんの人を殺してきた俺にだって、おまえの悩みを解決してやることはできねえ」
「……そっか。ロックなら答えがわかると思ったんだけどな」
嬢はさびしそうに笑う。
「でもよ、答えは誰かに求めるもんじゃねえだろ? 他人の真実がおまえの真実とは、かぎらねえじゃねえか」
「……どういうこと?」
「おまえは誰かを傷つけるためだけに体を鍛えているのか?」
「違う。あたしが体を鍛えているのは、誰かを守るためだよ。悲しいけれど、力がなければ誰も守ることができない。だから、あたしは自分の体を鍛えることで、家族や仲間や困っている相手を助けられる人間になりたいんだ」
嬢は顔を上げてはっきりと俺に告げる。
その答えがかつての相棒と同じだったことに、つい俺は苦笑した。
「それがおまえの真実なんだろう? おまえは誰かを傷つけるために暴力を振るいたいわけじゃない。誰かを守るために戦い続ける。だったら、それでいいじゃねえか」
「じゃあ、ロックは? ロックはどうして戦おうとするの?」
嬢がベッドから身を乗り出して問いかけてくる。
「おい。身を乗り出すな。目の毒だ」
あっ、と嬢は声を上げてガウンの胸元を押さえる。
子供みたいな嬢を見て、俺の頬はゆるんだ。
「俺は俺が人を殺すことで戦争が早く集結することを祈りながら戦い続けている。早く世の中がもう少しましなほうになればいいと思い続けな。それが俺の真実だよ」
「ロックらしいね」
嬢は目を細めて微笑みかける。それは見惚れるほどにきれいだった。
俺は年甲斐もなく顔が火照っていき、帽子を目深にかぶった。
「結局は人それぞれなんだよ。俺には俺の真実があるし、おまえにはおまえの真実がある。だから、ひとつの絶対の真理をさがそうとすること自体が無理な話なんだ」
「そっか。そういうことなら納得ができるかな」
「だから、おまえもいちいち突き詰めて考えるな」
嬢はくすりと笑って、深くうなずいた。
「……あっ」
嬢が声を上げて窓の外を見つめた。
俺も一緒になって振り返ると……。
雲の切れ間から青空がのぞいていた。
***
「ロック、今日はありがと」
あたしが礼を述べると、ロックは照れたような顔をしていた。
顔は怖いけれど、ロックの純朴なところがあたしは好きだった。ホテルに洗濯してもらった服に着替えると、あたしとロックはホテルから外に出た。
あれほど分厚かった雲はまたたく間に消えていき、空は青空が広がっている。そんな青空を見ていると、ふいに太い腕に引き寄せられた。
急なことにあたしは目をぱちぱちさせたけれど、不思議と抵抗はなかった。親父に抱きしめられたみたいに、ほっとしていた。
「もしこれから困ったことがあったら俺を呼べ」
「……ロック?」
「俺とおまえは腐れ縁の仲だ。悩み事があったら、俺がなんでも聞いてやる」
あたしは『人がなぜ暴力を振るうのか』という答えをまだ見つけられていない。けれど、もっと大切なものを見つけられたような気がした。
そして、あたしたちは一緒に青空の下へと歩き出していった。
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