<東京怪談ノベル(シングル)>
■妖しの影−聖なる供物■
片手にしっかりと画材道具を抱え、一人の少女が山道を歩いている。たった一人、少女は危険を顧みずこの険しい山を越え、旅路を進んでいた。
まだ幼さの残る顔立ちの少女、ノージュ・ミラフィスは人生といえる記憶を僅かしか持って居ない。十才ばかりの年頃の自分がそれ以前の記憶をすべて失っていると気づいた時から、ノージュの旅は始まった。
それから彼女は、愛用の画材道具だけを手に、旅を続けてきた。途中で二降りの短剣を手に入れてからは、それをつかって戦う術も覚えた。
自分の力で困難を切り開いて進んでいく事で、自信がついていた‥‥そんな頃だった。彼女に影が墜ちたのは。
深い山に囲まれた湖岸の小さな町は、活気に満ちあふれていた。いつもは静かで長閑な町だが、この特別な日だけは町を出ていた親兄弟や子供が戻り、喜びに沸き立つ。
町の人々は今年も作物の収穫に恵まれた事を祝い、祭りを行っているのである。ノージュは、町に足を踏み入れたとたん、明るい町の人たちに囲まれ、歓迎された。町の人たちのそんな表情に、ノージュの顔にも笑顔が浮かぶ。
しかし、どうしても町の人たちと共に喜びに身を投じきれない自分があった。彼女がここに呼ばれた理由を、忘れて居ないから。
町の人たちをかき分け、ノージュは依頼主である町長の姿を探した。収穫された作物が街頭のあちこちでふるまわれ、食欲をそそるいい匂いが漂っている。ついそちらに足を向けたくなる誘惑を押さえ、やがて街の広場にたどり着いた。
広場に設置された舞台の上では、若い女性達が華やかな衣装を身につけて踊っている。楽しそうな彼女達を見て、ノージュの表情が曇る。
(あの中に‥‥)
「ノージュさんですか?」
年老いた男性の声を背後に聞き、ノージュは振り返った。ノージュの後ろに、白髪交じりの老齢の男性が、立っている。整った身なりから、農夫ではない事が伺えた。
「あなたが‥‥町長さんですか?」
「はい。‥‥立ち話も何ですから、こちらへ」
町長に案内され、ノージュは町長の屋敷へと向かった。
町長とはいえ、特別豪華な家に住んでいる訳ではない。この長閑な町は大きな町から離れており、贅沢とは無縁の暮らしをしている。町は作物の収穫でようやく潤っており、作物が取れない年は厳しい生活を強いられる。だからこそ、豊作であった年の喜びは大きいのだ。
「‥‥それで、詳しいお話を聞かせていただけますか」
ノージュは町長に、話しを切り出した。
彼女に持ち込まれた依頼は、この村の娘を護衛する事であった。
毎年この村では、村で一番美しい娘を選出しているという。収穫を祝うにぎやかな祭り‥‥。彼女達は、選ばれれば遠い町の貴族達の嫁になれるとか、遠くでよい暮らしが出来ると信じている。
しかし‥‥。
「この村の湖には、古くから妖魔が棲みついているのです。昔、その妖魔は村を荒らしていたそうですが、とある巫女が我が身をもって封じてくれたと言い伝えられております」
それ以来、妖魔が覚醒する事を防ぐ為、町では若い娘を巫女に見立て、供物として毎年一人捧げることとなった。それを知るのは、町の一部の大人のみである。知ってしまえば、誰も巫女になりたいなどとは思わず、楽しいはずの収穫祭が悲しみに満ちてしまう。
「何とか、妖魔を倒す事は出来ないんですか?」
あの広場で踊っていた女性達の一人が妖魔に襲われてしまう光景は、見たく無い。妖魔を倒す事が出来れば、これから街の女性が犠牲になる事はなくなるだろう。それが一番の良策なのだが‥‥。
「それが出来るなら、もう倒しています」
「そう‥‥ですよね」
ノージュは、視線を落として膝をぎゅっと握った。町長のどことなく落ち着かない様子を見ていると、これから起こる悲劇がじわじわとノージュに実感として浸透して来た。
しんしんと染み渡るような、静寂。ノージュは、ゆっくりと体を起こした。いつの間にか、空には月が昇っている。
ノージュは、いつから意識を失っていたのだろうか。
自分は、巫女の護衛として町長達と、御輿の準備を‥‥。
月明かりにノージュの体が照らされる。そこでようやく、自分が巫女装束を身に纏っている事に気づいたのだった。
(どうして? ‥‥僕‥‥)
ノージュは、周囲を見回す。どうやらここは、湖畔の洞窟の仲であるらしい。月明かりが天井に開いた空洞と、入り口から差し込んでくる。洞窟の入り口の向こうには、満月を映し出す湖がはっきりと見えていた。
ぞわ、と何かの気配を感じ、ノージュが洞窟の奥に視線を向ける。そこには黒々とした闇が広がるばかりで、何者の姿も無い。そしてノージュは、再び視線を入り口に向けた。
ふわり、と風が吹く。その瞬間、何かがノージュの体に影を落とした。天井から降り注ぐ月明かりが、人型をくっきり地面に作り出している。
ノージュは静かに視線を、腰に向ける。そこには、短剣は無かった。武器といえるものは、何一つ持って居ない。
だとすれば、戦う方法は一つしかない。
振り返りざま、ノージュは妖しのモノを召喚。素早く飛び退いた。闇の中、影が揺らぐ。
薄い青色の着流しを身につけた、ヒト型のもの‥‥それはノージュの呼び出した影の攻撃をかるく受け流した。柔らかそうな髪がさらさらと風に揺れ、その合間には人には無い‥‥角が生えている。
この湖面に映る月のように、美しい顔だち。
ノージュは、外に向けて走った。影に相手をさせながら、洞窟の外に飛び出す。
(もしかすると‥‥外に置いてあるかも)
ノージュは、外に置かれているはずのあるものを探した。
ここまで、担いで来たはずは無い。もしかすると、ノージュの私物はその中にあるかもしれない。ノージュは、ここに来る前に、それが存在する事を目で確認していたから。
湖畔の草原に、彼女が探していたもの、巫女を運んできた御輿が鎮座していた。ノージュは御輿に駆け寄り、その中をさぐる。
上から掛けていたと思われる白い布の下に、まずノージュの衣服が見つかった。その下に手を差し込みつつ、ノージュは視線を後ろに向ける。あの妖魔は、影の放つ攻撃をゆらりゆらりとかわし、ノージュを見た。
(くっ‥‥全然歯が立たないっていうの?)
ノージュの表情が、ぴくりと変化した。手に、堅い感触が触れる。それを掴み、引き寄せて駆け出した。影を後ろに下げながら、ノージュは妖魔に短剣を斬りつける。
後退しつつ短剣の攻撃を避けた妖魔に、更にノージュは二度、三度と短剣を突きつけた。
四度目、ノージュの短剣に妖魔の手が向けられ、刃を細い指でぴたりと摘み、動きを止めた。指で摘んでいるだけなのに、ノージュがいくら押しても短剣は動かない。
「‥‥は‥‥離してよっ」
ノージュは妖魔を睨み付ける。
‥‥何故だろう、妖魔はじっとノージュを見下ろしていた。
その悲しげな視線に、ノージュの手から力が抜ける。
「何故‥‥。どうして?」
『わたしは‥‥お前と戦う理由が無いからだ』
凛とした、美しい声だった。ノージュは言葉を続ける。
「僕は、街の人たちから妖魔を倒すように言われている。‥‥僕には、戦う理由があるんだ」
『‥‥』
妖魔は、すい、と手を離して前に押し出した。軽い仕草だが、ノージュの体は突き飛ばされたように後ろに転がった。くるりと身を転がして、体勢を立て直すノージュ。
(危険な妖魔なんじゃないの? ‥‥どうして僕を攻撃しないの)
ぎゅっと柄を握りしめ、ノージュは手の中に短剣がある事を感触で確認した。街の人たちから依頼されている以上は‥‥いや、街の人たちの安息を手に入れるには、妖魔は倒さなくてはならない。
しかし、その妖魔の目は哀しく輝いていた。
(続く)
(担当:立川司郎)
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