<東京怪談ノベル(シングル)>


■贄■
 目に焼き付いて離れない‥‥。
 血に塗れた、過去見の巫女。
 助言をした老女。
 そして、ノージュの影が言った、あの言葉‥‥。
 窓の外から覗く月光を浴びながらノージュ・ミラフィスはじっと手元の短剣を見つめた。蒼白くきらきらと光を反射する刀身は、幾度も妖魔の血を吸ってきた。
(僕は‥‥本当に過去を取り戻した方がいいの?)
 あの影が言った言葉に感じた、一抹の不安はぬぐえない。自分の親、育った土地、友人。
 何があり、どうして記憶を失う事になったのか、ノージュは知りたかった。無くなった欠片を見つければ、きっと本当の自分になれる。そう思っていたから。
 だが知ろうとすればする程、何か見えない影が‥‥恐ろしいものが迫ってくる気がした。大切なものも失った。
(誰かが僕を追っている‥‥僕の力を恐れている‥‥? でも、もし僕の力が誰かを傷つけるなら)
 あの時の、胸の中に芽生えた熱い感覚‥‥ノージュの不安を、かき立てていく‥‥。それをうち消すように、ノージュは首を振って布団に潜り込んだ。

 ほのかに鼻につく、木々のにおい。ノージュは、大木の根本に腰を下ろし、ぼんやりと空を眺めていた。木々の合間から覗く蒼い空は、森に描かれた青空の絵のように、くっきりと映えている。
 ふと自分の服装に視線を向けると、ノージュは自分の服装に触れてみた。身につけているものは軽装だが、鮮やかな生地と、それらを彩る細かな刺繍。森に生き、森と生きるエルフは皆質素な出で立ちだが、自分の服装は豪奢な部類に入るだろう。
 この辺りの木々は薙ぎ倒されておらず、生き物たちのテリトリーをむやみに侵す事なく、美しい自然の景色がどこまでも続いていた。自分達は、その間を縫って通り、自然とともに生きる。
 ふい、とノージュは立ち上がった。
 誰かが近づいて来る。どうやら、自分を捜しているようだ。
「‥‥姫様!」
 若い青年が、自分の方に駆け寄ってくる。ノージュは彼が追いつくのを、その場でじっと待った。いつも彼と待ち合わせをしたら、自分が先に着いている。
「護衛するべき私より後に着くなんて、近衛兵失格だよ」
 ノージュが軽い口調で彼を叱りつけると、彼は申し訳なさそうに頭を下げ、跪いた。
「申し訳ありません‥‥」
「もういい、早く行かないと日が暮れちゃうよ」
「分かりました‥‥しかし、姉君に一言仰って出かける方が、よろしいのではないですか?」
 それは出来ない。ノージュはきっぱりと言った。
 姉は、婚礼を控えてる上、王たる両親が居ない為、国の執政もすべて姉が行っている。忙しい姉の手を煩わせる訳には、いかなかった。
 そりゃあ、自分より姉の方が力はある。姉は、国で一番の巫女なのだから。巫女として国を治める姉が自慢であったし、好きだった。
(私も、姉上と同じ血を引いているんだ‥‥姉上の代わりに、私が魔物を倒してみせる)
 ノージュは気を引き締めて、歩き出した。
 目指す村は、城から半日ほど歩いた距離にある。ノージュがその村の出来事を知ったのは、城下を一人で散策していた時だった。
「近くの村に、魔物が出るそうだよ」
「では、何者かを向かわせて‥‥」
 と言った近衛兵に構わず、ノージュは城を飛び出した。
(こんな時、父様と母様が居たら‥‥)
 親の姿や声といった記憶が無いノージュは、姉や周囲の人物からしか親の事を聞いては居ない。ただ、母も巫女であり、祖母も巫女であるとしか知らなかった。
(どうして死んでしまったの、父様と母様は‥‥)
 脳裏に浮かばぬ両親を思い、ノージュは足を止めて俯いた。
 そしてふと、後方から付いてくるはずの足音が聞こえてこない事に気づき、ノージュは振り返った。自分を追ってきたはずの護衛兵の姿が、どこにも無い。
「‥‥ちゃんと付いてきてるの?」
 ノージュは、声を張り上げた。ノージュの声は、木々のざわめきと鳥のこえにかき消されていく。帰ってくるはずの声は、どこからも戻っては来なかった。
 不安を感じている訳ではない。自分は道に迷っていないという事は、自分自身で分かっているから。迷っているのは、向こうの方なのだ。自分は迷ってなど、居ない。
 自分の進むべき道を、進んでいるはずだ。自分の望む通りに。
『本当に‥‥?』
「誰?」
 ノージュは、振り返った。後ろ‥‥? いや、上なのか。ノージュは、あちこちに視線を向ける。移りゆく景色は深い緑色に包まれており、そのどこにも人の気配など無い。だが確かにどこからか、声が聞こえてきた。
「誰なの、今話しかけたのは」
 ノージュの周囲に、人の気配も生き物の気配も存在しない。もしかすると、声を掛けたのは、人外ではないのか。
 ノージュにはじめて、緊張が走る。もし、今のが妖魔だったら‥‥。そうっと腰の短剣に手を伸ばした、その時ノージュの右側の茂みで物音が聞こえた。
 とっさに姿勢を低くし、攻撃に備えたノージュの頭上を、何かが凄まじいスピードで駆け抜けた。まるで黒い矢のような影が、音の聞こえた茂みに飛び込む。
 呆然と立ちつくすノージュの目の前に、ゆっくりと影が立った。その右手には鋭い爪が生え、何かを探るようにぴくり、と動いた。
 今動けば、自分もあの、茂みの中に居たモノのように命を奪われてしまうだろう。微動だにしないノージュを、影はじっと見つめた。
 黒い、濡れたようにつややかな髪が地まで伸び、深紅の鋭い目が白い肌を際だたせている。その中性的な顔立ちは‥‥。
(姉様に‥‥似ている)
 優しい笑みをいつも絶やさぬ姉の面立ちに、どこか似ていた。いや、姉だけでは無い。自分自身にも‥‥。
「‥‥あなたが、村の人を襲っている妖魔だね」
 静かに、ノージュが語りかけた。妖魔は、ただこちらをじっと見つめている。眉がすこし寄せられ、妖魔は悲しそうにこちらを見つめた。
「どうして‥‥そんな顔をするの? ‥‥何が言いたいの」
 ノージュが、一歩足を前に踏み出す。妖魔の指がぴくりと動いた。妖魔の一挙一動が、ノージュの命を狙っている。その緊迫感が胸を圧迫する。しかし、緊張感と同じくらい、妖魔への興味が大きく膨らんでいた。
「あなたは‥‥誰」
『‥‥』
 何かを話した‥‥気がする。
 そこでノージュの意識は、現実に戻ってきた。

 ゆっくりと窓を開けると、外から心地よい風がカーテンを揺らして入ってきた。目を細め、外を見つめるノージュ。
 夢‥‥?
 今のは、夢なんだろうか。それにしては、やけにリアルで、どこか懐かしい匂いがした。姉の顔や、妖魔の表情までもはっきり思い出せる。
(巫女‥‥巫女と言っていた?)
 妖魔が最後に言った言葉を、ノージュは思い出そうとしていた。
 巫女とは、神に仕える存在。
 巫女は通常、穢れ無き乙女である事が求められる。
 では‥‥では姉は、誰と結婚しようとしていたのだ。夢の中の姉は‥‥巫女であった姉は、誰と結婚したのだろうか。
 あの、自分たちに似た顔の妖魔は‥‥。
 じわり、と胸に滲む鼓動を、また感じた気がした。今度は、この間よりも強く‥‥。まるで、中から何かがしみ出すように。

(担当:立川司郎)