<東京怪談ノベル(シングル)>


無彩色の赤

流れる薄雲の隙間から覗く細い月。
晴れた夜の林を進む人影は走るように大地を蹴り進む。
晴れているとはいえ新月の近い夜は明かりが少ない。
人影は明りを求め、早足で林を進んでいると進行方向の木々がきれ少し開けた場所に出た。
人影は降り注ぐ、微かな月明かりと星明りに安堵の溜息を付いたが、すぐに息を飲み身体を強張らせる。
野原には先客が居たのだ。
夜の明りの中静かに草の上に座る男は気づいていないのか、振り返る様子もなくただ、そこに居た。
このまま気付かれないうちに引き返そうか?
だが、好奇心が恐怖を打ち負かしていた。
ゆっくり男に近づくと、男が首だけ回しこちらを見た。
黒い瞳の男は、それでも何も言わず顔を元に戻した。
それに更に緊張が解け、男の隣に腰を下ろすと何故彼がそこに居たのか、判った。
彼の前には人の頭程の大きさの石が草の無い土の上に置かれていた。
誰かの墓か、との問いに男は答えず、静かに持っていたボトルを仰いだ。
邪魔か、との問いにも何も答えず、少し困り場繋ぎのつもりで自分の名を名乗ると、男はやっと口を開いた。
「イルディライだ」
よろしくと手を差し出すと、イルディライはちらりと横目で見ただけで視線を石に戻した。
誰の墓か知らないがここで会ったのも何かの縁とナップザックから少し硬くなっているレーズンパンを取り出し墓の上に置くと、イルディライがぽつり、と呟いた。
「それは……あいつが好きだったな」
そして、イルディライは静かに話し始めた。

イルディライが彼と出会った所は日常茶飯事にスリの起こる治安の悪い街だった。
旅の途中で立ち寄ったイルディライは雑然とした剣呑な雰囲気の中進んでいた。
トン、と軽く雑踏で他人と肩が当たる。
相手は気にした様子もなく去って行ったが、イルディライは立ち止まり振り返った。
視線の先はぶつかった相手ではなく、その反対へと去って行く小さい影。
イルディライは後を追い、人ごみの中を歩き出した。
雑踏を外れ、小さな影はまるで小鹿のように薄汚い路地裏を駆け、縁の欠けた石階段を上がって行く。
階段の先は行き止まりの小さな踊り場で、その物陰に座り込むと小さな人影は懐から小さな袋を取り出した。
「ほう……驚きだな」
「……誰だ!」
目の前に現れた人物に動揺の色を隠せず素早く立ち上がった少年にイルディライは手を差し出した。
「それは私の物だ。返してもらおう」
少年は素早く視線を自分の手の中にある金の入った袋とイルディライに走らせると、下唇を噛んだ。
が、観念したのか両手を挙げ唇を片端上げるとまだ年端もいかない少年は不敵な視線をイルディライへ向けた。
「まさか気づかれるなんてな……あんたが初めてだぜ。ほら、返すよ」
突き出された袋にイルディライが手を伸ばすと、突然少年は袋を顔めがけ投げつけたかと思うと、素晴らしい瞬発力でイルディライの脇をすり抜け様とした。
だが、そう簡単に逃がす程イルディライは甘くなかった。
絶妙な隙間を走りぬけようとする少年の襟首を無造作に掴むと、イルディライは持ち上げた。
「なっ……!?離せよ、くそっ!」
「良い腕だ……だが、こんな小さな事をしているようではまだまだだな」
逃れようと力一杯もがいていた少年だが、ふっと急に大人しくなった。
「……仕方ねーだろ。こんなガキが金稼ぐ方法って言えばこれっくらいなもんだ」
無言で見ていたイルディライは少年を下ろすと、落ちていた銭袋をポケットに仕舞うと踵を返し、階段に足をかけた。
「お、おい。お前……?」
戸惑いの滲む声にも振り返る事なく、イルディライは大通りへと戻る。
彼には無造作に今をもがいて生きている少年に金を渡すような偽善な真似は出来ない。
そう、ただ何もしない。少年を役所に突き出す事も、何かを施す事もしない。それが、一番イルディライの考える中で良い事だと思っていた。

世の中には煮ても焼いても食えないものというのがある。
『料理人』としてイルディライは、そんな何の役にも立たない『食材』は包丁の試し切りにする位だと思っている。
そして、この色褪せた街にはそんな輩が多い。
男たちに買われる為に媚を売る娼婦。酒浸りになり路地裏のゴミの中で眠る男。
子供に手を上げる母親や妻に暴力を振るう夫。
だが、一番『食材としてもマズい』のは底辺で這うように、だがそれでも歯を食いしばって生きる人間を食い物にしている奴だ。
イルディライがその場を見たのは旅の買出しを終え、街を出る時だった。
微かに聞こえた呻き声に立ち止まり、反射的に方角を確認したイルディライは逡巡するが、出口から進む方向を変え、路地へと入った。
進むにつれ、声は大きくなる。
人数は3……いや、5人。
どうやらたった一人に暴力を振るっているらしい。
細い路地の先は建物の壁に囲まれた場所で四人の男の中心に小さなものが蹲っていた。
「なんだぁ、てめェ……ここにゃ愛しいママはいねーぜ。さっさと戻りな」
一人の男が言った言葉に下卑た笑い声を上げる柄の悪い奴ら。
だが、イルディライはただ地面に蹲っているものを見続けていた。
「おい。聞いてんのかよ」
肩を揺らしイルディライに近づいてきた男は、その動きを止めたかと思うとぐらりと倒れる。
「てめェ!?何しやがった!!」
怒声と動揺の走る男たちは無造作に歩み寄ってきたイルディライを、いや二度と何も見る事はなくその身体を地面に叩き付け、倒れた。
刀のような包丁を振るい血を飛ばし鞘に収めると、イルディライは倒れている小さな身体を抱き起こした。
「おい……一体何があった」
「……あんた……へへっ、大した事じゃねーよ。ただ奴らにこんな仕事はもう出来ねーって言っただけさ……うぅ」
不敵に笑っていた少年はすぐに苦しげにうめき、薄っすらと唇の端から血を滲ませた。
「奴らというのは、ココに居た男たちの事か?」
「あんなの……下っ端もいいところだぜ。この街を牛耳る男……あのブタ野郎、何が約束は守るだ……くそったれっ!」
血を吐き叫ぶ少年を見下ろすイルディライに小さな手が伸びる。
「……孤児院を守るって、約束……したんだ……俺」
蚊の鳴く様な声は浅い呼吸音に吸い込まれるように消え、少年の瞳から光が消えた。
表情のない顔でイルディライは優しく命の尽きた瞼を閉ざすと、その軽い体を抱き上げ、歩き出した。

夜の闇を切り裂くように響く怒声と悲鳴。
高い金属音とともに血飛沫が飛ぶ。
扉を蹴破り、無造作に歩くイルディライに武器を持った男たちが攻撃を仕掛けるが、どれもイルディライの体を傷つける事はなく床に落ちて行った。
街の誰もが口を揃えて言う――あいつは悪党さ。街外れの孤児院も奴の食い物のひとつだよ、と。
奴が死んで悲しむ奴はいない。むしろ、喜ぶ奴は山のようにいるがね。
そう言ったのは灰色のボロを纏った乞食だったか……
「このっ……!」
刀を振り上げた男は、だがその姿勢のまま胴を輪切りにされ崩れ落ちる。
一歩、イルディライが進むごとに屋敷の中には死体が増えていった。
「な、何してる!さっさとあいつを殺せ!!」
廊下の奥で丸太のような体をした厳つい顔の男が、手下どもに喚き散らしているのをイルディライはひた、と見据えた。
腕を振るい、男の体を壁に打ちすえながらイルディライが暗い瞳を向けるとこの街のボスは恐怖に顔を引き攣らせた。
「貴様か……」
「ま、待て……話し合おうじゃないか……」
一つ。また肉塊をイルディライは踏み越える。
「か、金か?!金が欲しいのか!?」
鈍い音を立て、転がる体を蹴り上げ、また足を一歩前へ進める。
この館で二本足で立っているのはイルディライと冷や汗を流すこの館の主だけ。
「おい、頼むよ……俺が何したって言うんだ」
媚びる様な仕草と声色に、一層イルディライの闇が濃くなった。
「知っているか?食えない食材の使い道を」
「……なんだって?」
「包丁の試し切りだけだ」
振り上げた切っ先は恐怖に醜く歪む男の頭蓋を叩き潰し、深々と肋骨にまで食い込み止まった。
もはや只の肉の塊となった体を無造作に包丁を振るって捨てると、流れ出た赤く細い流れをイルディライは静かに見ていた。

風の気持ち良い丘の上で、イルディライは古ぼけた建物を見下ろしていた。
「ここなら安心だろ……」
傍らに据えられた石に語りかけるように呟いたイルディライは、孤児院の庭で元気に遊ぶ少女を見た。
あの孤児院が金に困る事はしばらく無いだろう。
イルディライはバッグの中からレーズンパンを取り出すと、石の前に置いた。
ただ静かに目を細めると、石に背を向け歩き出した。
もう、五年も前の話だと言うと、イルディライは口を閉ざした。
静かな夜は微かに虫の声が聞こえるだけで、丘の下の孤児院もひっそりと佇んでいる。
良かったな、墓参りしてもらって。と言うとイルディライは口をへの字に曲げ、ぶっきらぼうに言った。
「……偶々通りかかっただけだ」
そんな彼に微笑み、ナップザックから酒瓶を取り出してみせる。
そうすると、初めてイルディライは笑みを見せた。
「言って置くが、俺は味には五月蝿いぞ。……料理人だからな」
そう言ったイルディライは酒瓶を受け取り、一気に液体を仰いだ。
柔らかな下草を揺らす風。
それは優しく死者を包み込んで流れていった。