<東京怪談ノベル(シングル)>


心の泉

そろそろ長い日も翳ろうと言うこの時間、この街は一番活気付くような気がして、そんな様子を宿屋の窓から眺めるのが最近のユリウスの楽しみだった。交易の中心であるこの街は、周りにある何処の大国の支配も受けない、言わば中立の立場を保っている事も、この自由な空気の理由かも知れない。日中の商売を終えて屋台を畳み、自宅に帰って団欒を過ごそうとする者がいる一方、これからが稼ぎ時とばかりににわか色めき立つ、どう見ても賭事師か美人局のような職業の者もいる。夜が深まれば、酔い潰れる者の懐から掠め取ろうとするこそ泥が、そして夜が明ける頃には残った残飯を求めて彷徨う浮浪の者達。決して治安がいいとは言えないこの街だが、暮らす者それぞれが己に正直な所がユリウスは気に入っていたのだ。自分は旅の身の上でこの街には立ち寄っただけだからそう思えるのかも知れないが。
 開けた窓から吹き込む潮風が、彼の細く艶やかな金色の髪を揺らす。背中の真ん中辺りまであるその長い髪の一筋が、ユリウスの尖った耳に引っ掛かって頬を擽った。それを指先で避けて後ろへ流す、白面で端正な顔立ち。見た目の年齢よりは遥かに長い時を生き続けている彼は、その見た目通りにエルフである。尤も、その薄紫色の瞳が示すように、人間とエルフの間に生まれた、言わばハーフエルフではあったが、それでもユリウスはエルフとしての特徴は余す所なく受け継いでいた。

 ユリウスが、窓脇に肘をついて眼下の、屋台を閉める父親を迎えに来た幼い男女の兄妹を微笑ましい眼差しで見詰めていると、遠くで教会の鐘が鳴った。そろそろ食事の時間だろう、と彼は身を起こして部屋を出、階下へと降りていく。彼の連れ添いが一足先に食堂に行っている筈なのだ。ユリウスが夕暮れの街並みを眺めるのを楽しみにしているのと同じように、彼は人いきれの雑多の中で、ワインを味わうのを何よりも楽しみにしているのだ。

 宿の階段を降りて一階にある食堂へと向かう、その階段の途中でユリウスは足を止めてざわめき立つ食堂兼酒場内の様子を見詰めた。ここには、さっき表の通りであったようなざわめきが、また違う形で存在する。喧騒も甚だしいが、その分華やかで艶めき、活気に満ちていた。
 この街が交易の、そして旅の拠点である事も関係するのか、そこには実に多種多様な種族が交わり、席を同じくしていた。人間は勿論、エルフやグラスランナー、ドワーフにホビット。滅多に人の多い所には姿を現わさない、竜人族の姿もある。そんな中、隣の席に居合わせた男と意気投合したのか、彼が朗らかな笑顔を向けながら何やら雑談に応じている。その様子を、さっき父親を迎えに来た子供達に向けたのとは、また違った優しい視線でユリウスは階段の中程で立ち止まったまま見つめ続けた。

 混雑する食堂内で、彼の所だけが何か空気が違うような感じがする。それは彼がとある国の第一王子、所謂王位継承者故の生まれ持った気品、威厳の所為なのだろう。だからと言って、それは意味も無く人を威圧して平伏させようとする類いのものではなく、もっと自然でもっと穏やかな、会う人全てを違和感無く自分の中に引き込んでしまうような魅力であった。そりゃ、約束された未来、王位を蹴って私と旅に出ようなどと思い立つような、実に自由な思考を持った彼だから当たり前なのかもしれませんね、そっとユリウスは微笑んだ。
 だがふと、その笑顔に僅かながら影が混じる。その、自分の興味や細やかな野心、そして愛する者への愛情を最優先で全てを選択する彼の生き方は、ユリウスにも安らぎと優しさを与えてくれている、だがそれは本当に正しい選択だったのだろうか。恋人として彼を己の隣に、それはこの上ない幸せであるのだが、そんな彼のぬくもりを、自分一人が独占していいのだろうか。彼は、紛れもなく賢王となる素質を持った男だ、であれば、国民全ての幸せの為に、本当は、彼を国に残らせて王となって立派に勤め上げるようにと、説得すべきだったのではないだろうか。
 …私は、自分の欲求の為だけに、彼を振り回してしまったのではないだろうか。
 しかも自分の欲求は、確実に誰よりも長く大きく膨れ上がっていくだろう。ハーフエルフの生が、人間よりも遥かに長い事だけを鑑みても、何の支障も無ければ彼の一生は自分と共に捧げることになるだろう。…それで良かったのだろうか。

 ユリウスの脳裏に、今、銅の器に入ったワインを飲み干そうとしている彼と良く似た風貌の、一人の男の姿が浮かんだ。それはとある大国の王、恋人の父親に当たる人物だった。
 縁あってユリウスは、二代に渡って同じ血筋を引く男達と関わる事が出来たのだ。どちらも思い出深い、素晴らしい出会いと経験になるだろう、ただ、生きているうちに彼の父親に二度と会う事叶わなかったように、彼の死を、また己が見送る事になるのだろうが。
 そんな思いは、時折ユリウスを出口のない迷宮のような不安に駆り立てる。エルフの寿命が人とは比べ物にならないほど長い事を知らなかった、幼い頃はまだ幸せだった。周りの友達や大人達と、同じように年を取っていけるのだとばかり思い込んでいた。のちに事実と真実を知り、どうせならとその長い寿命を活かしてあらゆる勉学を身につけ、人の役に立てればと思った。そうしてもしかしたら、いつかハーフエルフがエルフの血を捨てて人間になる術も見つかるのではないか、と。勉強することは好きだし楽しい、知識が増えていくのは嬉しいし、自分の知識が必要とされる事も誇らしい。だが、時折、自分は幾ら学んでも学んでも辿り着く先がない、底無し沼のような人生なのではないかと言う不安に駆られる時もある。それはきっと、エルフ達だけに囲まれて過ごしていれば感じるの事の無かっただろう不安だ。人や他の種族と交わって生きる事を選んだエルフなら多かれ少なかれ感じる事だろう。ユリウスは、特に身近に彼と言う存在があるから、強くそう思うのかも知れない。

 考えても詮無い事、とユリウスは緩く頭を左右に振って思いを吹き飛ばし、凍り付いていたようになっていた足を前へと踏み出す。人の波をすり抜けて愛しい彼の元へと、取っておいてくれた隣の席に音も無く滑り込んだ。ユリウスに気付いた彼が身体ごとそっちを向いて笑みを向ける。人々の視線をかいくぐって、ユリウスの白い頬に軽くキスを落とした。
 「…もう、人が見てますよ」
 照れ半分悦び半分で、諫めるようにユリウスが笑う。男同士であると言う事よりも、ユリウスにとっては彼はまだ王族の人間であり、そのために行動を謹まなければならないと思っている節があるのだ。しかし動じた様子も無く、彼はテーブルに頬杖を突いて軽く声を立てて笑う。手を上げてユリウスの為に、そして自分にもワインを、そして何種類かの料理を注文した。
 「なにか考え事をしていたようだが、もういいのかい?」
 悪戯っ気な表情で彼が笑う。どうやら、さっき階段の途中で立ち止まって思いに耽っていた事に気付かれていたらしい。困ったように笑いながらユリウスが首を左右に振った。
 「別に、考えたからって答えの出る事ではありませんでしたから」
 「そうか。誰かに話して解決するような事なら聞かせて貰いたいが、そうでないのならしょうがないな。そうして考え事をしているユリウスを見ているのも好きだから、別に構わない。それに、ユリウスは考える事自体が好きだろう?」
 「それは確かにそうなんですが、考える内容が違いますよ。学問の事を考えるのは好きですよ?でも、……」
 「先の事なんか考えても、答えは出ないよ。精々、明日の朝飯に何を食おうか、とかその程度。考える事自体は悪い事じゃないと思うけど、それに囚われて笑顔を失ってしまうぐらいなら、考えない方がマシだな。それよりは、今何をしたら楽しいかとか役に立つかとか、一緒に居て為になる事とか幸せになる方法とか、そう言うのを考えた方がいいと思わないかい?」
 そう、彼が言って屈託なく笑う。酒場の女が運んで来たワインの器をお盆から二つ受け取って、一つをユリウスに手渡す。それに自分の器を軽く触れ合わせて乾杯と感謝を捧げてから、またさっきのように一気に半分程飲み干した。
 「飲み過ぎですよ。もう少し自重したらどうですか」
 「ん、此処のワインは旨いんだよ。ついつい飲み過ぎてしまうけど、ユリウスが来たからこれで最後にするよ。ユリウスを怒らせると怖いからな」
 「怒らせると、って…私があなたに怒った事が一度でもありますか?」
 心外だとでも言うように、呆れたような困ったような、そんな笑顔を浮かべてユリウスが肩を竦める。その様子を見て彼が楽しげに笑った。
 「今のところは無いけどな、そのうち見られるかも知れないだろう?これからまだ共に過ごす日々は長い。何が起こるか分からないのが、人生の醍醐味さ」
 そう言って片目を瞑って見せる。くすくすと小さく笑って肩を震わせた。ユリウスも、わざと溜め息混じりの幸せな笑みを零してワインの器に口を付ける。甘く、適度に冷たく、そして少しだけ酸味のあるそのワインは、滑らかにユリウスの喉を流れ、そして潤していった。