<東京怪談ノベル(シングル)>
月の精霊
家に帰るのは一月ぶりだった。
通常だったら閉ざされて朝を待つべき城門を開けて街に入れるのは、彼女が所属している国家安全保安局のおかげであり、そして用意された家――一応一軒屋である――、も国家安全保安局の物だ。
何故一軒家なのか、たいした理由はない。単純に寮が空いていなかっただけだ。
実際問題として他人と関わりあうのが苦手なサイ・ヴィルヘルムにとって一軒屋が割り当てられたのは幸運だったと言える。
しかしこんな夜にはそれも良し悪しだ。
月のまだ出ない星空の下、灯りのついていない家に帰るのは侘びしいものだからだ。
(……いつもの事の筈なのだけれど……)
どうしてだろう、昔は暖かい家に帰った事がある気がする。
ある筈のないそんな記憶をため息に代えて吐き出してから、サイは漸くついた家の前に立った。表情が変わったのはその時だ。
足が自然と開き、そして内股に力が入る。少し腰を落としてジャケットの内側に右手を滑り込ませて左手で戸を大きく開いた。
「そこにいるのは誰です!?」
相手は気配を消していなかった。サイの銃口は自然とその気配に向けられ、そして銃口を下げた。
「う、うわああっ」
派手な音を立てて少年が転んだのはその直後の事だ。
金髪と青い目の子供だ。年の頃は十くらいだろうか。――悪しき気配は、ない。
そこまで観察してからサイはため息をついた。なんでこんな子供がサイの家に入り込んでいるのだろう。
「あなた、こんな所で何をしているんです?」
自分の家なのにこんな所もないか、とサイは口に出してから思った。おかしいと思ったが改めて言い直すのも憚られる。
「ゆ、幽霊!?」
「違います。この家の主よ」
さて、国家安全保安局が借り上げたこの家は果たしてサイの家と正確には言えるのだろうか。そんな事を思いつきサイは更に説明するべきかと悩んだ。――惜しむらくはそれが一切表情に出ないという事だ。
闇夜に融け込む黒い髪と男装――これも黒い――、浮かび上がる白い肌と金の左目、そして胸元のクリスタル。整った顔立ちはどこか物憂げで今にも消え入りそうだ。淡々と語るその口調は静かである。そして、突然現れた。
ここまで来ると確かに幽霊の類と間違えても仕方がないが、それはサイにとっては思いもよらぬ事だ。
結果、どうして目の前の子供がそこまで怯えているのか見当もつかずにサイはため息をついた。そして、今更根本的な疑問を覚える事になる。
「あなた、どうしてこんな時間にここにいるのです? 子供はとうに寝ている時間だと思うのだけれど……」
「こ、ここにあるって言われたんだ。だからお化け屋敷だって聞いてたけど」
泣きそうな声で答えられてサイは密かに傷付いた。たった一月で何故お化け屋敷扱いされるんですと文句を言いたくなったが、誰に言えばいいのかもよく判らない。
「お化け屋敷……一月家を空けただけでひどい言われようね。で、何がここにあるんですって?」
「しょ、肖像画。家族揃ってるヤツ、あれだけしかないんだ。母ちゃん、死んじまったから」
死んだ母、何故かサイはそれを聞いてひどく哀しい気分になった。何故そんな気分になったかは判らないが、この少年の探し物に付き合ってやろうと思う。
銃をしまうと座り込んだ少年の傍らに膝をつき、いまだおっかなびっくりといった少年を覗き込んだ。
「怯えなくて良いですよ。私はちゃんと生きた人間です。で、それはどのくらいのサイズなの?」
これくらいと手で示す動作に頷きサイは部屋を探す事にした。少年がついてこようとして倒れた椅子に躓いて転んだのを見て不審そうに振り返る。
「どうしました?」
「……暗いから見えないんだ」
少年の言葉にサイは小さく笑い、テーブルの上からランプを取ってつけてやった。少しの明るさを取り戻した部屋で少年は漸く安堵のため息をついた。暗いのが余程怖かったらしい。
「夜目が効かないのにどうやって部屋を探すつもりだったんですか?」
「だって泥棒と間違われたら困るじゃないか」
「お化け屋敷に泥棒に入るの?」
「やっぱりお化け屋敷なんだ?」
「違います。ちょっと面白いと思っただけ」
「姉ちゃんお化けじゃないの?」
「……違うわ」
自分がなんなのかは正確にはサイには判らない、だからこその沈黙を少年は勘違いして不安そうな顔になった。
「怒った?」
「いいえ。何故です?」
「だって黙ったから」
「そう……。どうやらこの部屋にはないみたいですね」
奥の扉を開けたサイは少年が眉を寄せて立っているのに気が付き不審そうに振り返った。
「どうしました? 肖像画を探すんじゃないの?」
「探していいの?」
「大切な物なんでしょう?」
うんと少年は勢い良く頷きサイの後にくっついて歩き出した。
少年の探し物は寝室で見つかった。少年によく似た面立ちの儚げな女性を見て、心が少し痛んだのは何故だろうか。
「へへ、母ちゃん美人だろ?」
「ええ。見つかってよかったわね」
「ありがとう、姉ちゃん」
少年が満面の笑顔を浮かべるのを見てサイは小さく頷いた。こういう時どうやってあげれば良いのだろうかとサイは思う。口に出来たのは他愛もない言葉だけだ。
「一人で帰れますか?」
「へっちゃらだよ!」
戸口まで出てからサイは少年にランプを手渡した。驚いた少年にサイは躊躇いながら言う。
「こけたら危ないですから。気をつけなきゃいけませんよ?」
「うん。あ、ほら、姉ちゃん月が出てるよ」
半分に欠けた月が東の空に浮んでいた。黄金色のそれを見上げて少年は言った。
「姉ちゃんの目の色だね。綺麗だなあ……空も姉ちゃんの色だよ」
成程。確かに空の闇色も月の金色もサイの持つ色彩である。唐突に駆け出した少年が振り返って手を振った。
「ありがとうなー! 月の精霊の姉ちゃんっ」
「……だから私は人間だったら」
最後まで何か誤解していた少年に向かって届かない声でそう言い返したサイだった。
翌朝、朝というには太陽が上がりすぎた頃、同僚がやってきた。どうやら門番から帰ったという話を聞きつけたらしかった。来たのは料理上手と評判の妻を持つ男だ。細君お手製のお昼ご飯付きである。
「気を使わなくて良いのに」
「いや、一月も外に出ていたら食料もないだろうしと思ってね」
「確かにそうですけれど……ありがとうございます」
「あ、そうそう。あと、これ」
男が示したのは足元である。サイの視線もそれを追って下を見た。
戸口の脇に小さな花と袋と手紙――そして、ランプ。
不思議に思って拾い上げてみるとへたくそな字が見えた。
「月の精霊の姉ちゃんへ ありがとう。これはお礼だよ」
最後に少年の名前があった。そう言えば名乗っていなかったと思い起こしながらサイはため息混じりに言った。
「月の精霊じゃなくてサイよ。今度会ったら名乗らなくちゃいけませんね」
浮んだ笑顔はひどく楽しげであった。
fin.
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