<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


旅立ち祝える交響曲(シンフォニー)

「そーいう事ですわっ!」
「まぁ、そういう事なんです。ええ、という事で、皆さんにご協力頂きたいのですが……」
 びしぃっ! と言い放った女とは対照的に、穏やかに言葉を続ける男が、1人。
 エスメラルダはカウンター越しに、2人の事を見やりながら、ああ、なるほどね……と、今回は珍しく訝ることも無く、すんなりと状況を理解する事が、できてしまっていた。
 並んだ聖職者2人は――新教教会牧師のマリーヤと、旧教教会神父サルバーレは、周囲をゆるりと、見回しながら、
「この時期、旅立つ方も多いですからね」
「そう、だから仕方なく、この神父と協力する事に致しましたのよ」
 ――先ほどからの話を要約する所によれば、2人はこの春、エルザードから旅立つ者達を対象とした、パーティを開こうとしているらしい。
 それも、新教、旧教、合同のかなり大規模なパーティだった。
 さらに言うなれば、どうやら2人は、宗教という概念に全くこだわらずして、それを行おうとしているらしかった。
 確かに毎年、神父の方は、春になる度に送別会なるパーティを開いていたような、気はするが、
「という事で、宜しくお願い致しますわね」
 この街に越してきてから、1年と経っていない牧師が協力しての、まして、新教と旧教合同のパーティなんぞ、前代未聞の試みであるのではないだろうか。
 これは……かなり大きなパーティになるかもね。
 グラスを拭くマスターを手伝いながら、エスメラルダが内心呟く。
 そうしてすぐに、ざわめき始めた、黒山羊亭のお客達。
 どうやら2人に協力する者達が、徐々にではあるが、出てきはじめたようであった。



† プレリュード †

 始まりは、と言えば、やはり黒山羊亭で飲んでいた事、であった。
 1度面識のあるあの神父に、この腕の良い料理人が目をつけられないはずもなく、結果、
「温室か……」
「ええ、これで予算を超える事はありませんでしてよ。ちょっと作りすぎてしまって、私も困っていましたのよ」
 牧師の隣を歩く男――イルディライは、今回のパーティの料理を手伝う事となってしまっていた。
 少し伸びすぎてしまった茶の髪を弄りながら、黒い瞳で周囲をぐるりと見回す。
「すごいな……」
 流石のイルディライも、これにばかりは驚かざるを得なかったらしい。
 陽光麗(うら)らかな、真昼の世界。
 降り注ぐ暖かな光に抱かれて、すくすくと背を伸ばしていたのは、一面に咲き乱れた緑達であった。
 だが、無論驚いてしまったのは、それについてではなく――
「かじった魔術の応用ですわよ。これで冬でも自家栽培ができて経済的、ですわね」
 そう。
 麗らかなのは、あくまでも春の太陽であって、夏のそれでも、まして秋のそれでもない。
 収穫の時期からは明らかに外れたこの季節、けれども緑達の間から顔を覗かせるのは、様々な野菜や果物の実達であった。
 硝子張りの温室の中で、自慢気に両手を広げながら、心底楽しそうに牧師は満面の笑みを浮かべる。
 この温室を造ったのは、エルザードに転勤となってからすぐの事だった。
 そうよ、
 愛おしい緑ちゃん達の為に、私、毎日毎日、温度管理に湿度管理、肥料や水(ごはん)の時間にも分量にも細心の注意を払って参りましたのよっ――!
 田舎出身の牧師にとって、緑の無い環境というものはそれはそれは、耐え難いものであったらしい。
 一方、至福の時に浸りこむ牧師の横で、イルディライはその話に関与する事も無く、良く育ったトマトの傍へとしゃがみ込んでいた。
 ……温室、な、
 健康な色をしたトマトの実を1つ味見しながら、
「なかなか便利なものだな」
「ええ、そりゃあもぅ! お野菜さん達と一緒にいる時って、こぅ、どうしても心が和んでしまいますのよね。ああ、田舎万歳っ! エルザードは都会すぎて緑が足りませんでしてよ。こう、もっと猪も鹿も熊ものびのびと暮らせるほどでありませんとっ!」
「いや、それはそれでどうかとも思うが……」
 呟いたイルディライに、けれども牧師は急き立てられたかのように一気にまくし立てる。
「緑は世界の宝物ですわっ! 主の贈り物ですっ! 嗚呼素晴らしき緑かなっ! 私の宗派では、まず第一に神、第二に自然、第三に自然、第四に――」
 ぐっと握り締めた両手を胸の前に、遠く空を見やって力強く言う。
 無論、
 相手がちっとも話を聞いていない事にも、全く気が付いてはいなかったが。
 その横で、意外なほどのトマトの甘さに感嘆していたイルディライが、温室の主を放ったまま、すぐ傍の土へと視線を移していた。
 暢気に伸び縮みしていたミミズのすぐ傍にあるニンジンを1本引っこ抜くと、軽く土を払ってやる。
「太ったニンジンだ……付け合せにしても良さそうだな……ん、これだったら生でも……」
「さぁ、この素晴らしき緑を下さった神に感謝致しましょうっ! 嗚呼、主よ、今年もいよいよ芽吹きの季節がやって参りました……!」
「菜っ葉はスープにすると美味しいんだよな……こう、歯ごたえがとても……これは使えるな……」
 そのままお互い、野菜調達と神の祈りに没頭してしまった2人は、お互いの独り言に干渉しあうことも無く、心行くまで己の道を突っ走るのだった。



† 第1楽章 †
 
「猪?」
 ピンクの花柄エプロン姿に、相棒の大きな包丁を動かしたそのままで、イルディライは素気なく、鸚鵡返しに問い返していた。
「うん、そう。とびっきり新鮮なヤツが入ったから、ちゃんと料理してくれ。ある程度の処理はしておいたから、後は適当に自分で切って使ってくれよな」
 ――突然の出来事であった。
 結局あのまま、共に料理をする事となってしまったイルディライと牧師は、颯爽と材料の下拵えを始めていたのだが。
「それはまた、珍しいモノが入ったんだな……」
 背後から聞えて来た男の声に、イルディライは振り返ることも無く、ただそっけなくそうとだけ答える。
 猪の調理経験が無いわけではない。むしろ、旅先で猪を調理した事が何度かあるくらいだった。
「知り合いの1人の可愛い子に、そーいうのに精通してる子がいてね。さっきもって来てくれたんだよ。猪って、料理すると美味しいらしいし……あ、」
 ――途端、切れた男の声。
 イルディライの横で、同じくしてキャベツを千切りにしていた牧師が、恐る恐る背後を振り返っていたのが、視界の隅で確認できた。
「……あ」
 そのまま牧師は、小さく声をあげる。
 ……何なのよ、一体――!
「やあ、マリーヤちゃん、元気だったかい? 最近会ってなかったから、俺、君の事心配してたんだよ?」
 彼女の目の前に立っていたのは、いかにも軽薄そうな感じの、白衣姿の医者であった。
 台所に薄く立ちこめる消毒液の香りは、つまりはこの男の所為。
 所為なのだが……
「ふざけないで下さります?! 私、あなたになんて会いたくありませんでしてよ! どっかに消えて下さいな。汚らわしい!」
 どうやら2人の仲は、あまり良いものではないらしい。
 露骨に医者から距離を置きながら、牧師は肩に置かれていた手を、思いっきり叩き落としていた。
「で・て・って下さい! 邪魔ですわ! 本当に……猪はそこに置いて行って下さい!」
 本気で叫ぶその姿に、小さく肩をすくめながら、
「おいおい、結構重たかったんだぞ? それなのに出てけって……」
「じゃないと、刺しますわよ? ああ、この包丁、昨日といたばかりですから、すっごくよーーーーーーーーく、切れるんですのよ。主もきっと許してくださりますわ。相手は異教徒ですしねぇ……うふふ」
「う、うふふって……」
 流石に身の危険を感じたのか、医者は一歩引きながら引きつり笑いで言葉を返した。
 牧師の方も、半ばほど本気で事を考えているらしい。
 先ほどまで横に垂らしていた包丁を目先に持ってくるなり、にんまりと愛おし気な視線で、その輝きを覗き込む。
「さぁ、どうなさります事? 私の包丁の餌食にでもなってみます? えぇ、そりゃあもぅ、らくぅに帰天させて差し上げます事よ? いくら異教徒と雖も、私は優しいですから……うくくくく」
「……いや、遠慮しときます」
 刹那踵を返し、一応1つ舌打ちを残すと、医者はさっさと向こうの方へと消えてしまっていた。
 2人の会話の一部始終を聞きながら、キュウリを輪切にしていたイルディライが、皿にキュウリを載せ、包丁を置いたのは、それとほぼ同時の事だった。
「ん、行ったのか?」
「あんなの、ここにいちゃあいけませんのよ! ゴキブリ以下ですものっ! あー、最低っ! 嫌なものを見てしまいましたわ……」
 足元から身震いすると、牧師は颯爽とまな板の方を振り返る。
 切りかけのピーマンを手際良く微塵切りにしながら、
「そういう事で、猪ですって。イルディライさん、さばいて下さります? 私、そういうのはちょっと苦手ですのよ」
「わかった。それだったら、そっちにあるジャガイモとレタスの処理を頼もうか」
「お安い御用でしてよ。ええと、ジャガイモはグラタンにするんでしたわよね。わかりましたわ……責任をもってきっちりと」
 牧師の言葉に包丁を持ち直すと、イルディライは猪の方へと歩き出していた。
 まぁ、後はマリーヤに任せておけば安心だろう。
 成り行き上で一緒に調理担当となった牧師は、実は、かなりの腕利き料理人であった。
 基礎的な料理なれば、お手の物だと本人も豪語する。
 もうすぐ下拵えも終わってしまうし――やるんなら、さっさと手をつけないと、野菜が足りなくなるからな。
 と、
「……随分綺麗なんだな」
「どうかしましたの?」
「いや……」
 まるまるの猪の前に屈みこみ、イルディライは小さく感嘆の声を洩らしていた。
 そこにあったのは、毛などが既に剥がしてあった――つまり、かなり綺麗に処理されていたのだから――。
 一体、誰が?
「おい、マリーヤ。さっきの男は、こーいうものの扱いが得意なのか?」
「……ええ、まぁ。医者ですから、それなりにできるんじゃあありませんでして? 私は何も知りませんでしてよ! あー、汚らわしいっ!!」
 だんっ! とその途端、まな板に包丁の突き刺さるような音が響いたような気がしたが、あえてイルディライはそれを無視する事にした。
 まぁ、これだけ綺麗だったら、切るのも簡単だろう……。
 面倒な処理は、大体終わっていた。後は簡単に、必要な部分を切り取り、調理するだけで良い――。
 相棒の大きな包丁を構えなおすと、早速猪の解体を始めたのだった。

 その後の料理も、かなり順調に進んでいった。
 元々料理人≠ナあるイルディライと、田舎育ちの牧師がコンビを組めば、ざっとこんなものだと言うべきなのだろうか。
 見ているだけで目が回りそうなほどめまぐるしく、けれども効率良くできていく料理達の香りが辺りに漂い始めた頃には、何人かの子ども達が、台所を覗き込みに来ていたようだった。
 無論、火加減や煮込み具合に夢中になっていた2人は、それに全く気がついていなかったのだが――。
 やがて。
 テーブルの上に並んだのは、様々な料理達。
 猪料理は勿論の事、グラタン、サラダ、パスタ、ソテー、デザートのケーキなどなど。
 それぞれが、きらびやかに自己主張するかのような大量の料理達を目の前にして、イルディライと牧師は、同時に溜息をついていた。
 この豪華さで、それほどお金がかかっていない、むしろ、予算を大幅に余してしまったというのだから、経済的な事この上ない。
「「終わった――」」
 無意識のうちにぱちんっ、と手を打ち鳴らすと、2人で簡単に、料理の完成をお祝いする。
 時間的にも申し分無い。今から会場にこれを運び込めば、丁度良い時間帯となるはずだった。
「なかなかやりますのね、イルディライさん。正直、私、あなたのような腕の良い料理人は見た事がありませんでしてよ」
「マリーヤこそなかなかやるんだな。最近は料理ができない人間が増えているというのに、なかなかのものではないか」
「小さい頃からみっちり仕込まれていましてよ。あの神父よりは上手だって……ええ、そう思いますもの。本気で」
 なにやら闘志の炎を燃やしながら、牧師は両の拳を胸の前で握り合わせる。
 そのまま暫く、はっとして何かを思い出したかのように、顔を上げ、
「そうそう、私、この後は別のお仕事がありましてよ。ええと、午後からは全て、お任せしてしまっても宜しかったかしら?」
「ああ。大体下拵えも終わっているし、後は私1人でも十分にまかなえる。安心して行ってこい」
「ありがとうございます。ダンスの後の出し物担当が私ですのよ」
 イルディライの心強い言葉に、牧師はにっこりと微笑んで見せた。
 テーブルの上の料理を次々と大きなトレーに載せると、丁寧に料理の最終チェックを済ませ、力を入れて持ち上げる。
「さぁ、行きましょう。そろそろパーティが始まる時間ですわ」
 


† 第3楽章 †

 牧師がいなくなってからの料理も順調だった。
 たまに会場に料理のチェックに行き、足りないものを追加する。
「楽な仕事だよな……」
 人気料理のグラタンを追加で作りながら、イルディライは小さく呟きを洩らしていた。
 久々に、十分に料理の腕を揮える機会だった。意識していなくとも、どうしても嬉しくなってしまう――。
 と。
 やがて、ついに始まったらしい、ダンスの時間。
 そろそろパーティもピーク時間だと、さらに盛り付けを急いでいたイルディライは、けれどもふと鼻を掠めた消毒液の香りに、顔を上げなくてはならなかった。
 ん、何だ?
 慌てて周囲に視線をめぐらせ、その現況を探す。
 ……その視線がある一点で止まったのは、もう間もなくの事であった。
「牧師にフラれてね……あと一歩だったんだけど」
 その先にいたのは、舌打ちしながら、いつの間にかまな板と面と向かっている、先ほどの医者の姿であった。
「何しに来た?」
「何って、暇だから料理でもしようかなぁ、と思ってさ。俺の料理の腕は、世界遺産並みだって評判だしね」
 さくさくさくっ、と、先ほどまでイルディライが使用していたまな板の上で、何かを切りながら医者は言葉を続ける。
 後ろで料理を盛り付けるイルディライに、
「まぁ、見てろって。今日はちょちょいっと、付け合せのサラダを作ってみるからな。ん、サラダは足りてるだって? 折角野菜が余ってるんだから、使ってあげなきゃあ勿体無いだろう?」
 聞いてもいない事にまで答えながら、次々と下拵えをこなしてゆく。
 無駄な動きの欠片も存在しないその手際良さに、イルディライは思わず、視線を奪われてしまっていた。
 ……ほぅ、
 なかなかスジのあるヤツじゃあないか。
 その手際良さは、かなりのもので。
「慣れてるな……」
 無論、イルディライは知らなかったが、この医者――リパラーレといえば、性格はともあれ、外科、内科共にかなり腕の良い医者であった。
 しかも、当人の趣味の1つに、一応料理というものがある。
 ――どちらかと言えば、肉料理の方が得意ではあるらしかったが。
「さって、完了。ピンクのエプロンのおっさん、そこをどけてくれ」
「お、おっさん……? それに、エプロンがこれしかなかっただけで、決して私の趣味ではない……!」
「さーて、やるかぁ。味付けはマヨネーズが良かったかなぁ。ん、ソースでも美味しそうだけど」
 一瞬頭に、カチンとした何かを覚えたイルディライの言葉も無視したそのままで、白衣の医者はつかつかとテーブルに歩み寄ると、野菜の入ったボールを乱暴にテーブルに置いていた。
 そのまま、マヨネーズだかソースだかを取りに行くべく、あっというまに踵を返して歩き出す。
 一方。
 イルディライの視線は、ボールの中身へと釘付けとなっていた。
 ……なかなかの、いや、かなりのものであった。
 野菜達の体のつくりを極限まで読んだ――と、評価するべきなのだろうか。
 申し分の無い野菜達の切り口に、思わず、溜息まで零れてしまう。
 プロだな、これは。
「はいはいはい、邪魔邪魔。これから味付けするんだから……あ、そうそう、そろそろ会場に料理、運び込んだ方が良いんじゃないか? さっき見てきたら、料理、足りなかったみたいだったし」
「ん、あぁ、そうか?」
 手に様々な調味料を抱えて戻って来た医者が、ボールを自分の方へと引き寄せる。
 何気ない、医者の一言に、
 ……そういえばそうだった。
 思い出し、イルディライはテーブルの上のお皿をいくつか手に持ち、颯爽と踵を返す。
 あれだけ上手に野菜を切ってみせた医者の事だ。
 どんなにか料理が上手なのだろう――と、料理人としての血が騒ぐのも山々であったが、同時に、いつまでも会場に料理が無い状態を許すことはできなかった。
 そう、料理というものは。
 人を楽しくさせる為には、必要不可欠な大きな要素であるのだから――。



† ポストリュード †

 ――料理。
 はて、この単語は、
「……いや、遠慮しておこう……」
 何を指し示す単語であっただろうか――。
 改めて自分自身に、そんな常識すら問い直さなくてはならないほどのそれ≠ノ、イルディライは隠す事も無く、顔をしかめてしまっていた。
 目の前に突きつけられた皿の上に盛り付けられていたのは、真っ青なスープの中に、赤緑黄色の色鮮やかな具材を抱いた、ゲル錠の物体であった――いや、様々な意味で描写するのが困難に思えてしまう辺り、もはや既にモザイク≠ニいうものが施されていたのかもしれないが――。
「遠慮するなよ♪ 会場用に作ったら量が足りなかったんだ。けど、折角作ったんだし、遠慮無くどうぞ♪」
 曰くサラダ≠手に持つ医者は、どうやら冗談ではなく、本気でそれを言っているようであった。
 幸運だったな、会場の人達……。
 内心呟くと、さらに話を続ける医者を目の前にして、イルディライはさて、どのようにして話を逸らそうか――と、周囲に視線をめぐらせていた。
 ……と。
 ふと、視線がとある一点に引っかかる。
 ――そういえば、まな板の上に載っているのは、
「美味しいって♪ 1度食べたらやめられないよ♪」
 やけに小さな包丁だった。
 否。
 ――包丁?
 そういえば、と、刹那過ぎった嫌な予感に、イルディライは、微笑む医者に答えることも無く、まな板の方へとつかつかと歩み寄る。
 そうして見えてきた光景に、事態を、確信せざるを得なかった。
 やはり当たったらしい予感に、背筋をぞっとさせながら、
「……医者」
「ん?」
「これはメスとか言わないか?」
「え、何か気になる点でも?」
 まな板の上から、やけに鋭く切れそうな小さなメスを手に取り、げんなりとして問うた。
 反射する窓からの陽光。きららに眩しいメスには、イルディライの顔が映り込んでいる――
 ――メス?
 メスとはそうだ、普通は人を体内から治療する時に使うものであって、無論料理に使うような代物ではないはず……で、あった。
 いや、私の見解は間違ってはいまい……。
 当然の事実を確信しなおすと、改めて医者に向き直る。
「料理は包丁でするものではないのか……?」
「だって、メスの方が小回り利くし。いいよー、包丁なんかより切れ味良いから、困らなくて済むし」
「いや、私が言いたいのはそういう事では、」
「それになぁ、包丁だと味わえない感覚がこれ又最高なんだ。小さいから、感触がダイレクトでね」
 医者はイルディライの方へと向かって無造作に歩み寄ると、呆然とするその手から、己のメスをすっと抜き取った。
 そのまま愛おし気な視線を、じっと手元のメスに向けると、
「肉を切ってる時の感覚がたまらないんだよねぇ……こぅ、すっ、と入って、ぴって切れる感覚に、ちょっぴりごりっとした硬さに! まぁ、血が出ないのがつまらないといえばつまらないんだけど」
「………………」
「――うくくくくくくっ……」
 まるで。
 どこぞの危ない刃物マニアが、刀身を舌なめずりをしているかのような雰囲気だった。
 あまつさえ、怪しい含み笑いまで洩らしている医者の姿に、イルディライは、思わず絶句してしまう。
 そのまま、どこか別の世界に飛翔してしまった医者のかもし出す雰囲気に、寒気すら覚えながら、
 もしかしてコイツは……
 そーいうシュミなのか……?
 それなれば正直、先ほどの料理――という単語が相応しいのかどうかはいまだに不明であったが――のできばえにも納得がいくのかもしれない。
 この男は、料理をするために野菜を切るのではなく、野菜を切るために料理をしていたのだから――。
「ああ、そうそう、って事で、俺、猪の心臓持ってくから♪ 早くホルモン浸けにしてあげないと、痛んじゃうからなー。うん、保存にはスピードが命だしさ、って事で、そこどいてくれ、おっさん」
 ひとしきりに笑い終えると、右の手に器用にメスを遊ばせながら、医者は爽やかに微笑んだ。
「お、おっさ――」
 けれども、それ以上苦情を付ける元気も無く、イルディライは素直に道を開けていた。
 ……そういえば。
 狭い台所の大半を占領した猪は、そういえばやって来た時から、随分と綺麗に処置が施されていたような気がする。
 もしかしてその時点で――全てに疑問を感じるべきだったのか――?
 なかなかに無理臭い後悔を自分に付き付けるイルディライの視線の先には、湧きあいあいと、猪の残り部分を解剖≠オ始めた、白衣の医者の姿があった。
「ほらねぇ、やっぱり、モノを切ってないと、人ってーのはストレスが溜まる生き物だし。しかも、野菜だの鶏肉だのじゃあ満足できないんだ。やっぱりこう、生きた新鮮な肉の切る感触ってーのは、特別なものなんだよね……硬くて、ぷにぷにしてて、暖かくて……こう、鉄の香りがふんわりと……あああああ、考えただけで……♪」
 相棒のメスで猪を解剖しながら、心底楽しそうに健全な笑顔で力説する。
 だが無論。
 そんなものが、健全な人間の姿であるはずもなく。
「――世界は――まだまだ広いようだな――」
 天井越しの空を仰いで、イルディライは大きく溜息を吐(つ)かねばならなかった。

 その後、嫌がるイルディライは、牧師によって強引に壇上に引っ張り出される事となった。
 その行く道、綺麗に片付けられた料理をあれこれと見つめながら、思わず、微笑んでしまう。
 こういう時だ。
 思わず、嬉しいと感じてしまうのは――。
「という事で、本日の料理長をご紹介致しますわ」
「り、料理長?」
「まぁ、そういう事にしておいて下さいな」
 壇上に上げられ、小さく呟いたその言葉に、隣に立つ牧師は肘でイルディライをつつきながら、小声でそう返していた。
 そのままにっこりと楽しそうに微笑むなり、凛とした視線を、黙り込んだ群集の方へと向ける。
 そうして。
「料理人≠フイルディライさんですわ――皆様、大きな拍手をお願い致します!」
 牧師の声と同時に。
 その素晴らしい料理の数々に感謝する暖かな拍手が、驚くイルディライの周囲を、沢山に包み込んでいた――。


Fine



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      登場人物(この物語に登場した人物の一覧)
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★イルディライ
整理番号:0811 性別:男 年齢:32歳 クラス:料理人

★マリアローダ・メルストリープ
整理番号:0846 性別:女 年齢:10歳 クラス:エキスパート

★オンサ・パンテール
整理番号:5433 性別:女 年齢:16歳 クラス:戦士

(お申し込み順にて失礼致します)



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               ライター通信
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 まず初めに、お疲れ様でございました。
 今晩は、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。海月でございます。
 この度はご参加の方、本当にありがとうございました。まずはこの場を借りまして、深くお礼を申し上げます。
 パーティ企画の方ですが、今回は完全個別となってしまいました。皆様、ほんっとうにプレイング、面白可笑しく読ませていただきました。それぞれにウチの御馬鹿な子(NPC)達を振り分けさせていただきまして、一応、時間経過に矛盾の無いように調整させていただいております。納品日は3本とも別々の日になる予定ですが、お暇がありましたら、他のサイドからも読んでいただけますと幸いでございます。意外な裏側が明らかになる……かも、しれません(笑)

 2度目のご参加、本当にありがとうございました。イルディライさんの素敵なお料理のおかげもありまして、パーティは無事に成功いたしました。ありがとうございます。
 エプロンですが、ええ……料理人の彼の事ですから、自分のエプロンを持っていてもおかしくはないのでしょうが、個人の勝手な偏見と申しましょうか……に、似合うのではないかなぁ、と魔が射しまして……(笑)
 イルディライさんにピンクのエプロン、そうして包丁、それでいてちょっぴりぶっきらぼうで、さくさくさくっと主婦男君をやっている、となりますと、私的にはほんっとうにドキドキでございます。
 牧師といい、医者といい、どこか刃物を持つと危ない人間ばかり集まってしまったような気がしますが――決してイルディライさんが友でありまたは類であり、類に呼ばれた、もしくは友を呼んだ、というわけでは……あわわ(滝汗)

 それでは、乱文にて失礼致します。
 又機会がありましたら、宜しくお願い致します。

16 aprile 2003
Lina Umizuki