<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


盃と蜘糸

□オープニング□


「さぁ、好きな盃を取れ」
 ルアンは選択に迫られていた。目の前には10の盃。そのどれもが美しい光沢を持ち、選ばれるのを待っているかのように輝いている。
 どれも取りたくない――それが本音。
 だが、机に肘を付きこちらを見据えている老人の邪悪な気配に慄いてしまう。選ばなければ待っているのは死だけ。若い身空で天に召されるなど、まっぴらご免だ。
 ルアンは持久戦を覚悟した。おそらく猶予は一日。先に逃がした友人が助けを求めてくれてるに違いない。
 ここは村からそう遠くはないはず。格子のはまった窓の向こうを見つめて、僅かに吹き込んでくる風に目を閉じた。

 夜がゆっくりと忍び寄り、ガヤガヤとベルファ通りが混み合う時間になった。
「私が買出しなんて、何年ぶりかしら?」
 通りの老舗「黒山羊亭」の主人エスメラルダは、急遽休んでしまったバーテンに代わって紙包みを抱えていた。丁寧に何重にも紙を使用し、細い紐でくくってあるそれは、店で使用するグラスだった。
 もう少しで店の前――というところで、男がぶつかってきた。
「ちょっとあんた、前見な……ど、どうしたんだい!?」
 エスメラルダの視線の先には、うつ伏せに倒れた男の姿。助け起そうとした時腕を掴まれた。男は掠れた声で呟くように吐き出した。
「――蜘。く、蜘が出た…ま、だルアンが……い」
「蜘がどうしたっていうのさ! ちょっと!」
 掴まれた腕に手をかけた。男と目が合った。

 生き人の目じゃない……。

 風が強く吹いた。エスメラルダの腕をすり抜けるように、瞬間男は蜘糸となって空に舞った。服も何もかも置き去りのまま――。
 僅かに残った糸を摘み上げ、エスメラルダは美しい眉を寄せ唸った。男は「まだルアンが…」と、確かに言った。
「まだ助けがいるようね……情報を集めなくては」
 立ち上がり踵を返すと、店のドアを開けた。


□夜を率いて ―― フィーリ・メンフィス+鬼灯

 エスメラルダは情報通のダズに蜘蛛について調べに走らせた。開店を待ち侘びていた客の中に救い手を求めたが、手を上げるものはなかった。どうやら最近、恐ろしい現象が起こっていると噂になっていたらしい。
「街外れに出かけた者が帰らねぇって話だ。ある者は恋人の前で糸だけになったんだと……」
「ひぇ〜、恐い」
 一刻を争う状況だというのに、上がるのはヒソヒソとしゃべる臆病者の声ばかり。エスメラルダは呆れつつ決断した。自分と護衛のネストを連れてルアンを救出する――「行く」と声上がらない限り他に手がない。
 決心に燃える目を察して、慌ててバーテンが止めに入った。
「お止め下さい! ネストはともかく貴方はここに必要な方だ、何かあったら」
「では、見殺しにせよと言うの? 私には出来ないわ」
「ですが……」
 そこに「暇ですから」と声がして誰かが手をあげた。それは長い黒髪が女とも見紛う少年の腕だった。赤い瞳をキラキラさせてエスメラルダを見ている。
 挙手したフィーリ・メンフィスは夜行性。特に戦闘ならば夜の方が昼間のそれより幾分も動きやすい。それ以上に言葉通り、ここのところ生活が穏やかで暇をしていたところだったのだ。
 救出参加者に喜ぶエスメラルダ。その彼女の長いドレス裾を引っ張る者がいた。視線を下げると、それは小さな少女だった。
 6歳くらいだろうか。美しい着物に白い肌。赤く紅をさした唇が愛らしい日本人形のような姿。。彼女もまた、この界隈では有名な少女だった。何しろその容姿は、愛らしい小さな人形のようであったからだ。しかしその実、とても強い戦闘能力を持つ者としても著名であった。
 鬼灯が微笑む。それにつられる形で、フィーリが笑みを返した。
 そこへダズが走り込んできた。エスメラルダはメモと耳打ちを受けると、得た情報をふたりに話した。
「ここから西へ街外れまでいった所に、古びた屋敷があるわ」
「そこにルアン様がいらっしゃるのですか?」
「ええ、人型をした蜘蛛という情報しかないから、相手の手のうちは不明よ」
「ま、手合わせしてみれば分かりますよ」
 ふたりが意志をあわせ、屋敷へと向かおうとした時エスメラルダに呼び止められる。
「ネストをお連れなさい」
 大男が深々と頭を下げた。
「話にきいたところ、あなた方は回復を戦闘を得意とされ、回復は苦手としているそうね」
「彼は、戦闘もできるけど、専門は回復術なの」
 確かに2人は戦闘系であり、しかも先手必勝タイプなので、大概の場合回復をすることなどはなかった。だが、今回は相手の攻撃方法が不明であり、保護しなければならない人間もいる。自分達に使用しなくとも、ルアンには必要となる可能性は高かった。
「やぁ、人が多いと助かりますよ」
「ネスト様、よろしくお願いいたす」

 夜の街を3人はすり抜けていく。通り過ぎる人の波は、まだ宵の口であることを告げている。
「ルアン様はどうして蜘蛛に捕らわれてしまったのでしょう?」
「ダズの言葉では、仕事があると呼び出されたらしいとのことです」
 なるほど…と、赤い唇に指を当てて鬼灯がうなづく。後方を歩いているフィーリに声をかけた。
「お聞きになりました? 知能が発達しているように思うのですが、フィーリ様はどう思われます?」
「……手ごわい、かな? とにかく対峙してみるに限るよ」
 夜気が静かに冷たくなっていく。
 街外れに近づくにつれ、次第通りかかる人は減った。整理された町並みが途切れ、古く壊れた寂しい場所が多く見うけられるようになっていた。

 鬼灯とネスト。そしてフィーリの間には、歩くにつれかなりの距離が開いていた。
 それもその筈、ネストは小さな人形である鬼灯を肩に乗せて歩いているのだ。フィーリと大男のネストでは一歩の幅が違い過ぎる。
「追いつかなくていいの?」
「いいんだよ、彼女はああ見えても戦闘能力は高いらしいからね」
 可愛らしい声で心配しているのは、肩に乗っている子竜ジークだった。先ほどまでは「キィ」と鳴いていたが、相棒とふたりになると俄然おしゃべりになるのだ。
「でもさ、でもさ、どんなヤツかなぁ?」
「さぁ、蜘蛛って言うくらいだから糸くらい吐くんじゃないか。ま、俺は戦えさえすれば相手は誰でもいいからね」
「相変わらずだなぁ……フィーリは」
 苦笑いをした少年の視線が止まる。前方のふたりの動きが停止した。
 ついに街と荒野との境目がやってきたのだ。冷たかった風が生暖かいものに変化し、頬を撫ぜる。鬼灯は顔に掛かるまっすぐな黒髪を指で払い除けた。
 と、その一本が指に絡んだ。
「……?」
 ゆっくりと引き伸ばしながら、人差し指を見た。それは彼女の髪ではなく、銀に光る蜘糸だった。
「きゃっ!!」
 短い叫び声が上がる。ネストの肩から、あっと言う間に鬼灯の体が宙に浮かんだ。
 重力に比して、指にすべての体重がかかる。いくら軽い少女だとて、それに耐えられるはずもない。必死に蜘糸を外そうとするが、ダラリと下がった体が邪魔して思うように手が動かない。
「あれか!」
 フィーリは闇に紛れて光る1本の糸を見つけた。それは高く空へと伸びている。糸の先を探ってみたが、発見するには闇色が濃すぎる。
「……くそ、主はいないか」
 ネストが長身を生かして鬼灯の足を掴もうとしている。フィーリはその背に向かって勢いよく走り出した。
 彼がしようとすることを察知して、ジークが飛び立つ。少年の右足が大男の背を蹴った。空中で体は反転する。同時に、黒い翼が現れた。蝙蝠にも似たその翼を羽ばたかせ、フィーリは空を舞った。
 幻翼人――飛行する際のみ翼が現われる種族。翼のない状態では人間と区別するのは難しい。翼の種類は多種に渡り、彼の幼馴染などは天子のような美しい翼を持っている。

 細長い刀身。月明りさえない闇の中で光りを放つ。
 フィーリの腕が振り下ろされ、その体が大地に着地した時、すでに鬼灯はネストの腕の中にいた。
 鬼灯は自分を助けてくれた男達に丁寧におじきして、凛と立った。着物に使われている朱金の糸が闇に栄える。
「かの人は、ずいぶんとご立腹のようですな」
「ああ、自分が退治されることを知ってるみたいだね」
 古びた屋敷は目の前にあった。
 まるで到着を待ち侘びたかのように、壊れかけた門扉が風で開いては閉じている。ぼんやりと明りの灯る部屋。3人は屋敷の奥へと足を踏み入れた。

□闇に先んずる者 ―― フィーリ・メンフィス+鬼灯

「さぁ、月明りのない夜だ。そろそろ覚悟を決めてもらおうかな」
「選んでる間に助けがくるさ」
 ルアンはすっかり沈んでしまった夕陽を思い出した。光を背にし、斜の掛かる友人の顔が心配で歪んでいる。
「お前が友人を待っているなら考えを改めることだ。蜘糸になって空に散りたくはなかろう?」
「……糸、空――、ヤツに何をした!」
「フェフェ、贄を増やしてもらっているのさ」
 老人はさも可笑しそうに笑った。隙間ばかりになった歯の間から、嫌な音が零れる。吐き出される息を吸うだけで、肺が腐りそうな気分になった。
「さて、お前は何になりたい? 選ばせてやっているんだ、優しいだろう私は」
 最近新しい店が出来て、木加工を営むルアンの生活は苦しくなってきていた。だからと言ってこんな化け物に関わってしまうとは――。浮かれて内容も確認せず、出向いた自分に腹が立った。
 助けは来ない――いや、来てもコイツにやられるだけだ。何故なら、そこら中に張り巡らされた蜘糸ですべてを感知してしまうのだから。
 俺は、俺はこのまま配下に成り下がるしかないのか――。
 最後まで希望を捨てないと息巻いていたルアンにも、ついに絶望の色が心の奥底まで染み渡ろうとしていた。
「これにする……」
 ルアンはついにひとつの盃を手にした。それは3番目に並べられた漆塗りの盃。
 どうせ死に際に手にするなら、馴染んだ木がいい。蜀台の明りを受け、美しく輝く黒い盃。これが、ただの宴であったならば、どれほど嬉しいかっただろうか――。
 青年の手はそれを口元へと運んだ。今にも伸びて来そうな老人の腕に怯えながら。

ゴクリ。

 ルアンの喉が上下した瞬間、激しく硝子の割れる音が響いた。
 格子が外れ、小窓から小さな体が飛び込んだ。続いて長い髪を翻した影。
「先手必勝」
「無論ですわ」
 フィーリと鬼灯は左右に転じた。その瞬間、老人の手が伸びた。壁板を破り、粘着質の糸がそれに絡む。
「大した贄だ……これは、いい」
 ニヤリと笑い、老人はルアンの体を横殴りにした。
 ――ガラン。
 硬質の音が響く。揺らぐ光りの中でふたりが見たのは、木人形のように硬くなって倒れている被保護者の姿だった。
「ちっ、遅かったか」
「いいえ、まだ救う手立てはあるはずです」
 敏捷な動きで、フィーリが魔法剣を繰り出す。炎が吹き出し老人を襲う。が、老獪は長く伸びた腕を戻し、それを払った。古ぼけたタペストリーに燃え移った。炎は燃え移り周囲を焼き始めた。
「ネスト! ルアンを確保しろ!」
 フィーリが続いて室内に入ってきた大男に叫んだ。彼が重そうにルアンを抱えるのを確認する。その間にも火は廻り、蜘蛛の退路は断たれた。
「フェフェ、まだまだだよ」
 気味の悪い声を出して、老人の体が飛んだ。天井に張り付き素早く移動する。破れた天窓から、その姿が消える。
「フィーリ様、わたくしを投げて下さいまし!」
「なんだって!?」
 一瞬、少女の言葉の意味がわからなかった。が、傍を飛んでいたジークが言った。
「面白そう」
「急いで! フィーリ様は外へ!」
 火勢の強くなる室内。フィーリは少女を抱えると、天窓目掛けて投げた。おそらく着地は出来るだろう――出来なければあんな提案などしないはずだ。
 鬼灯の姿を確認せず、少年は入ってきた窓から外へと飛んだ。
 瞬間、天井が崩れた。

 ネストがルアンを抱えて見守っているのが見えた。
 夜気が冷たい。僅かに焼けた髪をなびかせ、フィーリは裏へと飛んだ。翼が煙を裂く。
「鬼灯!!」
 崩れかけた屋根の上で、蜘蛛と小さな少女は対峙していた。フィーリは舞い降りようとしたが、熱気が強すぎる。
 空を舞うフィーリの姿に、蜘蛛が笑う。
「私は自分の代わりに動く者が欲しいのだよ。あんたは人形だ、あの若い少年の体がいいよのう」
「わたくしは気高き主の創りし者! お前などに愚弄される筋合いはないわ」
 鬼灯は手の平に力を入れた。ガシャリと器械音がして、腕が丸ごと変化する。
「鬼砲……これに掛かって非礼を詫びなされ」
 蜘蛛の口が怪しく動いた。鬼灯はそれを見逃さなかった。瞬時に重力波を放つ。
 放たれたエネルギーと同時。蜘蛛の口からは大量の糸。それを蹴散らしながら、波動は妖しの体を捕らえた。
「蜘蛛が自由に生きて何が悪い……日の元で」
 叫ぶ声が闇と黒煙の間に消えた。蜘蛛の体は残らなかった。

 だが、大量に吐き出された蜘糸は波動をすり抜け、鬼灯の自由を奪った。妖しの執念が絡まる。
「く、外れぬ」
 炎はすぐそこまで来ていた。この屋根ももう落ちる。
 鬼灯の黒袖が焦げ始めていた。
「手を!!」
「フィーリ様!!」
 見上げれば少年の姿。煙と熱気の間を縫って、彼は少女の真上にいた。
 足元が崩れた。炎が赤い舌を出し、黒く澱んだ煙が這い上がる。
 ――手は繋がれた。
 炎よりも高く、フィーリは舞いあがった。翼が熱い。
 ネストが見えた。ルアンの固まったままの体も見える。
「ありがとうございます。2度目ですな」
「いや、蜘蛛を倒したのはキミだよ。あんな技を持っているとはね」
 そっと地上に降りる。煤けた袖を払うと、鬼灯は微笑した。
「うふふ、奥の手は隠しておくものですわ」

□手と手 ―― フィーリ・メンフィス+鬼灯

 ルアンは木人形になっていた。
「人形……わたくしと同じですな」
 同じとは言っても、このままではただの木偶。鬼灯はネストに訊ねた。
「治療法を存知ておられるか?」
 ネストは大きく頷いた。鬼灯は胸を撫で下ろし、フィーリを見た。
「これで万事解決。帰りませぬか?」
「俺はゆっくり後から行くよ。お先にどうぞ」
「もしや、屋敷を焼いたことを……」
「主無き屋敷だろ。そんなわけないさ。ただ、すべてが焼けるのを見ていたいだけだよ」
 ここでは治療できないと言うネストに促され、鬼灯は黒山羊亭へと足を向けた。

 空を焦がしながら、炎はまだ赤く光っている。
「ねぇ、どうしたの?」
「なんでもないよ。それより、ジークはお腹空かないのか?」
「うーん、ちょっとね」
 ぼんやりと立ったまま、闇と炎を見つめる。と、小さな足音が聞こえた。
 振り向くと、鬼灯が笑っていた。
「忘れ物がありました」
「何か?」
 にっこりと笑むと、鬼灯は小さな手の平を差し出した。
「握手致しましょう。こんな兵器になる恐い手ですけれど」
 馴れ合うのは好きじゃない。一瞬躊躇した。けれど、本当に嬉しそうに笑っている少女の手を、退けることはできなかった。
「じゃあ、ハイ」
 掴んだそれは、少し硬くて冷たかった。でも、触れた場所から暖かい気が流れてくる気がした。

 木がはぜる音。
 夜が更け、冷たさに僅かに白くなる息。
 互いに背を向けて進んでいく。

 ――協力するってもの悪く無いかな。
 ――色々と楽しい日でしたわ。

 思いを胸に、朝はまた世界を照らす。



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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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+ 1112 / フィーリ・メンフィス / 男 / 18 / 魔導剣士 +
+ 1091 / 鬼灯(ほおずき)  / 女 / 6 / 自動人形 +

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■         ライター通信          ■
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 締め切りギリギリで、本当にすいません。ライターの杜野天音です。
 戦闘モノは初めてでしたが、如何でしたでしょうか?

 鬼灯というキャラは、とても動かし甲斐のある魅力を持っていてすごく好きです。もっと心理描写の部分が多いものも書いてみたいと思いました。
 蜘蛛のラストが簡単でしたが、それはひとえに鬼灯の強さの賜物です。
 心に残る作品となれば幸いです。ありがとうございましたvv