<東京怪談ノベル(シングル)>


クリスのおつかい
「じゃあ、お願いよ。クリス。」
 そう言って微笑むママから、小さな布の袋を受け取ると、クリス・ハイフマンはそれをぎゅっと抱きしめた。
「うん、行ってきます!」
 バイバイとママに手を振ると、クリスは元気良く歩き始めた。

 ママからの頼まれ事は、家から少し離れたところにある食堂までお買い物。
 一緒に暮らすおばあちゃんの好物であるキドニーパイを買いに行くのだ。
 食堂まではそう距離もない。大人なら10分ほどのところだし、それにはじめてゆく場所でもない。ママと何度か食事に出かけたことのある店だ。
 しかし、クリスはまだ三歳。
 念のためにと持たせたママの手書きの地図も、なんだか不思議な呪文のように見える。
 時々大人びた仕草を見せるクリスだが、やはり子供は子供。
 ちょっと不安そうな顔で‥‥お店へと急いでいた。



「おねぇちゃんのお店♪おねぇちゃんのお店のキドニーパイ♪」
 クリスは袋を抱きしめたまま、鼻歌まじりに道を歩いている。
 お店まではまだもうちょっと。石畳の道を真っ直ぐ行ったところ。
「あらぁ?クリスちゃん、どこへ行くの?」
 表で水を撒いていたパン屋のお姉さんが声をかけてくる。
「おねぇちゃん!」
 クリスは、てててっとパン屋のお姉さんの方へ駆け寄る。
 パン屋からはパンとお菓子の焼ける甘くていい匂いがする。
「お使いだよ!一人でいけるんだっ♪」
 少し舌っ足らずな口調で、クリスは一生懸命言う。
「ボクねっ、パイを買いに行くの!おねえちゃんのお店だよっ!」
「パンを買いに来たの?」
 パン屋のお姉さんはにっこり微笑むと、クリスの頭をくしゃっと撫でた。
「じゃあ、お姉さんが、美味しいのを持ってきてあげるわね。」
 そう言うと、パン屋のお姉さんは袋にシナモンのかかった大きなパンを入れてくれた。
「クリス君が一人で買いにきてくれたお駄賃に、今日は御代はいいわ。ママと一緒に食べてね」
「う、うん?」
 なんだか良くわからないが、袋の中にパンが入った。
 シナモンの甘い匂いがして、とっても幸せな気持ちになる。
「ありがとう!おねえちゃん!」
 クリスはにっこり微笑むと、大きな声で礼を言った。
 何かもらった時はありがとうって言うのよ、ってママも言ってた。
「じゃあね、クリス。ママによろしく」
 クリスの笑顔に幸せな気持ちになった、パン屋のお姉さんはお店の中へと戻って行った。



「おねぇちゃんのお店♪おねぇちゃんのお店のキドニーパイ♪」
 クリスは再びパンの入った袋を抱きしめて、鼻歌まじりに道を急ぐ。
 パン屋さんを過ぎたから、食堂はもうすぐ。目印は木の看板。
 ところが、幾ら歩いても、見覚えのある看板が見つからない。
「・・・あれぇ?お店、ないよぅ・・・?」
 クリスは胸の中に悲しい気持ちが広がってくるのを、必死に紛らわせながら道を歩いた。
「おねぇちゃんのお店♪・・・おねぇちゃんのお店のキドニーパイ♪・・・おねえちゃんのお店はどこ?」
 歩いても歩いてもお店も看板も見つからない。
「お店・・・」
 通りを馬車が駆け抜けてゆく。
 初めて一人出歩く道は、ママと一緒の時と比べると全然違って見えた。
「ふ・・・ふぇぇ・・・」
 突然心細くなって涙が出てくる。
 来た道を駆け戻って、ママのところに帰りたい。
 でも、クリスはママと約束してしまった。
 キドニーパイを買って帰るよって。
「坊ず、どうした?」
 涙を我慢しながら道端にしゃがみ込んでいると、背の高い人が声をかけてきた。
「なんだ、迷子か?」
 迷子。その言葉に、クリスはまた涙が出そうだったが、ぐっと堪えて言い返した。
「違うよっ!お使いだよ!ママに頼まれたキドニーパイ!買って帰るんだよ!」
「そうか。」
 その人は、クリスをひょいっと抱き上げる。
「キドニーパイと言うことは、食堂へ行くところだったのか?」
「うん、おねえちゃんのお店だよ」
「では、この通りの向こう側だ。馬車が危ないゆえ、私が共に渡ろう」
 そう言うと、その人はクリスを抱きかかえたまま通りを渡った。
(男の人かと思ったけど、花のいい匂いがする。もしかしたら、この人もおねえちゃんかな?)
 そんなことを思っているうちに、探していた看板が見えた。
「あ、おねえちゃんのの店!」
「やはりここか。」
 そう言うと、クリスを下に降ろした。
「帰り道、気をつけるのだぞ。」
「ありがとう。おねえちゃん!」
 クリスは涙を拭って笑って言った。
 それを聞いて、その人もにこっと笑って通りの向うへと姿を消した。

 クリスは今度こそ袋にキドニーパイの入った箱を入れてもらった。
「気をつけて帰ってね。ママによろしく。」
 食堂のお姉さんに見送られて、クリスは元気いっぱい家路につく。
 迷子になっていた時の寂しさはもう感じない。
 袋の中のパンとパイが潰れてしまわないように、そうっと袋を抱きかかえて、石畳の道をママとおばあちゃんの待つ家へと急ぐのだった。



「クリス!」
 家の近くまでつくと、心配したママがドアの前で待っていた。
「ママ!」
 クリスは袋を抱えて、一心にママの元へと走る。
 そして、誇らしげにパンとパイでふくれた袋を見せると言った。
「ボクね、お使い行けたよ!」
「すごいわ、クリス。立派に出来たわね。」
 ママはそう言うとクリスをぎゅっと抱きしめた。
「うんと・・・あのね、おねえちゃんにも手伝ってもらったの。」
 腕の中で、クリスはちょっぴり恥かしそうに言った。
「でも、ちゃんとありがとう言えたよ!」
 ママは嬉しそうに微笑むと、もう一度ぎゅうっとクリスを抱きしめた。
 小さなクリスが、最後まで頑張ったことが何より嬉しかった。
「じゃあ、クリスにご褒美をあげなくちゃね。おやつにママのケーキがあるわよ。」
 ママのケーキ!クリスは瞳を輝かせる。
 ちょっぴり怖いこともあったけど、クリスは最高のご褒美だった。
「また、お願いあったら言ってね!ボクがんばるよ!」
 クリスはママとお家に入りながら、にっこり笑顔でそう言った。

 小さなクリスの最初の冒険はこうして幕を閉じたのであった。

The End.