<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


肩並べへの間奏物語

「べっつにぃ〜。そりゃあさー、わかってるけど。昔っからそーやって過ごしてきたわけでしょ? ある日突然そーやって言われても、戸惑うのはわかるわよ?」
 カウンターにだらりと伏せったまま、エスメラルダを見上げたのは、亜麻色の髪の少女――テオドーラであった。
 近所の屋敷の令嬢にして、本来なれば、このような場所に一人でいるべき人物ではないような少女。
 その上今日は、いつものお付の執事も居なかった。
 テーアは、エスメラルダに注文したリンデン・ティーのグラスを片手に握りながら、
「だけどやっぱり、あたしとしては嫌なわけよ。なぁんでそんな、」
 敬語なんて。
 繰り返しになる言葉を飲み込んで、更に深く、カウンターに沈み込む。
 まぁまぁ、と先ほどから諭してくれるエスメラルダに、
「エスメラルダはどう思う?」
「……一度言ってみたら? 敬語はやめて、とでも」
「言っても直らないから困ってるのよ。エドのヤツ、そういう話をすると笑って誤魔化しちゃうのよね。あたしは本気で言ってるのに」
 そりゃあ、お父様との体裁もあるだろうけど、実際お父様はそんなの気にしてないわけだし?
 ――良いじゃない。
 もうそろそろ、敬語なんてやめてくれちゃっても。
 小さい頃からずっと一緒にいた執事と恋人同士の関係になってから、数ヶ月。
 不意に感じた小さな壁≠ノ、テーアはもう一度溜息を付くと、外へ通じる扉へと視線を巡らせるのだった。


I

 静けさの賑わいに、ほっと心を落ち着かされる、森の中で。
「もう夕食の時間ですか……早いですね」
 暗くなり始めた空を見上げながら、一人の男がふ、と呟いた。
 ライオネル・ヴィーラー。
 齢十八歳にしてのグリフォンナイトであり、今回のテーアの悩み事に、ひょんな切欠から首を突っ込んでしまった、金髪碧眼のいかにも育ちの良さそうな青年であった。
「そうね……そろそろお腹もすいてきたし」
 ライの言葉に最初に頷いたのは、上っていた木から必死に降りて来る愛らしい少女、マリアローダ・メルストリープであった。いつものワンピース姿よりも動きやすそうな服装が、それでも小柄な体に良く似合っている。
 やわらかな風にあわせ、マリィの自慢の長い金髪が、さらりさらり揺れる。しかしライと同じ色の瞳は、慣れない木登りに、もうすぐつくであろう地面に釘付けとなっていた。
「それじゃあ、そろそろ夕食の準備に取り掛かるとするか」
 その上からもう一つ声が降り注いだ途端、すらりとした影が地面にすとん、と着地した。さすが、と感嘆するライの前に立ち上がったのは、今回のキャンプの企画者でもある、オンサ・パンテールであった。
 褐色の肌に、美しく白い入墨。全身を惜しげもなく曝し出したその姿に、まだ新しい前垂れが、けれども健康的に美しかった。
 木の幹と同じ色をした瞳と髪が、この森の光景に良く溶け込んでいる。
「マリィちゃん、大丈夫かい?」
「ええ、多分大丈夫だと……」
 ようやく地面に近づいたマリィを、優しく抱き上げ、地面に下ろす。ありがとうございます、とぺこり、とお辞儀したマリィに、オンサはやわらかく微笑みかけると、
「木登りはどうだった?」
「ちょっと怖かったですけれど、楽しかったです。普段はあまり、こういう事もやりませんから……」
 テーアとエドは勿論、今回、エスメラルダとテーアからの相談に応じる事となった、マリィ、オンサ、ライ、そうして、オンサによって無理やり連れてこられた神父の一行は、キャンプの為に森へと来ていた。
 ――屋敷を離れれば、お互い少しは素直な気持ちになるさ。
 そんなオンサの提案によるキャンプは、どうやらエドはテーアにも大好評だったらしい。笑い声の木霊するうちに午前が終わり、そうして午後となり、どうやら二人も大分自然と打ち解けていたようなのだから。
「夕食の準備? それじゃあ、分担しなきゃいけないわね」
 普段からじゃじゃ馬の異名を取るだけあってか、テーアが木の枝の上から全員を見下ろして言った。いつの間にか地面についていたエドが、早く降りてくるようにと促してはいたが、どうやらテーアには、その忠告に従う気は今のところないらしい。
「お嬢様……」
 苦笑するエドに、だって、とテーアが無邪気に笑いかける。風が気持ち良いらしく、そう簡単に離れる気にはなれないのだ。
「あたいはそれじゃあ、狩りにでも出かけてくるとするよ。神父を連れてね」
「それじゃあ、私は薪を拾ってくる事にします。――あ、エドさんも、ご一緒に」
 先手を切ったオンサに、ライがふんわりと付け加える。
「それじゃあ私、お料理の準備しますね」
 その後に、マリィが小さく手を上げて続けた。
 ――と、
「あれ、そういえば神父さんは……?」
 ふ、と見回す。そういえば気がつけば、先ほどから神父の姿がこの場所に無いような気がしてならなかった。
 マリィの言葉に、思わずオンサは肩を竦めてしまう。そのまま適当な場所を指で指し、
「マリィちゃん、あそこ」
 オンサの言葉に従って、全員がその指先の方へと視線を向ける。
 ……そこには、
「降りられなくなってるみたいだね」
 さながらコアラのように、必死になって木の幹にしがみ付く、神父の情けない姿があった。


II

 嫌がる神父を引きずりまわし、兎や魚、その他の植物を丁度必要な分だけ取ってきたオンサの帰りにあわせ、ようやく夕食が始まる事となった。
「さすがでしょ? マリィちゃんもオンサさんも、本当に料理が上手なんだからっ」
 まるで自分の事を自慢するかのように、テーアがエドとライとに微笑みかける。そのまま座るようにと促して、自分もエドの隣にすとん、と腰掛けた。
 ライが木の枝をくべる、その少し先。そこには、下準備の終えられた、沢山の野菜や肉や魚があった。
「やっぱり、豪快に焼いて食べるのが一番。折角の機会なんだ。たまにはこういう料理も良いだろ?」
 枝を利用して作った、形の悪い串に刺された野菜や肉、そうして魚を手に取りながら、枝の周囲の地面にそれらを差し込んでゆくオンサ。普段街で食べるのとは違うこの豪快さが、森の料理の醍醐味のうちの一つとも言える。
 オンサが串を並び終えるのと同時に、小さく呪文を口にしたのは神父であった。初級の魔術で、薪に小さな火をつける。
 ――周囲に赤味が、彩を与えた。
「味付けはマリィちゃんがやったんだ。間違いはないよ」
 まだ弱い火を消さないように気をつけながら、オンサが串刺しにした芋を放り込む。
「でも、材料をとってきてくれたのはオンサさんですから」
 兎にしろ、鳥にしろ魚にしろ、捕まえてきたのはボロボロの神父を引きずりまわしたオンサであった。テーアの持ってきた調味料で味を作る間、マリィは散々、遠くから神父の叫び声を聞かなくてはならなかったのだ。
 でも――、
 二人のやり取りをちらりと一瞥すると、マリィは小さく息を吐いた。
「神父、あんまり焼きすぎると、キノコ、焦げるんだからね」
「わかってますって。あー、でもオミソだなんて、テーアさんも随分と変わった調味料を持ってきたんですねぇ。これ、東の方のものでしたっけ?」
 この二人も、何だかんだ言っても仲、良いのね――本当に。
 少しだけ、寂しさを覚えてしまう。オンサには神父が、テーアにはエドが、そうして、ライにはカイエという名の婚約者が居る。大好きな人と、一緒に居られるのだ。
 皆、楽しそう――。
 ここにシンが居れば、と思うのは、いつもの事でしかない。しかし、毎回毎回、心からそう願って、止まないことにも変わりはない。
 ここに、シンくんが――、
「はい、マリィさん。焼けましたよ。この時期のキノコは、そのまま食べても美味しいですからね」
 不意に、俯くマリィに話しかけたのは、串の焼け具合に気を配るライであった。暖かい木と炎とのぬくもりを受取り、マリィがふ、と、顔を上げる。
「ライさん……」
「きちんと食べておきませんと……ね?」
 あえて、元気がないようですね、とは口にしなかった。マリィの持つ事情を深く知っているわけではないが、それとなく聞いた噂のようなものは、記憶に残っていた。
 ライでさえ、この場にカイエの姿を求めてしまう。マリィであれば、なおさらの事。
 マリィがキノコを口にしたのを見届けてから、ライは小さく微笑んだ。
「叶うのが遅い奇跡も、あるものだそうです」
 燃え始めた、炎を見つめる。
「知り合いからの受け売りなんですけどね。そういうものも、あるのだと――けれど、信じていれば」
 ほの赤い世界に、小さな音と共に、炎が爆ぜる。自分のすぐ隣には、いつものようにオンサに言い負かされる神父の姿。そうして、炎越しにあるのは、言葉を交わすエドとテーアとの姿があった。
「そういう奇跡は、いつか叶うものなんです」
 カイエとあのようになるまで、どのくらいの時を要したのか。正確な所は、覚えているはずもない。しかし、それなりの時間を要した事だけは、しっかりと覚えている。
 色々な意味で、歯がゆい時間も長かった。
「信じる事を、忘れないでいれば――つまりは、希望を捨てなければ、きっと、叶います」
 あなたに、会いたい。
 カイエ、あなたに、
「ライさん――」
 どんなに別れている時間が短くとも、会いたくて会いたくて仕方ない気持ちは良くわかる。その時間が長ければ長いほど、思いは積もりに積もり、心に、重い負担を積み上げてゆく。
 ライの話に、マリィはそっと、胸を押さえた。
 月を目指して、赤い光が炎から音をたてて、空に上行く。
「もう決めた! 今日はあんたを泳げるようにしてやるよ!」
「えええっ?! ちょっと、待ってください! 私、そういうのはちょっと――!!」
 向こうから聞えてくる、神父とオンサとの会話と、
「何、今日は添い寝でもしてくれるって言うの? それなら許してあげるけど〜」
「そんな不謹慎なっ?! 添い寝って……!」
「もしかしてアンタ、あたしに手を出す気でもあるわけ? だっからそんなに慌ててるんだ♪ へぇ〜、」
「そんなつもりじゃ、ありませんけど……!」
 隣でじゃれあう、テーアとエドとの言葉の応酬。
 聞きながら、マリィはそっと空を見上げた。
 叶うのが遅い奇跡、ね――
 このままずっと、シンを探し続けていれば、
 つまりは、
 つまりは会えるというのだろうか。追い詰められて、どこかへと消えてしまった、遠いあの人に。
 そうして又、今日もいつか≠、願ってしまう。
 遠い遠い、空の星。指先に光を落とす、届かぬ星へと。

 その後、オンサが神父を引き連れて席を外したのとほぼ時を同じくして、マリィとライとが立ち上がった。
 二人きりになる事は、大事だからと。
 暖かな炎をその場に残し、四人はそそくさと退散したのだ。
 オンサは言葉どおりに神父を近くの泉へと連れ出し、マリィとライとは共に周囲の散歩を楽しむ事にした。
 ――それからは。
 マリィはライの話に、惹き込まれるかのように聞き入る事となる。
 おとぎ話のような恋愛話を、ほんの少しだけ、自分の未来の夢へと重ねながら。


III

『どうしてそんな事を気にするんだ、いつも好きな人と一緒にいられるなら幸せだろう?』
 テーアや神父には驚きの目で見つめられたが、今回の件に対する第一印象はこうであった。部族の中にも多少の上下関係はあるものの、しかし、
 一番大事なのは、一緒にいられるって、そういう事実じゃないのかい――?
 ……泳ぎを教えに行くと、嫌がる神父を、近くの泉まで引きずり、やってきていた。
 二重の意味で、効率的な事だと思う。マリィとライも星を見にどこかへと行ったらしい。これで、テーアとエドとは、二人きりなのだから。
「少し男にならなくちゃ駄目だ、あんたは」
 腰に手を当て、大きく溜息をつくオンサに、
「男って何ですかっ?! ジェンダーの時代はもう終わったんですよっ?!」
「難しいことは良くわかんないけどね、あまりにも情けなさすぎなんだよ、神父は」
 先ほど、夕食の調達に行ってきた時、改めてそう感じざるを得なかったのだ。
 全く、あんなちょっとした事で一々叫ぶだなんて……!
 曰く、蜘蛛が出た、曰く、蝶々が怖い、曰く――
 獲物を追いかける傍ら、突然の絶叫に驚き、神父の方に駆けつけ、何度溜息をついたことか。
「ジェンダーって言うのはですね、男女に対する偏見と申しますか、性別役割分業とか、あ、痛っ?! 痛いですって! 耳引っ張らないでくだささぁ――?!」
 しかもその度に、折角追い詰めた獲物を逃してしまうのだから性質が悪い。そんな神父の事は、放っておけば良いのだとはわかっていたが、
「こうすれば、少しは根性もつくだろう――!」
 甲斐性なのか、どうしても駆けつけてしまうのだ。駆けつける度に、腹が立ったが。
 空に響き渡る情けのない叫び声に続き、水飛沫の爆ぜる音が周囲に響き渡った。オンサによって強制的に泉に突き落とされた神父のもがく音が、闇を賑やかに震わせる。
「わ、ちょっとオンサさ――ッ、た、助けく――さぁ――!」
「足が付くだろうが足がっ! あんたの背だったら十分にっ!」
「もうイヤ――! ですッ、……あ、足ぃっ?! あ、そういえば――っ?!」
 必死になって息を吸い込む神父を一瞥すると、オンサは持ってきていた荷物から水着を引っ張り出した。つい最近、この神父と異国へ行った時に購入したあの白いビキニの水着の下だけ穿くと、前垂れやブーツを次々に脱ぎ捨てる。
 どうやら神父の方は、呼吸するのに手一杯らしい。珍しくオンサの行為に何も言わずに、死ぬ、だの、溺れる、だのと何度も叫ぶのみであった。
 素足になると、地面の冷たさが直に感じられる。ざらざらした砂の優しさを感じながら、オンサはゆるりと歩き出す。
「……少し冷たい」
 水際に歩み寄ると、腰を屈めてその水に触れた。星の光を抱きとめた、黒鏡。
 風に揺れる波に、そっと微笑みかける。きららに輝く月の光は、さながら夜空に君臨する、女王であるかのように。
 ――綺麗、
 素直に、そう思う。教会の窓越しに見つめる月も美しいが、澄んだ空気の中、直接この光と対峙する事には、別の意味での趣があるような気がしてしまって。
 星空の水面を、手で救い上げる。光を地面に注ぎ、瞳を細めると、そのまますっくと立ち上がった。
 ……これで、
 揺れる草々の音色に耳を澄ませながら、一つ大きく、息を吐く。
 ふと、視線を転じた。
「あぁ駄目っ?! オンサさん助け――!!」
 あいつがいなければ、もっと静かな夜になるのに――。
 瞳を向けたその先で、静けさにも無遠慮に、暴れる神父の飛ばす水音と、叫び声。少しだけ呆れたように肩を竦めると、オンサも水の中へと足を差し入れた。
 ……全く、もう。
「神父、掴まりな――ほら、足、つくだろう?」
「っはぁ、もう、本当に死んじゃうかと思ったじゃないですかっ! いきなり突き落とすだなんて、酷いですよ……!」
 びしょびしょの僧衣の適当な所をひっ捕まえ、引き上げてやった。途端、大きく深呼吸をすると、泣きそうな目で訴えてきた。
 落ち着いた神父に、水面の動きも便乗する。さわりと静まり返り、風の愛撫に従い、揺れるのみになる。
 そうして暫く、神父が力なく寄りかかってきた。
「私、もう駄目かも知れません……」
 この神父に下心などあるはずがないと、それはオンサの良く知る所でもある。
 ――なるほど、
 無駄に力をかけてくる神父に、オンサは大きく溜息をついて見せた。
「もう体力の限界かい――」
 それこそ、三歳児並の体力しか持っていないのだ。この神父は。座って書を読み、音楽を嗜み、立って説教をし、ミサを挙げ、夕食の支度をしに買い物に行き、料理をするのに必要な分の体力しか持ってはいない。一番の運動はといえば、楽団の指揮を執る事くらい。
「もう帰って寝ましょう、ね? そうしましょうよぅ……」
「今帰ったらエドとテーアの邪魔をする事になると思うけど――それでも、良いのかい?」
「……いえ、そんな……」
 なら、と、オンサは、口ごもって俯いた神父の手を取った。
「ほら、折角ここまで来たんだ。もう少しで冬になるんだから、それまでに少しは体力もつけておかないと」
 切実に、そう思う。このままではこの神父、
 冬になったら凍死しちゃいそうだよね。
 ふと、苦笑する。
「……あ、オンサさんっ! いつの間にお着替えになっていたんですか……オンサさん、私が嫌だって言っても泳ぐ気満々だったんですね?!」
「当然。あたいだって、しばらく泳いでないんだ――あっちの水はしょっぱくて、髪の毛も硬くなるし、確かに綺麗だったけど、波も高かったから、あまり泳げなかったし」
 遠い海へと、旅行へ行って来た事がある。この神父と二人きり、太陽の微笑む異国へと。
 しかし考えてみれば、あの時も、この神父は結局泳がなかったのだ。オンサによって海に突き落とされたあの後も、はじめての海にはしゃぐ彼女を泥だらけの日傘の下から見守りながら、太陽の光で濡れた僧衣を乾かしていた。
「行くよ。とりあえずは、あの辺りまで泳げるようにしてやるよ」
「いえ、ちょっと待ってくださいよ! 何か深くなってるよーな気がするんですけど!!」
「岸から離れてくんだから当然だろ? さ、つべこべ言わずにほら、泳ぐ!」
「ち、ちょっと待ってオンサさ――ッ?!」
 だからこそ、今回はそうはさせまいと、オンサは神父の手をぐいぐいと引っ張った。
 この神父がこれ以上へタレになっていくのを見逃せなかった、というのもあるが、
 もっと一緒に、楽しめる事が増えれば――、
 長くある、折角の一緒にいられる時間を、もっと楽しく過ごす事ができたのなれば。
「ほら、この枝に掴まって! まずはバタ足からはじめるよ! 良いかい、しっかりと顔を水につけて! 両手は伸ばして、きちんと足を動かす!」
「いいですって! オコトワリしますってうわ! ちょっと待っ――! あ、駄目、そこくすぐったいですって! わ――!!」
 ぐいぐいとオンサに体を掴まれ、翻弄され、何度も水に言葉を遮られながら神父がもがき続ける。それでもオンサの指導の甲斐あってか、暫く後には神父のバタ足も、やっとまともな形となってきた。
「ほら、もっとリズム良く。神父、リズム云々なら得意だろ? 心の中で好きな歌でも歌いながら、さ」
 言いながら、来年こそはこの神父と一緒に泳ぐ事ができたのなれば、と、ふと考えてしまう。一緒にできる事の範囲が広まる、つまりは、時をもっと長く、共有できるようになったとしたら。
 御爺様とにしろ、御婆様とにしろ、友人とにしろ、年下の子とにしろ、そうして、ただ単に一緒にいたい人とだって。
「ほら、大分上手くなってきたじゃないか」
 同じ事をして楽しみたいというのは、当然の想いでしかない。何かを一緒に、共有していたいと願う想いは。
 たとえ一緒にいる事ができたとしても、空と海とは、見詰め合うばかりで決して手を結び合ったりはしない。
 ――と。
 オンサが風に、空を見上げたその瞬間の話であった。
「わ、私――もう駄目ですっ!」
「ち、ちょっと神父……?!」
 神父がぱっと、木の枝から手を離す。がさり、と揺れた枝がその重みから解放たれたその瞬間、神父は水の中へと落ちて行った。
 慌てて水面に手を差し入れ、神父を探すオンサ。暗闇の中目を凝らし、纏わりついてくる水を掻き分け、掻き分け、
 そうして。
「……っはぁっ! もう私、本当死ぬかと――!」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 声音は、どちらの方が先だっただろうか。
 ようやく見つけた掴まり所に手をかけ、渾身の力で立ち上がった神父に降りかかる、オンサの叫び声。途端パシンっ! と、景気の良い音が辺りに響き渡った。
「――いったぁっ?! ちょっとオンサさん、一体何が――あ!」
「このヘタレ神父! もう知らない! 知らないって言ったら知らないんだから!」
「あいや、悪気があったわけじゃあ! って、オンサさんっ! ちょっと待ってくださいよ! 私、ここから一人じゃ岸に帰れな……!」
「勝手にしな! もう、少しでもあんなこと考えたあたいが馬鹿だった!」
「あんなことって、ねぇ、どういう! あ、ちょっと! オンサさ――オンサさんっ!!」
 平手打ちを受けた頬を、左の手で押さえながら。もう片方の手には、破けた彼女の水着を手に力なく、握り締めたままで。
 神父は裸のまま、遠くへ向かって泳ぎ始めた彼女を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。その場から一歩も、動くことのできないままで。


IV

 木々の葉の影から、細く地面に差し込む光が幾筋も見て取れる。秋の風に、虫の鳴き声が静かに倍音を重ねているかのようだった。
 薪の炎が、熱にたまらず、空へと爆ぜる。
「……時間が過ぎるのって、やっぱり早いわね〜」
 ゆるりと腕を伸ばし、テーアがのんびりと微笑んだ。燃え続ける炎にぬくもりを求めながら、
「神父も随分と濡れちゃってるみたいだけど……。オンサさん、随分とサルバーレのコト随分といじめてきたんですね〜」
「いじめただなんてそんな――な、神父?」
 濡れた髪を乾かす、オンサの方へと視線を投げかけた。その隣には、びしょ濡れの僧衣のまま震える神父の姿があった。
「……ええ、確かに虐められてなど……」
 ずりずりと炎の方へと身を寄せながら、震える声で神父が答える。どうやら神父とオンサとは、近くの泉に泳ぎに行ってきたらしかった。
 時は、もはや就寝時間。長いようで短かった一日も終わりを告げ、既にマリィはライの隣でぐっすりと眠ってしまっていた。
 ――なぜかエドの方も、一緒になって眠ってしまっていたが。
「で、テーア、エドとは少しでも上手くいったのかい?」
 ふ、と気がついたかのように、神父の背を擦るオンサがテーアに向って問いを投げかけた。
 やわらかな虫の歌声に、きららに輝く儚い光の空の海。遠く見上げながら、果してこの二人は、何を語り合ったと言うのだろう。
「……まぁ、少しだけ、お話はしました」
 ライとマリィとも、二人に気を使い、つい先ほどまでこの場所にはいなかったのだ。
「あたしもあんましエドには無理させない、って事になったんです。ご飯前に、マリィちゃんにも、そうやって言われて……」
 あまりにも急激な変化には、無理を伴う場合も数多い。ゆっくりと、テーアもエドに少しだけ足並みをそろえる事ができるのなれば、
「エドもエドで、少しは考えておきます、って言ってくれた事だし……まぁ、この話題に反応を示してくれた事自体収穫よね、収穫。このまま一生相手にしてもらえないんじゃないかって思ってただけ、なんかそれでも、嬉しかったし」
 テーアの言葉は、限りなく素直な心情であった。
 先ほど二人きりになって、ようやくお互いに切り出した話題も多かった。こういう場所だからこそ落ち着いた心で言葉を交わし、一緒に星の空を見上げ――、
「でも、良かった。なんか当たり前すぎて、どうしてもハッキリさせる事、できなかったんだもの」
 近すぎるからこそ、わからないわだかまりもある。当たり前だからこそ、気づかないものが身の回りには数多くある。
 エドとマリィとの寝顔を見やり、テーアはそっと息をついた。赤い炎の光に、その影がゆるりと揺れる。
 ふ、と、マリィとライとの包まる毛布の位置を、そっと、直してやる。少しだけ元気のなかったマリィを慰めるかのように、優しく話しかけていたライ。散歩を終え、この場所に帰ってくるなり、疲れたマリィを寝かしつけようと毛布を被り、そのままライも一緒になって眠ってしまったらしい。
 さながらその姿は、どこか家族めいていたと、
「ありがとうございました、オンサさん、それから――マリィちゃんも、ライさんも」
 口には出さなかったが、率直にそう思った。
 そんな暖かい光景を思い出しながら、テーアは視線をエドへと転じた。いつもの規則正しい生活は、どうやらここでも変わらなかったらしい。マリィとライとが戻るのを確認するなり、身の回りを整理してそのままうとうとと眠ってしまったのだから。
 ……本当に、
 どうしようもないんだから、エドは。
「いや、あたいは何もしてないよ」
 恋人の寝顔に、頬をほころばすテーアに、オンサがやわらかく言葉を返した。
 そのまましばし、沈黙の時が流れすぎる。秋色の香りが、ほのかに夏を、染め替える夜。
 一夜一夜、こうして世界は冬へと近づいてゆくのだ。一面の銀世界を、まるで誘っているかのように。
 ――不意に。
 そういえば、と、テーアが視線を上に上げたのは、それから暫くしての事であった。
「そういえば、オンサさんとサルバーレ、泉の方で何をやってたんです?」
「何、って、泳ぎの練習だよな、神父?」
「え、えぇ……まぁ、そういう事になるかと」
 かくかくと震えながら、神父がオンサの言葉にこくりと頷いた。頷き返され、オンサもテーアへと一つ首を縦に振る。
 しかし、テーアの方はきょとん、と二人の方を見つめると、
「そうじゃなくて、もっとなんていうか……本当、何をやってきたんですか? 二人きりになったのよね? だったら何かあったんじゃないんですか? オンサさん?」
 少しだけ意地悪く、瞳を輝かせた。
 途端。
「……ち、ちょっと、オンサさん?」
「何も、別に何もなかったよな、神父」
 オンサの顔が、ほんのりと赤く染まったような気がした。意外といえば意外な反応に、神父の方が驚いてしまう。
「何かあったんだ」
「ち、違いますよ、ね、オンサさん?」
 更に詰め寄ってくるテーアに、神父は必死に首を振った。しかしオンサの方は、半ば上の空で膝を抱え、炎を見つめていた。
 それから暫く、ようやくテーアと神父との言葉の応酬に気のついたオンサは、
「……と、とにかく、何もなかったよ――それより星、綺麗だな」
 慌てて何かを誤魔化すかのように、夜空をすっと指差した。
 ――勿論それが言葉の真意でない事は、テーアには良くわかっていた。しかし、なおも言葉を続けようとした所で空を見上げてしまい、そのまま言葉を失ってしまう。
 強く、弱く。煌めく光の波打ち際に、月という名の女王が堂々と君臨していた。この炎意外の光源が無い場所で、闇を照らし出す、唯一の輝き。
 月並みな感想だとは思う。しかし、
「綺麗、ね」
 先ほどまで、エドと一緒に見上げていた夜空。又いつか、この人と一緒にこの夜を過ごせたら――。
 テーアがそっと、瞳を閉ざす。まるでこの先を、切々と祈るかのように。
 その姿に、神父とオンサとは顔を見合わせて微笑みあった。そのまま同じくして空を見上げ、言葉にならない感動を共有する。
 ――そうして、少しだけ縮まる、二人の距離。
 触れ合ったぬくもりは、炎の光よりも、どこか暖かいようにも思われた。


Finis



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            I caratteri. 〜登場人物
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<PC>

★ マリアローダ・メルストリープ
整理番号:0846 性別:女 年齢:10歳 クラス:エキスパート

★ ライオネル・ヴィーラー
整理番号:0966 性別:男 年齢:18歳 クラス:グリフォンナイト

★ オンサ・パンテール
整理番号:0963 性別:女 年齢:16歳 クラス:獣牙族の女戦士


<NPC>

☆ サルバーレ・ヴァレンティーノ
性別:男 年齢:47歳 クラス:エルフのヘタレ神父

☆ テオドーラ
性別:女 年齢:13歳 クラス:ご令嬢

☆ エドモンド
性別:男 年齢:15歳 クラス:執事



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          Dalla scrivente. 〜ライター通信
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 まず初めに、お疲れ様でございました。
 今晩は、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。海月でございます。今回はお話の方にお付き合い頂きまして、本当にありがとうございました。又、いつもの事ながらに、締め切りぎりぎりの納品となってしまいまして、本当に申し訳ございません。
 今回のお話の方は、実際あまり解決していないようにも思われますが、きっとこの先には大きな影響を及ぼしていくのではないかな、と思います。PCさんそれぞれの想いがあって、プレイング、とても重たく受け止めさせていただきました。上手く表現できていると良いのですけれど……。

>オンサさん
 神父を連れ出して、という辺りにもうドキドキでございます(爆)きっと今回も景気良く引きずりまわして下さっている事と思いますが……。
 確かにオンサさんにとってみれば、このような悩み事は不思議なものなのかも知れませんよね〜。本当に純な一言には、流石の神父も驚きを隠せなかったようですが(笑)
 時間帯の方がプレイングと多少ずれてしまいまして申し訳ございませんでした(汗)昼間の事はさっぱり描写できませんでして……今回も文字数が結構苦しかったんです(汗)

 では、乱文となってしまいましたがこの辺で失礼致します。
 PCさんの描写に対する相違点等ありましたら、ご遠慮なくテラコンなどからご連絡下さいまし。是非とも参考にさせていただきたく思います。
 次回も又どこかでお会いできます事を祈りつつ――。


08 septiembre 2003
Lina Umizuki