<東京怪談ノベル(シングル)>


■白の記憶■
 この目に映る、白いキャンパスのように、彼女の記憶は白くかき消されていた。自分の消された記憶を探るように、白いキャンパスに筆を走らせるが、そこから何かが見えた事など無かった。
 広い、何も無い記憶の草原にぽつん、と立っている事に気づいて数年。まだ小さな子供に過ぎなかった彼女、ノージュ・ミラフィスは少しだけ成長していた。相変わらずノージュは、抱えるキャンパスにその体の殆どが隠れてしまう程小さな身体だったが、このキャンパスに対する思いだけは、信じられない位に強い。
 どこかで誰かが呼んでいる。ノージュは顔を上げると、キャンパスに手をかけた。画材を乱暴にカバンに詰め込み、肩に掛ける。
 再び、彼はノージュの名前を呼んだ。
「なに? 聞こえてるってば‥‥今行くよ」
 草原の向こうに、一人の青年の姿が映る。今のノージュにとって、唯一、楽しみや悲しみや記憶を共有する事の出来る相手。彼は笑顔でノージュを待っていた。彼の気配は、この生気に満ちた草原の中で異質さを放っていたが、ノージュにはそれが気にならなかった。 人のように見えて人では無い、ノージュの影。
 ぐらり、とそのヴィジョンがゆがむ。
(‥‥駄目だよ、行かないで!)
 ノージュは彼に向かって、手をさしのべた。いつしか、白い草原のキャンパスは黒に彩られ、彼の姿が闇に消えていく。
(違う‥‥君は僕の‥‥)
 響き渡る悲鳴。
 落ちていく感覚と、唐突に醒めた意識に困惑しながら、ノージュはぼんやりとした目で周囲を見回した。夜の作り出す闇の中、どこかで鳴いている虫の音が微かに、聞こえて来る。
 ノージュの周囲には、誰もいない。その事実にノージュは眉をしかめ、傍らに置いたナイフにそっと触れた。
 誰もいない。あの、記憶の草原にぽつんと置き去りにされたノージュを助けてくれていた「影」は、もうどこにも存在しないのだ。ノージュの脳裏に映る、あの日の出来事。

 先ほどから、彼女の連れた影は、しきりに抵抗の意志を示していた。
 強い意志が込められた瞳を、山道の向こうにきっと見据えて歩くノージュに、彼女の相棒たる“影”は黙って従うしかない。記憶を失った彼女にとって、あの頃から変わらず側にあるものは、この彼女を守り続ける影だけであった。人ならぬモノ。彼の存在は、ノージュにとって掛け替えのないものであった。いつから側に居るのかは分からないが、彼は記憶を失って呆然と立ちつくす彼女を心配し、ずっと側で見守ってくれていた。
 彼の反対する理由までは聞いて居ないが、彼はその情報が不確かなものでは無いかと考えているようだった。
 それまでも、彼女の記憶の手がかりとして聞いては居た。深い山間にあるという、人も立ち入らぬ聖域に、過去を見る事の出来る巫女が居ると。
 もしかすると、その巫女に会えば自分の過去を知る事が出来るかもしれない。そう考えていた矢先に、ノージュにある出来事が襲った。
<記憶の手がかりは、巫女が持つ>
 低いしわがれた声を耳にして、ノージュは振り返った。雑踏溢れる街道の端で、辻占いの老女がじっとこちらを見ている。老女? いや、もしかするとフードで顔が隠れ、影になっているから見間違えたのかもしれない。老女のようでもあり、変装した若い女かもしれず‥‥。
(記憶‥‥?)
 ノージュが彼女に近づこうとした時、誰かが腕を引いた。視線をまえに戻したノージュの目の前に、彼は立っている。彼は心配そうな顔をしていた。
「わたしを置いて、迷子になってしまったのかと思った」
「僕は子供じゃないよ」
ノージュが軽く手を挙げて、怒ったそぶりをして見せると、彼は少し笑った。
「そうだったな、少しだけ成長した」
 心配を掛けてしまった事を詫び、ノージュが辻占いの居た方を確認すると‥‥。
 もう、そこには誰もいなかった。
(‥‥気のせい? ‥‥ううん、違う)
 確かに見たのだ。老女が、自分に語り掛けた。
 しかし彼は、はなからそんな話は信用しなかった。気のせいだろう、と言って笑うだけだ。ノージュは絶対に見たのだ、と言い張ると、その巫女について調べて見る事にした。
 老女が言っていた巫女とは、ノージュ達が耳にした過去見の巫女の事に違い無い。巫女はここから数十キロ離れた山の中に居り、人にもめったに接する事なく、一人で暮らしているという。山に分け入っていくと、次第に道は狭まり、ノージュと彼の行く手を遮った。
<本当に行くのか?>
 問いかける影。思えば、何度と無く聞いたその言葉は、彼からのメッセージだったのだ。彼は自分の持つ使命を全うする事のないよう、ノージュに忠告していたのだ。
 その時の彼の表情は、いつになく消極的で、今までに見た事のない曇りで覆われていたのを思い出す。
<辛い‥‥過去かもしれない>
「分かっているよ。‥‥それでも僕は‥‥」
 ノージュは言いかけ、口を閉ざした。無言で歩き続けるノージュを視線で追い、彼はすうっと姿を隠した。彼はノージュのそばで気配を殺しつつ、彼女の動向を見守っている。
 閉ざされた記憶、それはノージュにとって良い物では無いかもしれない。‥‥その予感があった。
 しかし、今ここで巫女に会う事になった‥‥その事実は、何か意味があるような気がしてならない。ノージュの行く手が広がり、空から明かりが差し込んだ。蒼い空から光りが降り注ぎ、生い茂った草むらを照らしている。その合間に、古い平屋の建物が建っていた。
 左側に聖堂らしき正方形の建物があり、渡り廊下を通じて右手に住まいと思われる白壁の建物があった。
(ここに‥‥僕の過去が‥‥)
 ノージュは、静かに聖堂へと歩いていく。中をのぞき込むと、聖堂の中には誰もいなかった。ここには居ないのか?
 ノージュが裏手に回ると、壁沿いに置かれたベンチに、一人の少女が座っていた。全体に白と赤の基調の服を身にまとい、長い黒髪を後ろで一つにまとめている。柔らかく結んだ髪はさわさわと風にながれ、揺れていた。何かをじっと見つめるように、空を凝視している少女。しかし、表情はとても優しかった。
「来ると思っていました」
 少女は突然話し始めると、ノージュの方に振り返った。
 何を話して良いものか戸惑うノージュに、少女の方が更に話しかけてきた。
「私には、分かっています。‥‥怖がらないでノージュ」
 少女はノージュの名前を呼ぶと、ノージュの手を取った。小さく白い少女の手が、ノージュの手を包む。
「大丈夫。‥‥すべては、あなたの意志にかかっているのだから」
「‥‥何なの? 意志って‥‥僕に何があるの」
「ノージュ‥‥」
 少女はノージュに何かを言いかけ、そして口を閉ざして悲しそうな表情を浮かべた。少女の目に、何かが映っているのだろうか。
 振り返ろうとしたノージュの顔に、赤い閃光が舞った。赤いひかりが、少女から飛び散り、ノージュの頬になま暖かい液体を塗りつける。何‥‥?
 ノージュが、視線を自分の横に向ける。
 何が起こっているのか、分からない。呆然とノージュは、かれを見つめた。
「‥‥な‥‥に?」
 何も写さない、仮面のような表情。何故だ。ノージュは首を振る。
「どうして‥‥」
「ノージュ‥‥」
 彼の身体と手は、血にまみれていた。ずるり、とベンチから少女の身体が滑り落ちる。ノージュの手を握っていた彼女の手が、離れた。ノージュは、地に倒れた少女を見下ろす。
 耳元で、静かに声が聞こえた。
 聞きたいか、と。
 
 月光だけを明かりにして、ノージュは歩き出した。あのときの夢を見そうだから。
 荷物とキャンパスを抱え、ノージュはわずかに差し込む月の光の中を歩き続ける。夜の森には、彼女の肉を喰らおうと狙うケモノや魔物が潜んでいる。しかし、今の彼女には、守ってくれる“影”は居なかった。
 それでも構わない。あの、辛い夢を忘れられるならば‥‥。
<辛いか>
(何故‥‥?)
 彼女は、心の中の声に答える。
 何故、影はあの少女を手に掛けた。何故、ノージュをも殺そうと向かってきたのだ。
 我を忘れたのか、“陰”の意識に‥‥あやかしのモノの欲望に染まってしまったのか。ノージュは影から逃げ出した。足を草むらに取られながら、転がるようにして駆けた。彼が自分を狙おうとした事も、あの彼の氷つくような表情も、全て信じられなかった。
<記憶など、取り戻そうとせねば良かったものを>
(どうしていけないの? 僕はただ‥‥本当の自分になりたかっただけなのに)
 あの日の事を少しずつ思い出しながら、ノージュは、足を止めて空を仰いだ。
 自分が記憶を失ったのは何故なのか、何故彼はあんな事をしたのか。
 そもそも、いつから何の為に彼は側に居たのか。そんな疑問が浮かび、ノージュは影と対峙した。ノージュを追ってきた影は、すぐに追いつき、彼女の前に血まみれの腕と爪をさらけ出しまま立ちつくした。
(あなたは、僕を今まで助けてくれていたじゃないか!)
<それは、主人に命じられた、わたしの使命だからだ>
(主人? 誰なの、それは。僕と関係があるの? 教えてよっ!)
 ノージュの叫びもむなしく、影の腕が彼女へと振り注がれた。かろうじて横に避けたノージュは、影の腕に飛びついた。生きたい。記憶を取り戻したい。僕はまだ‥‥。
 ノージュの体に、熱いものが込み上げる。何か押さえられた力のような、鼓動のような‥‥何かを感じた。

 ノージュは、いつの間にか森を抜けていた。ほうっと息をつく。あたりには静かに、虫の音が響いていた。
 そうっと腰の短剣に手を伸ばし、革鞘から抜いた。蒼い光にぎらりと輝いている短剣には、血曇りも錆もなく、美しい刀身を晒している。
(僕の記憶に何があるのか、誰があいつに命令していたのか分からないけど‥‥僕はいくよ)
 ノージュの胸に、決意が込み上げた。
(僕の中にある何か‥‥それを狙っている? それとも、防ごうとしているっていうの?) 
 彼女が記憶を取り戻す時、その力は解放されると影は言った。
 少しだけ肩の力を抜き、ノージュは再び歩き出した。黒くそびえる森が、背後に遠ざかる。

 あなたの死を見なくて済むなら‥‥これでよかった。
 最後に影が呟いた言葉を、ノージュは思い出していた。


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こんにちわ、立川司郎です。
シングルノベルはその性質上、自分以外のキャラクター(名も無きNPCを除いて)を出す事が出来ません。名前とか描写とかが曖昧になっていますが、ご了解下さい。元の依頼内容に沿うようにしたのですが、要くんは守りのモノとか、そういうイメージで良かったんでしょうか? ノージュが何を武器にして戦うのかもよく分からなかったので、短剣で戦ってもらいます。
 ご依頼、有り難うございました。