<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


夕月夜入る恐怖談話

「は? 怪談話?」
 きょとん、としてエスメラルダが振り返る。その先には、白衣姿に消毒液の香りが独特の、腐れ縁の友人でもあるとある医者の姿があった。
 医者は満足気に微笑むと、
「そう、怪談話。もう夏だからね〜」
 いつに無くにこやかに微笑んで見せた。
「いやまぁ、夏だけども、」
 だから余計に気味が悪いわ。
 この医者の微笑みなど、正直、彼を知る人からしてみれば、見ていてあまり気持ちの良いものではない。
 大概そういう時は、この男は企んでいるのだ――そう、何かを。
 エスメラルダが、カウンター越しに医者の瞳を覗きこんだ。
「で、何考えてるの?」
 問わずには、いられない。
 眼鏡越しに、悪戯に微笑む瞳。けれどそこには、やはり、明らかに、
「何って、イロイロ?」
 何かの企みの色が。
 適当な答えを返され、エスメラルダはそのまますっと身を引いた。
 この医者にこれ以上何を聞いた所で、人が驚くのを見て楽しんでいるこの医者のこと、何も教えてはくれないであろう。頬に手を当て、この医者の考えをあててやろうと、しばし、考えをめぐらせる。
 ――って、あ、
「あの駄目神父?」
 何ですぐに思い当たらなかったのかしら。
 この、男の事だ。
 きっと親友の事虐めて、まぁた遊ぼうと思っているのね……。
 この男の親友は、当人とは似ても似つかないような根性無しの体力無しであった。ちなみに、怖い話にも弱いのは、無論の事で。
 エスメラルダの1言に、お洒落な事にカクテルを手にしていた医者が、顔を上げた。
 小さなグラスの青い色。夏色の手元のカクテルを見つめながら、テーブルに頬杖を付く。
 そう、
 季節は、夏なのだ。
 夏といえばやはり、欠く事ができないものがある。
 日射病の患者に、清涼白衣、冷気系の魔法に、それから……怪談話だ!
 楽しい想像に、一息、置いて、
「そう、大正解――!」
 君も来るかい? と言わんばかりに、医者は得意気に指をおったてて見せた。





 どうして自分が呼ばれたのか、最初は疑問で疑問で仕方がなかった。
 しかし、
 考えてみれば、簡単なことじゃないか。
 胸の内で呟いて、つややかな茶(ブラウン)の髪に、同じ色の純粋な瞳の光が似つかわしい少女は――オンサ・パンテールは、周囲をぐるりと一望していた。
 褐色の肌に、良く映える美しい入墨。生まれたままの姿に、腰に布を纏っただけのその少女の横では、これからの展開に脅えきった神父が頭を抱えていた。
「……どうしてこんなことに――」
 医者の友人でもある神父の教会の聖堂を借り切り、皆で集まり怪談話。勿論、医者のこの企画に、神父が、そうしてオンサが誘われないはずもない。
 ――医者の目的は、神父と、そうして、オンサとを怖がらせる事にあるのだから。
「私は嫌だって言ったんです! なのに! なのにこんな……怖い話だなんて、あああああ……」
「ウルサイわねぇ、サルバーレ。あんたも男なんでしょ? しゃきっと根性見せたらどうなの。ねぇ、マリィちゃん? マリィちゃんもさ、この神父って本当にヘタレだって、そう思わない?」
「別に、ヘタレだとまでは思わないけど……」
 ふと神父に話しかけたテーアの横で小首を傾げたのは、マリアローダ・メルストリープであった。自慢の長く綺麗な金髪(ブロンド)に、青い瞳の透き通る小柄な少女も、どちらかというと浮かない顔をしているようだった。
 が、テーアはそんな事もお構い無しに、隣に立っていた執事と他愛の無い話を始める。
 いつもなれば、恋人同士が語らうその光景を羨ましく見詰めているはずなのだが、正直今のマリィにはそんな余裕もない。
「……ど〜したの? 浮かない顔、してるみたいだね?」
 憂鬱そうなマリィに話しかけてきたのは、年の頃ならマリィと同じ程、紅茶色のふわふわの巻き毛に琥珀色の瞳の少女、アデーラ・ローゼンクロイツであった。
 マリィとはかつては一人の少年を巡り、ライバルの関係にあったアデルであったが、
「憂鬱だなんて、そんな事ないけど……お久しぶりね、アデルさん」
「んー、お久しぶり! 覚えててくれたんだね、マリィ」
 アデルの想い人が変わってしまい、事は無事に終結していたりする。
 薔薇の花のネックレスをちょこん、と揺らしながら、
「もしかしてマリィ、怖い話は嫌いなの?」
「嫌い、って言うか……あんまりこういう経験なくて、」
「まぁ、あの頃はお互い、大変だったもんね」
 同じ人を追いかけていた頃を思い出し、二人は顔を見合わせて自嘲気味に微笑んだ。あの頃は、子どもながらに大変だったと思う。毎日のように人が死に逝く、そのような場所に身を置いていたのだから。
 と。
「準備ができましたわよ。さぁ、皆さん、その辺に腰掛けて下さいな」
 久々の会話を遮ったのは、牧師の声音であった。蝋燭を配りながら、皆に座るように促してゆく。
 そうして、暫く。
 ようやく皆が座った頃を見計らい、火を配って歩いたのは今回の事の主催者でもある医者であった。波のような沈黙に聖堂の光がふつり、と消され、広い聖堂の中に立つのは、わずかな光源が九つのみとなる。
 揺れる影の中、不意に一人の男が立ち上がった。
「折角なんだし、BGM付けてあげましょうね。それっぽいの」
 ――デュナン・グラーシーザ
 見た目だけなれば二十代。長い銀髪のみつあみに、緑の瞳のチェロリストでもある青年は、怪談話に、というよりも、むしろそちらに興味があるらしい。愛用のチェロで、皆の恐怖をかきたてる。
 こっちの方が、ずっと楽しいし。
「……良いですよ、そんな事していただかなくても!」
「良いから、良いから。俺の事は気にしないで下さい、神父さん?」
 予想通りに止めに入った神父に微笑みかけると、デュナンは予め設置しておいたチェロの方へと歩み寄っていた。
 そうして、デュナンがチェロ弓を握った頃合を見計らい、
「それじゃあ、はじめようか。怪談話――皆、とっておきの話を用意してきてくれただろうね?」
 白衣の医者が、手を打って開会を宣言した。



I 第三話

 ――はじめは。
 意外と怪談の苦手であったマリィがアデルの話に飛び上がり、叫びながら飛び込んできたのを受け止める余裕もあったのだが。
「さぁ、いよいよ俺の番だ、な」
 又一つ、ぽつり、と幻の消えた闇の中、おもむろに聞えた医者の低い声音に、オンサはごくりと息を飲み込まざるを得なかった。
 ついには意識を失ったマリィを連れてテーアとエドとがいなくなり、より広く感じられるようになった聖堂で、
「とっておきのお話をしてあげよう。ねぇ、サルバーレ――それから、オンサちゃん」
 蝋燭の光に、医者の満面の笑みが浮かび上がる。低い声が聖堂に恐怖を運び込む度に、大きく映り込んだ四方の影が、ゆらり、ふらりと振れていた。
「……あ、あたい?」
 不意な名指しに、脅える少女を抱きかかえているオンサに嫌な悪寒が駆け抜けた。
 正直。
 嫌な、予感がする。
 直感とも、一種の既視感とも違う――言い表しようもない、予感。さながら、虫の知らせのような――
 ……虫の知らせ?
 心なしか、同じような感覚をどこかで感じたような気がした。
「そうだなぁ……あれは――そうだ、サルバーレ、お前がエルザードに来てから暫くして、くらいの話だったか?」
「いえ、突然そんな事を、」
 聞かれても。
 続けようとした神父の言葉を遮って、
「獣牙族、だったねぇ、確か、あの女戦士も、さ」
 実に楽しそうに、医者が含み笑いを洩らす。
 獣牙族。勿論、オンサの部族の事だ。耳慣れた単語に、オンサの肩がぴくりと震えた。
「……さて、突然だけど、ここで皆に問題。ねぇ、エルザードには、国立美術館があるだろ? で、これは良く知られた話だね。あの美術館には、どうやら噂によれば、開かずの間があるらしい」
「あたしも知ってる。すっごい有名な話じゃないの。ねぇ、デュー君?」
「そうだな」
 器用にも暗闇でレクイエムを奏でながら、デュナンがアデルの言葉に答えを返した。多分、マリィでさえも知っているであろう事実だった。エルザード国立美術館には開かずの間があると、
「オンサちゃんは、知ってるかい?」
「まぁ、ね」
 それは森の暮らしが長いオンサでさえも、知っている事実なのだから。
 疑問の表情を浮かべる神父がこの事実を知っているのは当然の事だから、と、医者はこくりと一つ、満足気に頷くと、
「それじゃあ、その開かずの間には、何があると思う?」
「……俺は、普通に王家の秘法が封印されているって聞いてますけれど」
「あたしはほら、うーんとね、あ、そうそう、ペガサスの剥製があるとかなんとかって聞いてる!」
 デュナンとアデルの言葉に、神父とオンサが思わず顔を見合わせた。
「私は……ええと、確か古代魔術が封印されているとかなんとかって聞いていますけれど」
「あたいは――デュナンと同じ話を聞いた事がある」
「つまり、全くわからない、と言う事を言いたいんですの?」
「そう、マリーヤちゃんの言う通り。まるでわかんないんだ。その他にも、精霊界への入り口があるだとか、天使の像の力の源があるだとか、国家機密級の書物が大量に隠されているだとか、そういう話もある。単純に、何もないという説もあるけどね」
 几帳面に白衣を直しながら、医者が眼鏡のブリッジを押し上げた。淡い光に、その表情がわからない。
「それじゃあ、俺が聞いているお話を一つしようか」
 ぱん、と軽く手を打って、薄闇をざっと見渡した。一人一人の反応を楽しもうとするかのように、やおら、言葉を続ける。
「オンサちゃんが生まれて……物心ついて暫く、の頃かな。今、確か十六歳だったよね?」
「ちょっと待て。何であんたがあたいの歳を知ってるのさ」
「……あれでも一応、医者としては腕が良いんですよ、リパラーレは。一度診断すれば九割以上の確率で相手の年齢、ぴたりと当てれるんです」
 思わず身を乗り出したオンサに、神父がこっそりと耳打ちをした。
 一方医者の方は、そんな事などまるで知らぬかのように、
「一人の女戦士がいたんだ。獣牙族の、ようするに、オンサちゃん、君と同じ部族のね――ちょっとした理由で、彼女は森からエルザードの街へとやって来る事になったらしい。どうせ一日も経たずに帰ってこれるからってね、弟達とも、手を振ってバイバイ、って、ただそれだけで別れて街へ出た、と」
 デュナンの弾くチェロの音色が、やけに鮮明に聖堂に響き渡る。さながら皆が、そのチェロを静聴しているかのように。
「初めての遠出だったらしい。オンサちゃんが一番良くわかってるね。獣牙族ってゆーのは、基本的に悪いヤツはいないからね。どんなに敵対していても、本質的な所ではお互いに安心感を持って接しあっている――」
 こくりと一つ、オンサが頷いた。確かに部族の中に嫌いなヤツがいないわけではないが、だからといって相手に強い警戒心を抱いた事は一度も無かった。現に、部族の中では殺人事件など無くて久しいのだ。街とは、違って。
「だから、基本的にはじめは警戒心が強くとも、打ち解ければ一気に心を許してしまうきらいがある。ん、オンサちゃんはちょっとタイプが違うかもしんないけどね。まぁ、その女戦士は、それで街で出会った男に心を許してしまったんだ。初めて一人で出向いた都会だろ? やっぱり、不安とかも多かったんだろうね――その心の隙を、付かれた」
「付かれた、って」
 つまりはハッピーエンドじゃないって事だよね。
 まぁ、怪談話だから当然、か……。
 話の展開が読めずに、神父は内心頭を抱えていた。話のネタさえわかっていれば、それなりの覚悟ができようものを。
 どうやらそれは、オンサの方も同じであるかのようだった。己の心を必死に奮い立たせながらも、本当は今すぐにでもここから逃げ出してしまい、と、素直に感じる。
 アデルは、瞳を輝かせたまま何も言わない。デュナンもデュナンで、何も言わずにただ黙々とチェロの伴奏を続けていた。
「さて、もう一つここで問題。その男はね、その女戦士を月並みな台詞で口説き落としたと。……でもそれじゃあ、その男の正体ってさ――女戦士は勿論知らなかったんだよ。はたして、何だったと思う?」
「もったいぶらずに早く言え。くだらない、」
 などと正直思っているはずもない。本当は怖くて怖くて仕方がないのだから。
 必死に取り繕ったオンサの台詞に、
「んー、じゃあ、解体業者に一票! 人肉料理屋さんとかもありだね!」
「……アデルちゃん、君、なかなかさっきから良い所ばっかりついてくるね。剥製の話にしても、解体業者の話にしても……六十点あげるよ」
「それじゃあ、残りの四十点は?」
「それをこれから、話してあげよう」
 ふぅ、と一つ溜息を吐くと、医者は大きく息を吸い込んだ。頬に手を当てながら、
「そうして、行ってしまったんだね、女戦士は――深夜の逢瀬さ。書物でも読んでれば、多少浪漫チックな想像はするだろ? しかも、惚れた男と一緒さ。オンサちゃんだって、この前の旅行の時、サルバーレと一緒に夜、海でも見に行ったんじゃないのかな。そーいう、感覚。きっと」
 間接的に、オンサと神父とのこの前の二人きりの出張≠からかわれているらしい。しかし、恐怖と必死に戦っている所為か、オンサの方にはそれにつっこみを入れる余裕もない。
「……恋人達は、月の下で語り合う。今宵は満月。初夏の光は、やわらかい。暖かな風に、聞えるのはお互いの静かな言葉達。他愛の無い話もした。お互いの家族の話、生活の話、それから――愛の話」
「男は女戦士に告白をしたそうですわ。それも、随分と熱烈な言葉で」
 どうやら話の全貌を知っているらしい牧師の手も借りて、医者がざっと回想の説明を終える。
 ゆっくりと、頭を振って。
「そうして男は、彼女の事を抱きしめた。勿論、初めての体験だっただろうね。男にさ、抱きしめてもらうだなんて。ところが全身を真っ赤にしてドキドキしている女戦士の右の二の腕にね、ちくり、と鋭い痛みが走ったんだ」
 オンサとアデル、そうして神父が、思わず自分のそれへと視線を遣った。
 デュナンのチェロが程良く低音の旋律を奏ではじめた頃合を見計らい、
「そうしてやおら、大地に栗色の髪がふさり、と広がった。砂埃を立てて、エルザードの郊外、誰もいない場所、二人きりの空間――月光に輝いた砂埃に、気がつけば一人の少女が地に伏していた。勿論、あの女戦士さ」
 医者が小さく、ほくそえむ。
 覗き込んだ蝋燭の光に、その表情がぼんやりと浮かび上がっていた。
「砂漠の蠍の毒さ。ほんの数滴で、致死量に至る。注射器を、男はぐっと女戦士に差し込んで――さて、そうして事切れた女戦士を、男は随分と邪悪めいた瞳で満足気に一瞥するとね、持ってきていた鞄から取り出したのは、大きなナイフさ。普通の調理包丁にしては、ちょっと大きすぎる……ねぇ、オンサちゃん?」
「な、何だい?」
 少々声が上ずってしまったかも知れない。が、それでも懸命に平静を装い、返事を返すオンサに、
「その女戦士はね、それはもう、部族の中でも最も美しい入墨の持ち主だったらしいよ。――男はね、事切れた女戦士の肌に切れ味の良い包丁を入れた。そうしてね、剥いだのさ」
「あ、もうわかった! その男、剥製屋さんだったんだね! だからその女戦士の皮を剥いで、」
「剥製にしちゃったわけですか」
 チェロ弓を引くデュナンがアデルに付け足した。医者が指をおったて、その通り、と深く頷いた。
 ――オンサと神父とは。
 もはや絶句して、声も出せないらしい。神父の方はあからさまに凍り付いてしまい、もはや腰元のロザリオを弄ったままの体制で沈黙を守るのみであった。
「だから俺の聞いた話によれば、その時の剥製があの開かずの間にはあるらしいね。……ところで、ねぇ、オンサちゃん」
 突然床を這い蹲り、医者が下からオンサの顔を覗き込んだ。オンサの蝋燭の光に、影が、揺れる。
 叫び声を辛うじて堪えたオンサのうなじを、医者は指でつっ、となぞりながら、
「とっても綺麗な身体、してるよね……」
 耳元で、囁いた。

 そうして又一つ、少女の沈黙に蝋燭の光が消えた。



II 第四話の始まり

 絶対に、言えはしない。
 実は怖かった、などとは決して。
「あぁもう全く! あんなの迷信に決まってる……」
 と、思いたい。
 のだが、同時にオンサはふと思い出してしまっていた。そういえばあの話は、昔、部族の中でも聞かされた話しではないか――しかも、オンサの一番怖がった。
 子どもの頃は、あの話が怖くて仕方がなかったのだ。初めて話を聞いた夜は、いつ包丁を持った男がやってくるやも知れないと、眠れぬ夜を過ごしたものだった。
 しかし又、
 こんな所であの話を聞くことになるだなんて……!
 教会の、ほぼ自室と化してしまった客間のベッドの上に寝そべったまま、オンサは本日十六回目の寝返りを打った。
 今宵はもう遅い事もあってか、怪談に参加した殆どの人がこの教会に泊まっているはずであった。はたして、神父がこんな夜に一人で眠れるのかどうかはわからなかったが、
 そういえば神父、どうしてるんだろう……。
 枕を抱えながら、ふと考える。こんなにも窓から差し込む月光が綺麗でも、今日は素直にそれを喜ぶ気にはなれなかった。
 ふと、光に肌の入墨が浮かび上がった。
 慌ててオンサは立ち上がり、
「……どうかしてるよ、あたいも……」
 勢い良く、窓のカーテンを引いた
 ――刹那の話であった。
 部屋の中に、リズムの良いノックの音。
「だ、誰っ?!」
 一瞬びくり、と、肩が震えた。そんなはずはないとわかってはいても、
 もしドアの外にいるのが、あの男だとしたら――?
 数滴で致死量に至る蠍の毒。注射。包丁。剥製。開かずの間。
 低いチェロの音色に、ほくそえむ医者の笑顔。
「こ、応えないと開けないよ!」
 身構えて、オンサはじっとドアを見据えた。
 ……そうして、暫く。
『あ、あのぅ――』
「その声は……」
 神父?
 敏い耳へと辛うじて聞えたか細い声に、オンサの全身の力が一瞬にして抜け去っていた。

「本当ヘタレなんだから……一緒にお手洗いに行ってほしいだなんて、」
 それ、普通男の台詞じゃないだろう……?
 付け加える代わりに大きく一つ息を吐くと、オンサは腰に手を当て、ちらり、とパジャマ姿の神父を一瞥した。
 ――愛用の指揮棒の先に、ほんのりと魔法の光を灯し、
「あー……いえ、本当は教会の明かりも消したくはなかったんですけどね……」
 苦笑する神父の方を。
 真夜中、お年頃の乙女の部屋をノックした神父は、何とオンサに向かってお手洗いに行きませんか――と泣き付いてきたのだった。
「でも、皆さん寝てるようですし、明るいとまずいわけでして、」
 落ち着き無く周囲に警戒を配りながら、小声でぽつりぽつりと付け加える。
 どうやら相当、今日の怪談話が堪えたらしい。
 まぁ、無理もないだろうけど……。
 いかにも余裕の無いその様子に、
「でもだからって……お手洗いくらい、一人で行けるじゃないか」
 普通はね。
 オンサも思わず苦笑した。
 かなり歴史のある教会だった。歩く度に、床が小さく軋む音をたてる。普段は騒がしさに聞えない小さな音も、今は沈黙の闇の中に鮮明に響き渡るのみであった。
 皆を起こさぬように、そうして何より、お互いに気持ちを奮い立たせるために、小声で他愛の無い話を繰り返しているうちに、やがて二人はあっという間にお手洗いへと到着する。
 お手洗いは、怪談を降りたその廊下の突き当たりにあった。意外に大きな作りのバスルームのその隣のドアに手をかけながら、
「あー……っと、」
「待ってるって。意地悪して先に帰ったりしないから」
「……くれぐれもお願いいたしますよ? 私、怖いのは苦手――」
「はいはい」
 光源を手渡し、神父がくれぐれも、とオンサの瞳を覗き込んだ。
 そのまま後ろを何度か振り返りつつも、ようやくドアの向こうへと消えて行く。
 ――そこで初めて、オンサが一息を吐いた。
 本当は。
 本当はオンサとて、今日は暗闇の中に一人、放っておかれたくなどないのだ。
「あたいだって本当は、」
 怖くて怖くて、仕方がなかったのだから。
 手に渡された指揮棒を軽く振りながら、オンサは何かに脅えるように、そわそわと周囲を見回した。尾を引く光が、さらに不気味さをかきたてる。
 と。
 不意に。
 オンサが反射的に、肩を震わせた。
 ぴたん、と。
 水の落ちる音が、暗闇をゆるりと包み込んだ。
 もう一度。
 そうして、もう一度。
 ………………
「え、と――」
 耳を済ませる。
 さらに、もう一度。
 ぴたんっ、
「……風呂場?」
 どうやら、音はバスルームの方から聞えてきているらしい。すぐ隣の部屋には、確か水の張られたバスタブがある。
 水漏れ?
 警戒心を抱いたままのオンサの顔が、バスルームをひょっこりと覗き込んだ。
 ぴたんっ、と。
 水の音が、香りが、強くなる。
 闇夜の薄光にうっすらと浮かび上がる部屋。脱衣所でしばし戸惑った後、少女がいよいよバスルームへと足を踏み入れた。
「何だ、ただの水漏れか……」
 どういう仕組みになっているのかは知らなかったが、水の勢いを調節するコックをきゅっ、と閉めながら、
「今日は随分と嫌な事が起こるんだから」
 安堵に素直に、大きく息を吐いた。
 そうして、振り返る。
 そろそろ神父も、便所から出てくる頃だろ――
「……っきゃああああああああああああああああああっ?!」
 背中にべちょっ、と、ひんやりとした感触。
 指揮棒のからん、と落ちる音に、たまらずに叫ぶオンサの声が、夜の教会の空気を引き裂いていた。



III 第四話を紡ぐ

「テーアさん、やっぱりやめよう、ね? 私――」
「しっ、黙って、マリィちゃん」
 ――実際は。
 テーアはマリィにも、怒っていたのかも知れない。
 あまりの恐怖にエドに抱きついたマリィを、寛大な心で許してくれたはずのテーアは、しかし今、
「テーアさあああああんっ」
「たまには良いじゃないの。神父がオンサさんを助けに来るか見物だわぁ。ねぇ、エド?」
「……まぁ、それは確かに」
 アデルの話の最中に気を失ったマリィを暗闇へと連れ出し、オンサへ仕掛ける悪戯の手伝いをさせていたのだから。
 典型的な方法だった。
 エドの持つ鞘付きの剣の先に、糸に結んだこんにゃくを結びつける。後はこれを、やってきたオンサの背にぺたり、と貼り付けるだけ。
 勿論、この企画の発案者はテーアと医者であった。前者は神父の反応を楽しむ為、後者はただ純粋にオンサを驚かせる為に事を策略したようではあったが。
「あああっ、オンサさんっ、ごめんなさあああああいっ」
「しっ、静かに。聞えちゃったら場所がばれるわ」
 きょろきょろと辺りを見回すオンサを上から見下ろしながら、テーアはさらにマリィに釘を刺した。
 ――そう、上から見下ろしながら。
「さて、次はこれっ! いやぁ、さすがマリィちゃん! 工作、上手よね〜」
「ごめんなさああああああいっ……」
 三人は今、器用にも空に浮かべた箒の上に並んで座っていた。神父がいつも庭先の掃除に使っているものをくすね、テーアとエドとで浮遊の術を施したのだ。
 手近にあったクローゼットの上を机の代わりに、エドがちょいちょいっとこんにゃくを取り外し、代わりに白い布に小細工を施したものを結び付ける。
「サルバーレ、そろそろ来ないと、オンサさん、腰抜かしちゃうわよぉ〜」
 にんまりと微笑み、テーアがするするとそれをオンサの方へと下ろしてやった。
 刹那、
「いやあああああああああああっ! ち、ちょっとっ?!」
 何なんだこれは――!
 不意に目の前に現れた白い物体の不思議な動きに、テーアの策略どおり、オンサが叫び声を上げた。
 テーアの絶妙なテクニックが、ついに脅えるオンサを壁際へと追いやって行く。
 と、そこで。
 ぱちんっ、と指を打ち鳴らし、テーアはオンサの傍で軽く魔法の風を起こした。
 窓も無いのに突然起こった風に、更にオンサは逃げ場を失い混乱に陥ってしまう。
 緩やかな風に、マリィ作テーア命名『ドキドキヘタレオバケ君一号』がオンサの目の前にふわふわと揺れる。
「全く、こーいう時にしか魔法、使わないんですから」
「だってつまんないじゃない。面倒だし」
 呆れるエドに、悪戯に微笑んでテーアが付け加えた。
 そうして更に暫くの時をおき、再度こんにゃく攻撃。
「…………っ!」
「ん、さすがに耐性がついてきたみたいだわ。それじゃあマリィちゃん、アレ、取り出して」
「……そんな。テーアさん、あれはちょっとまずいんじゃあ……?」
「良いから取り出す! もっと叫んでもらわないと、サルバーレのヤツ、来ないかもしれないじゃない? ふんだ。何よ。オンサさん連れて二人きりで青い海に旅行ですってっ?! しかも海を見てきたとか! 許せない……抜け駆けだなんて絶対に許さないんだから……!」
 しかもお土産まで買い忘れてきただなんて。
 許すものですか!
 戸惑うマリィに痺れを切らし、テーアがついにマリィのスカートのポケットを弄った。ここには、オンサと神父とを驚かすための最終兵器を仕込んでおいたのだ。こんにゃくや布なんかよりもずっと怖いモノ。
「エド、やるわよ!」
「あ、ちょっと、お嬢様! 暴れないで下さいよ……! この場所、不安定なんですからっ! あ、ほら、マリィさんが――!」
「あ、ちょっ、くすぐった……テーアさんっ、くすぐったい! ちょっと、やめ、やめて――あっ?!」
 刹那。
 マリィの体が、ぽん、と宙へと投げ出されていた。
「「――?!」」
 慌ててテーアが落ち行くマリィへと手を伸ばすが、既に時遅し。いくら天井から床までの距離だとは雖も、落ちれば無傷では済まないだろう。
「マリィちゃん――!」
 テーアの叫び声に、
 ぽすんっ! と。
 偶々下に溜まっていた洗濯物の中に、マリィの勢い良く突っ込む音が響き渡った。
 不幸中の幸い。
 あいたたた、と、布山の中で頭を抱えるマリィの横では、しかし、
「ごめんなさいごめんなさいっ! もうお使いの時にエクレアとチーズケーキを間違えたりしないからっ! いやあああああああああっ!」
 何の前触れもなく何かが落下した音にオンサが取り乱し、ようやく駆けつけた神父の胸へと勢い良く飛び込んでいた。
「お、オンサさんっ?!」
「出たっ! 出たんだよ神父っ! あの辺にっ! おおお、オバ――!」
「出た、ですって? ゴーストでも出たんですか……もしかして……!」
「何かべちょっとして、白くてふわふわ浮いてて、風がふわって!」
「……これは――早く部屋に戻るが勝ちですよ! 逃げましょう!」
 部屋の中に松明代わりの魔法の光の灯った指揮棒を落としている事も忘れ、神父とオンサは一目散に駆け出そうとドアの方を振り返る。
 しかし。
 閉まっていた。ノブを捻れど、一向にドアの開く気配は無い。
「な、何で――!」
「し、シンくん――っ!」
「へ?」
 取り乱す神父の声に、布の山の中から動けぬままに、マリィは細い声で想い人の名前を呼んでいた。
 しかし、そこで初めてマリィの存在に気づいたオンサの疑問の呟きは、
「…………ッ!」
 やっとの思いで飲み込んだ悲鳴の中へと消えていた。
 そこに、いたのは。
 ご丁寧にも火の玉を横に従えた、死装束姿の男であった。
「「「いぃやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」」」
 ――死装束。
 東国の怪談話では欠く事の出来ないものだ。頭には白い三角の被り物である『天冠(てんかん)』、右あわせの『着物』に、手袋、杖、履物である『草履』。
 しかもあろう事か、男はオンサの落とした光源を、自分の顔の下から当てているではないか。
 ぼうっ、と、亡霊の如く浮かび上がったその姿に、
「シンくぅぅぅぅぅぅぅんっ!! 助けてぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」
 涙ながらに叫び、洗濯物まみれのままでマリィは腰を抜かしたオンサの胸へと勢い良く抱きついた。
 オンサはもはや声を出す事もできずに、じっと近づき来る男の姿を見つめていた。
 ひたり、ひたり、と。
 ずぶ濡れの死装束から、水滴の滴り落ちる音が聞えてくる。
 それでも最後に残った意識で、せめてマリィは守ろうと身構えるオンサに、
「……見えてるよ、オンサちゃん」
 するり、と低い声で微笑んだ幽霊の正体は――見紛う事もない。
 あの似非医者であった。

 気絶した神父の事もお構い無しに。
 パシンっ!! と。
 耳まで真っ赤に染まったオンサの平手打ちが、医者の頬へと炸裂したのは言うまでもない。





 ――あれから、数日。
「あー……」
「出た、んですよ……」
「――もしかして、いや、もしかしなくても……」
 それだけで、二人の会話は成立してしまった。枕と楽譜とを手元にぎゅっと抱えた神父がオンサの部屋のドアを叩いたのは、夜も遅くの事であった。
「今日も床、貸して下さい……」
「いや、別に神父がベッドで寝ても良いけど」
「それは流石にオンサさんにご迷惑でしょう。という事で……あぁ、今日も眠れないなぁ、きっと」
 大きく溜息を吐く神父は、すんなりとオンサの部屋へと迎え入れられる。勿論、そういうこと≠ノ信じられない程に疎い二人の間には、これ≠ノ対する倫理的な問題も、道徳的な問題も欠片も存在しなかった。
 ただ純粋に、
「本当、神父は怖がりなんだな」
「オンサさんだって」
 『オバケ』の怖い夜を、あの日の夜のように、せめて二人で楽しく乗り切りたいだけなのだから。
 あの夜から、二人で過ごす夜が多くなった。夜のお手洗いは一緒に……というのが、暗黙の了解となっている程に。
 そうしてぱたん、と、オンサの部屋のドアが閉められる。
 やがて間もなく、消灯時間を過ぎた教会の暗闇は闇夜の静寂(しじま)に沈み込み――
『いぃやああああああああああああああああああああああああっ!?』
 一瞬の悲痛の後、世界は再び、何事もなかったかのように静寂を取り戻した。

 ――エルザードの夜空へと消え去ったその叫び声が何を意味するのか。
 それは誰も知らない、二人の出遭った小さな秘密事でしかないのだから。


Finis



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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<PC>

★オンサ・パンテール
整理番号:0963 性別:女 年齢:16歳 クラス:獣牙族の女戦士

★ マリアローダ・メルストリープ
整理番号:0846 性別:女 年齢:10歳 クラス:エキスパート

★ アデーラ・ローゼンクロイツ
整理番号:0432 性別:女 年齢:10歳 クラス:エキスパート

★ デュナン・グラーシーザ
整理番号:0142  性別:男 年齢:36歳
クラス:元軍人・現在レジスタンスのメンバー

(お申し込み順にて失礼致します)


<NPC>

☆ サルバーレ・ヴァレンティーノ
ヘタレ神父

☆ リパラーレ
似非医者

☆ テオドーラ(テーア)
ご令嬢

☆ エドモンド(エド)
テーアの執事・恋人

☆ マリーヤ
牧師



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■         ライター通信          ■
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 まず初めに、お疲れ様でございました。
 今晩は、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。海月でございます。
 少々遅れ気味の納品となってしまいまして、大変申し訳ございませんでした。この場を借りて、まずお詫び申し上げたいと思います。本当に申し訳ございませんでした(謝)。
 意外と怖がりなオンサちゃん、プレイングの方本当に可愛らしかったです。似非医者にそれはもう怖いお話のネタまで下さりまして、ありがとうございました。確かに……怖いですよね、皮が剥れてしまうだなんて(苦笑)確かにオンサちゃんの入墨の方は白くてお綺麗ですので、密猟者にとっては嬉しいものなのやも知れません。って、怖いですけれど(汗)
 話は変わりますが、医者が死装束姿で現れた時に閉まったドア。あれは実はヘタレ神父の失態ではなく、医者の魔法だったりします。風を起こして、ドアを閉めたんですね。……開かなかったのは多分へタレ神父の失態だと思いますけれど……。相当パニックだったのではないかと思います。
 それから……最後にオンサの部屋に神父が遊びに来ていましたが、あの時の悲鳴は――ご想像にお任せいたします(笑)医者の仕掛けか、はたまた本物か……解釈は様々ですね♪
 ついでになりましたが、ここで、牧師を先頭と考えた時の、全員の並びをご紹介致します。
 マリーヤ(牧師) - デュナン(円から抜けますが) - マリアローダ - エドモンド(執事) - テオドーラ(令嬢) - アデーラ - リパラーレ(医者) - サルバーレ(神父) - オンサ <敬称略>
 ――と、なっております。何と並びは円順列で8!通りもあるのですね。しかも当初はNPCがもう一人多い予定だったのですが……(汗)
 ともあれ。
 では、乱文となってしまいましたがこの辺で失礼致します。又機会がありましたら、宜しくしてやって下さいましね。

07 luglio 2003
Lina Umizuki