<東京怪談ノベル(シングル)>


あの花の咲く頃に

 いつの間にか東の空が明らんでいた。
 レイフォードは手元の本を閉じて窓に歩み寄った。
 まだ明けの明星が輝いている。もうやがて鳥のさえずりも聞こえ始めるだろうか。
 眼下の庭を見下ろして彼女は目を細めた。
(咲いたのか……)
 それは、まるで季節はずれの雪が降ったかのような光景だ。
 細い枝に覆い被さるように白い花が咲き乱れている。小さな小さな花だ。だが、枝一杯に咲くその花はまるで雪が降ったかのように錯覚させる。
 その花の名前を雪柳と教えてくれた人はもういない。
 窓を開けて彼女は外に出た。明け方の湿気を含んだ冷たいを感じながらバルコニーに足を進めた。手すりに身を預けるようにしながら、彼女は眼下の花を見つめ続けた。

 それから幾ばくの時がたった後であろうか。空は既に明るくなっていた。
 鳥達のさえずり、屋敷で立ち働く人々のたてる音。それらに耳を傾けながら、レイフォードは未だバルコニーで庭を眺めていた。こういう風に向かえる朝も悪くない。そう思う彼女の顔は穏やかだ。
 部屋の扉がノックされた。
「入れ」
 短い応えにすぐに扉は開かれる。入ってきたのは中年の侍女頭だった。レイフォード位の娘がいてもおかしくない年齢の彼女は、どうやら我が子同然とレイフォードの事を思っているようで――おかげで何かと口煩い。
「まあまあ、お嬢様、朝は寒うございますのにそんな薄着で」
 慌てて箪笥から薄い肩掛けを取り出した侍女にレイフォードは苦笑する。
「平気だ。ライロークに乗っているよりは随分暖かい」
「そんなお聞分けのない事をおっしゃるものではございませんよ。その時はもっと厚着をしてらっしゃるんですから」
 そう言いながらも淡いブルーの肩掛けを手際よくレイフォードの肩に巻くと彼女は満足げに息をついた。
「……ありがとう。だが、お嬢様は」
「あら、私とした事が。そりゃあ、お嬢様はもうご立派な御当主ですけれど、……あの小さかったお嬢様がこんなにご立派になられて」
 止めて欲しい、そう言う筈が娘の成長を嬉しげに見守る母親のような視線に苦笑してしまう。屋敷の外でどんな異名を取ろうとも彼女にとっては代わらず『私の小さなお嬢様』である事がおかしくもあり、嬉しくもある。
「さあさ、朝食が出来上がっておりますよ。冷えた体を温める為にもしっかり食べていただかないと」
「朝食はバルコニーに持ってきてくれないか?」
 レイフォードの言葉に侍女は目を丸くしたが、ふと庭に目をやり大きく頷いた。
「ああ、もう雪柳が咲く頃なんですねえ。かしこまりました。……では、今日はご公務を午前で切り上げられる用に準備しておくように伝えておきますわ」
 まさしく言おうとしていた事を先に言われてレイフォードは目を瞬かせた。僅かに首を傾げたのを見て侍女は確認を取るように訪ねた。
「遠乗りにおいでになるんでしょう?」
「そう……よく判ったな」
「そりゃあ、私の大切なお嬢様の事ですから」
 当り前のように頷かれて、レイフォードはかなわないなと肩を竦めた。そんなレイフォードに一礼をすると彼女はいそいそと女主人の為に用事を済ませようと部屋を立ち去ったのであった。

 一面に広がるのは眩しいばかりの緑と、様々な彩りの花々だ。こういう場所では不思議と同じ色の花々が群生している。目の前に今広がっているのは黄色い小さな花々だった。
 膝よりも高く生い茂ったそれをかき分けるように進みながら、レイフォードは目的の場所を探す。それは小高い丘だった。
(ここも随分変わったな……あの時は荒地だった。いや)
 荒地どころではなかったな、そう思って見渡せばここはまるで天国のようですらある。
 記憶を頼りに西へ西へと足を進めるやがてその場所は漸く彼女の前に姿を見せた。
「……変わらないな」
 丘は一面の雪柳に覆われている。そう、まるで白い墓標のように。
 レイフォードはそっと雪柳の花を散さないように注意しながら丘を昇る。周りを見渡せる位置までくると彼女はそっと膝をついた。
 まるで王に跪くように恭しく、敬愛を込めて――。
「久しいな、皆。私だけ随分と変ってしまった気がするよ」
 低く囁くように彼女は花へを声をかけた。いや、彼女が声をかけたのは花ではない。この地に眠る戦友達に向けて声をかけたのだった。
 花は応えるかのように風にゆらりと揺れる。レイフォードは何事かを聞きつけたように目を和ませた。
 目を上げると色とりどりの花々が咲く何処までも平和な光景。しかし、ここはかつて確かに戦場だったのだ――。

 あれは初陣での事だった。戦闘は長引き、辛くも勝利をおさめた時には、既に大量の死傷者が出ていた。
 彼女の所属する部隊も半数を失っていた。あまりの死者の多さに上層部はすべての死体を引き上げる事を諦め、下級兵達はこの場所に埋葬される事になった。
 せめて形見なりとでも今のレイフォードなら思う。だが、その時のレイフォードは口を開く気力もなく、ただ座り込んで埋葬される戦友達を見ていた。名すら知らぬもの言わぬ者達が土をかけられ、死者の国へと向かうのをただ、眺めていた。
 気力なく座る兵士達の中で一人の男が地面に跪いて何かを探していた。肩の傷は一目でわかるほどに酷い。そんな男が何を探しているのだろう。レイフォードの麻痺した感覚に漸く浮んだ感情は興味であった。立ち上がると男に近付く。
「何をしているんだ?」
「花を探している」
 服装を見ればレイフォードがどんな家柄の人間だかわからぬ筈もあるまいに、男は平坦な口調で答えた。彼女も取り立てて彼の無礼を咎めるでもなく訪ねた。
「何故花を?」
「何もしてやれねえから、せめて花くらいと思ってな」
 主語が省略されていたが、それが死者の為の物だとはレイフォードにも理解できた。彼女も膝をつくと、彼と同じように花を探した。
 漸く見つけた花は小さな白い花が幾つか咲いただけのみすぼらしい花だった。だが男は嬉しそうに目を細めた。
「雪柳か……」
「雪柳?」
「これならあいつらも淋しくないだろう」
 嬉しげに何度も頷いた男はレイフォードにも丁寧に礼を言った。傷付いた肩よりも花を庇うその男の後姿をレイフォードはしばし眺めていたのを覚えている。

 その男の消息を聞いたのはその二年後の事だ。その時の傷が元で命を落としたらしい。それを聞いてレイフォードは再びこの土地を訪れた。
 春先の穏やかな陽射しの中に淡い雪のように群生する雪柳を見た時、レイフォードは何故かそれがあの戦いで散った命が咲いた花々に思えた。これで淋しくない、そんな男の言葉が訳もなく胸のうちに甦った。
 あの小さな花の中にはあの男もいるのだろうか? ふとそんな事を思う。
 一株を貰い彼女の屋敷の庭に埋めたのはあの時の戦いを忘れない為だった。軍隊の中で兵士は小さな花の一つに過ぎないのかもしれない。しかし、その小さな花々こそが国を支える力なのだ。雪のように無数でいて、尊いもの。
 戦が始まればまた彼女は戦場に立つだろう。そしていつか死が訪れた時、彼女は戦友達と同じく物言わぬこの白い花になるのだろうか?
 ならばそれまでは――。
 花々が護りたかったものを代わりに護ろう。
 立ち上がって彼女はもと来た道を歩き出した。最後にもう一度花々を振り返る。
「また会おう」
 雪柳の咲く頃に、私はここに来よう。今も変らず眠る戦友達に会いに――。

fin.