<東京怪談ノベル(シングル)>
銀貨一枚
「よォ、アンタ思った通りいい腕だな。また機会があったら頼むぜ」
ご苦労さん、と労いの言葉と共に、クラインの手の平に、一枚の銀貨が落とされる。その、少し泥に汚れた硬貨をぐっと握り締め、クラインはいつもの屈託ない笑顔を向けた。
「ああ、こちらこそ頼む。いつでも喜んで引き受けよう」
「そう言って貰えるとこっちもほっとするぜ。じゃあな!今夜はそれで豪勢なメシでも食ってくれよ」
そう言うとさっきまでの雇い主は、手をひらりと振って再び馬の背に昇る。毛足の長い、北方系の特徴を備えたその斑模様の馬にひとつ鞭をくれ、そのまま男は振り返りもしないで去って行った。クラインは、その背中を暫くは見送っていたが、この平原で姿が見えなくなるまで、なんて言っていたらそれこそとっぷりと日が暮れてしまうので、適当な所で切り上げると踵を変え、いつもの宿屋へと向かった。
偶然宿屋の食堂で隣り合わせた男が、この宿場町から程近い場所にある洞窟に行きたがっていると知ったのはただの偶然だった。そこは、火傷治療に抜群の効果を発揮する苔類が群生している事で有名な洞窟なのだが、そこまで辿り着くのには勿論、中に入ってからも苔類の群れ生える場所までには野生の獣に盗賊、果ては魔獣まで無数に蠢いているとあって、並大抵の事では近付く事も叶わない。この男はそこまで言って帰って来る間の護衛を捜して、それらしき人物に片っ端から声を掛けていたのだが、みんな、報酬の良さには目が眩み掛けるものの、矢張り命には替えられないとばかりに断ってばかりいた。クラインに話が持ち掛けられたのはその宿屋では最後の最後だったのだが、承諾した時のその男の顔は忘れられない。それこそ、地獄で仏とは男にとってはこの事だったのだろうな、とクラインは思い出して口許に笑みを刻んだ。
行って帰って、計丸二日あまりの仕事。戦闘は勿論の事、どの道を辿ればより安全に着けるかを予測して、盗賊共の裏を掻き、獣達に悟られないように匂いと気配を消して。そんな、全てにおける総合的、且つ的確、冷静な判断力で無理のない旅が出来た。男にも己にも疲労はあれど目に見えるような傷は一つもない。その疲労さえ、今は仕事を完璧に達成したその手腕に酔っているかのよう、気怠さが心地好いとさえ言えるほどの高揚感を与えて来る。手の中に握り締めた銀の硬貨、この一枚の重さが身に沁みるようだ。これでいつものワインを飲んだら、そりゃ美味いだろうな、としみじみ思う、仕事の後の一杯はいつも最高なのだが、そう言うと自分の連れはいつも困ったみたいな笑みを浮かべる事を思い出した。
何も好き好んで危険な仕事を引き受けなくとも、と彼はいつも言う。いや、危険な、と言う形容詞すらつかない時の方が多いか。何も仕事をわざわざ引き受けなくてもいいではないか、と。路銀には困ってないんですよ?それよりも、あなたが身体を壊したり怪我をしたりするかも知れないと思う方が、私にとってはよっぽど辛いんです、そう告げるハーフエルフの彼と共に旅をするようになってどれぐらいの時が経っただろう。
確かに彼の言う通り、路銀に困る事はない。勝手気ままで自由な旅、しかも己に生まれながらにして課せられた重責を放棄しての我侭な振る舞いにも係わらず、国からは使い切れない程の金が定期的に送られて来る。持って歩くのも危険なので、行く先々で内密で人々や街に施したり、或いは貯えとして信用の置ける人物に預けたりしている程で、旅の途中で仕事をする必要などは本来は全くないのだ。だが、その環境にクラインは己を甘えさせることを好まず、基本的に生きていく為の糧は己の力で得ていた。
何故か。楽しかったからだ、単純に。自分の力で汗水垂らして働き、その報酬として幾許かの金、或いはそれに代わる品を受け取る。その、当たり前の日常生活が、今まで雲の上で何不自由ない生活を送って来たクラインにとっては凄く新鮮であったからだ。
王族であった己の元にはそれに付き従う大勢の者達が、そしてそんな自分達の生活を底辺で支えているのは、日々労働に勤しむ一般庶民である、そんな事は承知してはいたが実際その中に入って生活を共にすれば想像外の出来事の連続であった。下町は思った以上に活気に満ち溢れ、貧しいながらも力強く生きる者達、そしてクラインの想像以上に庶民はしたたかで薄汚く、疾しい。それらはすべて、ただひたすら生きる為の手段であると知り、それからクラインは己の腕で糧を得る事を選んだのだ。国から得られる銀貨一枚と、ついさっき得たばかりの銀貨一枚。それはどちらも同じ価値を持った硬貨であるが、クラインにとっては全く違う価値のものに思えたのだ。
だが。それらは全て、裕福で満たされた生活を送ってきた自分の、下らない感傷なんだと言うことも承知している。国は末端まで豊かで飢えるものも凍えるものもいないが、こうして旅に出ると分かる、食べる物どころか、飲む物さえ無く、飢えて干乾びて死んで行く者達、たった一枚のパンの為に人の命を奪おうとする者達。以前の自分のように、いや今の自分のように、何もしないで生きて行けるのならどんなに幸せかと思う者も多いだろう。皆、夢と希望を持って日々の労働に心地好い汗を掻いているとは限らないのだ。
彼がクラインが仕事をする事に否定的なのは、多分こう言う事をすべて彼も分かっていて、決して明るくはない現実に自分が打ちのめされる事を案じているから、と言うのも知っている。心配されるのは悪い気はしないが、彼にとっては己は、いつまで経っても大国ヴァスティール王国の王子なのだろうと思うと、少し苦笑いが浮かぶだけだ。
それでもクラインは仕事を請け負うことは止められない、こうして数日彼と離れて暮らす仕事であっても、興味を引かれればそれに従う。寂しがらせているだろうなとは思っても、一人にして心配だとかそんな事は思わない。彼は彼で、柔和な見た目よりもずっと強くしたたかで逞しく、己に与えられた人生を生き抜く力を兼ね備えている。逆に言えば、彼は彼で生きて行くだけの何かを持っているから、自分はそう言う仕事に打ち込めるのだ、と。
宿屋のドアを潜ると早い夕食を取ろうとする宿泊客で食堂は賑わっていた。そこを抜け、クラインは借りている部屋へと向かう。夕暮れのこの時間帯なら、彼はまた窓から外の風景を眺めている所だろう。おかえりなさい、と自分を出迎える彼の姿が目に浮かぶようだ。無事な己の姿を見て一安心、そして仕事の出来栄えに満足している風の己の様子に、自分の事のように嬉しげにする彼の姿。彼は、知っていてくれるのだ、何不自由ない暮らしを送って来た自分、それにはそれで悩みも苦しみもあると言う事。贅沢な悩みだと言う人も居るかも知れない、それは真実かも知れない。だが、選ばれた者だからこそ、その身に感じる苦悩や不安はあるのだ。そしてそれらは選ばれなかった者達には決して分かり得ない。そんな、孤高の心を彼は分からずとも理解しようと努めてくれる。だからこそ、傍に居られるし、彼を一人置いて出掛ける事もできるのだ。
部屋の扉をノックし、開けば予想通り窓際に彼が居た。己の姿を見て嬉しげに顔を綻ばせ、歩み寄る、何事も変わりない様子の彼の姿に、また自分もほっと安堵している事に気づく。握り締めた手の中の銀貨、それを彼へと見せながら、この二日間であった事を話して聞かせた。
その中で、一番彼が笑ったこと、それは、先程の男が何故クラインに最後に声を掛けたのか。そんなに俺は役に立ちそうに無かったかい、と揶揄い気味に問うクレインに男は、そうではない、と苦笑いをした。そして答える。
腕は立ちそうに見えた、だが金に困っているようには見えなかったんだ。
おわり。
☆ライターより☆
再びのご依頼、ありがとうございました!碧川桜です。今回は少々お待たせして申し訳ありませんでした(平伏)
さて、おまかせと言う事で今回はこのような形に仕上げてみましたが如何だったでしょうか?毎回の事ですが、イメージ等、もしも違った場合はご容赦くださいませ。クラインの、もっと男前な所を描きたかったのですが、何となく今回は生活感溢れるお話にしてしまいました(汗)
ともあれ、お気に召して頂ければ幸いです。本当にありがとうございました。
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