<PCクエストノベル(3人)>


忘却の彼方に、産声 〜クーガ湿地帯〜

__冒険者一覧__________________________
【1256 /カイル・ヴィンドヘイム/魔法剣士】
【1112 /フィーリ・メンフィス/魔導剣士】
【1244 /ユイス・クリューゲル/古代魔道士】
__________________________________________________

【序章】

 足下に広がる湿った土に、少しずつ白いものが混じり始めていた。
 大蜘蛛達の吐き出す細い糸である。
 勿体ない、と言わないばかりに――小柄の銀髪、カイル・ヴィンドへイムがその場にしゃがみ込んで指先を伸ばす。
 と、きめ細かく細い綿の様な銀糸は、土の上でこなれてしまい、薄汚れた茶色の埃塊となってしまう。

ユイス・クリューゲル「止めとけ、無駄だし。虎穴に入らずんば孤児を得ずって言うだろう? そんな端くれ、何の価値も無い」

 後から緩慢な速度で一行に追い付いた長身の男、ユイス・クリューゲルが――右と左の足を交互に前に出すのも億劫だといった風な足取りでヴィンドヘイムの横を通りすぎ、そう言い放つ。
 既にかなり前を歩いていたフィーリ・メンフィスが立ち止まり、薄い雲に翳った朝の光を掌で遮りながらヴィンドヘイムを待っていた。

フィーリ・メンフィス「早くしないと日が登り切っちゃうよ? いくら腕比べって言っても、少しでも勝てる状態で勝負に挑みたいからね俺は」

 そんな二人の姿を交互に見上げてから、慌てた様にヴィンドヘイムが立ち上がる。ぱしぱしと両手を叩いて、再びその足を歩ませ始めた。

カイル・ヴィンドヘイム「っ待って下さいよ、リーチの差が有りすぎますッ!」

 クーガ湿地帯。
 南にはじめついた沼が広がっており、湿地帯はその入り口とも言える北側に位置している。
 三人が目指す大蜘蛛の生息地帯は、湿地帯の奥深くに存在し――迷い込んだら二度と抜けられぬ、昼尚暗い沼地の様な地域に縦横無尽に張り巡らされている。
 真綿の様に繊細で柔らかい銀糸は湿地の奥地を幻想的な純白の空間に変えており、その白の濃い中心部分では残虐な湿地の主が貴重な養分が糸に掛かるのを虎視眈々と待ち続けている…と言う、噂であった。

 貴重等と言っても、実際に湿地の主達がその食事に事欠いているかどうかは定かではない。
 彼らが生きる糧を得るために吐き出す艶やかな銀糸が、都ではどういう訳か貴重品として重宝されているからだ。
 どの様な作用が働く為なのか、術者が用いれば己の魔術を幾許かなりとも増幅させる事ができる。
 衣服に織り込めば、受けた術は纏う者への衝撃を半減させることができる。
 実際、己が術や衣服に銀糸を組み込んだ者達は口々にその効果を絶賛した――まるで意志を持っているかの様な、聖なる賛辞の糸であると。
 神が与えた生命の軌跡…生きた至宝。
 誉れの高いそんな銀糸を己が手に入れんと血眼になり、この湿地帯に赴く者は後を絶たない。
 そしてそんな、愚かな「ヒト」達が、文字通り彼らの食事となるのだ。
 生きた宝を手に入れるか、生そのものを失うか――
 全てか無か。あまりにも分が悪すぎるロシアンルーレットである。

フィーリ・メンフィス「だからこそ、こんな所まで足を運んでるんじゃないか。噂ばかりが先立つ三下を相手にするのはもう飽きたよ…ジークに退屈ばかりさせるのも可哀想だし」
カイル・ヴィンドヘイム「またそんな事言ってる! フィーリさん、むやみやたらに暴れ回るのだけは止めて下さいよねっ、彼らからは、ほんの少し糸を分けて貰えればそれで充分なんですから!」

 また始まった、と言わないばかりに。
 戯けた様子でクリューゲルが失笑し、肩を竦めた。
 年長――等と言った言葉では表現しきれぬ程の永い年月を、実際に彼は生きていた――である彼からすれば、二人の遣り取りは『幼い』を通り越して『好奇』の対象であるらしい。疲れが溜まってだるくなった重い足を惰性で前に進めながら、それでも眼差しは楽しげに細められたままだった。
 先を歩む、そんなクリューゲルの震える背中をはっと見上げれば、ヴィンドヘイムが顔を真っ赤に紅潮させて食いつく。

カイル・ヴィンドヘイム「ほら、ユイスさんからもフィーリさんに何か言って下さいよー! 罪の無い蜘蛛さん達に非道い事をするなんて…‥・」
ユイス・クリューゲル「誰にだって罪なんかないよ、少年。大蜘蛛にも、そっちの兄さんにも、そして勿論…お前にもな」

 ひらひらと背中ごしに手を振って、クリューゲルは先を行く。
 慌てて歩調を進めたヴィンドヘイムとメンフィスが後に続き、その頭上を白い仔龍――ジークが、風に乗ってやってくる昆虫の皮膚と分泌物の匂いに鼻をひくひくとさせながらせわしなく飛び回っていた。

 かしましい話し声の余韻と、靴痕だけが。
 湿った空気の中にいつまでも残されていた。

【本章−1】

 湿った土を踏んでいた粘る様な足音が、次第に分厚い絨毯に吸い込まれる様にその音を失っていくのだった。
 蜘蛛は夜中に巣を張り巡らせ、古い糸を辺りに掻き壊して行く。
 地に落とされた古い巣跡が泥水を吸い、汚れた白茶の絨毯となって積み重なっていた。

フィーリ・メンフィス「"ヨゴレ物"なんていらないからね――もっと奥まで行こう」

 "ヨゴレ物"――メンフィスがそう称する、泥水に浸かった蜘蛛の糸ですら…都ではそれなりの値段で取引されている物である。彼らの足の下でそれらは水気を吸って重みを増し、長い時間を掛けていつか土に帰る日を待っている。

カイル・ヴィンドヘイム「――あ、っフィーリさん、ユイスさん…ね、あの辺、靄が…濃い」

 ヴィンドヘイムが真っすぐに指を指した方角を仰ぎ、ジークが高い啼き声を挙げる。
 フィーリとユイスが次いでそちらを見遣り、小さく頷けば…一堂の歩みは俄に早くなった。

ユイス・クリューゲル「って、あー…ちょい待って。なんかベトベトして気持ち悪いし」

 進める歩調が早くなれば、踵が泥を撥ねて服の裾を汚す。立ち止まり、踵の泥を払う様に二三度振ってから。
 それのついでの様に億劫そうに振った指先が、比較的白い澱の少ない泥地を指す。
 と。

フィーリ・メンフィス「――うぅわー…」

 ぼこり、ぼこりと。
 生きた粘膜の様に、泥が数度の盛り上がりを見せた。
 そしてから、一際その粘膜が大きく盛り上がった時、弾ける湿った水音を立てさせて大きな掌が空に向けて伸ばされる。

カイル・ヴィンドヘイム「・‥…うわあ…」

 呆然とそれを見遣るメンフィスとヴィンドヘイムを尻目に、沼地から生えて来る様にその姿を表したのは。

ユイス・クリューゲル「…ほれ、ちゃんとご挨拶は?」

 生まれたての嬰児の様に艶やかで、小鹿の様に頼りない震えを落とした後、生まれ出でたゴーレムが一堂にその面持ちを向ける。
 身の丈は三メートルと言った所か。古くなった脆弱な蜘蛛の巣を頭に絡めながら、それでもゴーレムは再び沼地に沈む事はなかった。肩に付着した泥を除けてから恭しくその掌をクリューゲルに向け、頭を垂れる。

ユイス・クリューゲル「足場なの足場、新作。これ以上汚れるの厭だし」

 そう言いながら、クリューゲルは伸ばされた掌に足を掛け、ずんずんとゴーレムの腕を登っていく。肩の上に主を載せた褐色のゴーレムは、ぎこちない速度で後を振り返り、ヴィンドヘイムが指差していた靄に向けて一瞥を投じた。

フィーリ・メンフィス「――蜘蛛よりもよっぽど、ソレの方が強そうだ。壊れても良くなったら手合わせさせてくれ」
カイル・ヴィンドヘイム「もうッ! またそういう事ばかり言って!」
ユイス・クリューゲル「駄目駄目。可愛いゴーレムちゃんよ? てか無理、コイツ所詮は足場だからばかなの」

 のしり、のしりと、クリューゲルを載せたゴーレムが歩を進め始める。その後に続いて、メンフィスが、ヴィンドヘイムが不審げにゴーレムを見上げながら歩み始めた。
 靄が息遣いのようにゆっくりと膨張し、そして呼吸を繰り返すのが見えた。
 その中心、ひっそりと眠りにつこうとしていた大蜘蛛が、彼らの気配に漸く気づいたのだ。

【本章−2】

 白く煙る、蜘蛛糸の密集する中心。
 一堂が歩み寄るそれは、ゆっくりとした胎動の様に伸縮を繰り返している。

フィーリ・メンフィス「動きが有ったら教えるんだ、ジーク」

 糸と糸の間をくぐって高みを飛んでいたジークが、剣柄に手を掛けたメンフィスの言葉に高い嘶きを挙げた。くぐもる翼音が、高く低くを窺翔している事を伝える。
 
カイル・ヴィンドヘイム「びっくりさせちゃったら…可哀想ですね。この辺の糸、ちょっとだけ貰って行きませ――」
フィーリ・メンフィス「駄目。まだ奴の姿すら見てないし――持ち帰るのは純白の糸、それだけだ」
カイル・ヴィンドヘイム「それは――僕だって…‥・」

 時折、比較的泥汚れの少ない白い糸を見かけては、ヴィンドヘイムが手を伸ばす。だが、その度に一堂に遅れて広がる距離に、彼は慌てた様に立ち上がって駆け出すのだ。
 一人、ゴーレムの上から高みの見物を決め込んでいるクリューゲルだけが、その様子を見下ろしてはくすくすと声を漏らして笑っていた。
 と、その時。

 がさがさと――一際激しく、そして音もなく。
 目の前で繭の様な糸の塊が揺れた。

ユイス・クリューゲル「――っと、」

 不意のそれに、クリューゲルが腰を降ろしていたゴーレムが大きく揺れる。
 巨大な体躯が蜘蛛の巣を足に絡め、蹌踉けた時に――クリューゲルがその肩から転がり落ちた。

ユイス・クリューゲル「お、っわ…!?」
カイル・ヴィンドヘイム「――ッユイスさん!」

 クリューゲルが転がり落ち、主を肩から失ったゴーレムは、再び――今度は蜘蛛の糸とは関係なしに大きく蹌踉け、どうと湿地の上に横たわる。
 それきり、ぴくりとも動かなくなった。

ユイス・クリューゲル「――足場、足場…ねぇコレ燃やして良い?」

 重みある体躯ですら容易く足を攫う蜘蛛糸の上に、ゴーレムが重なる事に寄り。
 一堂は確りとした足場を手に入れた事になる――が。

カイル・ヴィンドヘイム「駄目、勿体ない!」
フィーリ・メンフィス「駄目、勿体ない!」

 クリューゲルの四肢を絡めたのは、吐きだされたばかりの純白の銀糸。
 繊維と織り交ぜて使用できる程の強度を誇るそれである。クリューゲルがにゅ、と伸ばした指先を鳴らし、その尖端に灯を宿らせた時。
 それぞれの方法で戦闘態勢を固めたままの二人が、ほぼ同時にそれを禁止した。

ユイス・クリューゲル「――ヒデェ」

 メンフィスとヴィンドヘイムの視界の端で、明るかった小さな炎が消えた。代わり、一本一本を丁寧にその足から取り外しにかかるクリューゲルを見遣るが、今は彼に頓着する事ができないでいる。
 再び伸縮を開始した繭の影から、大蜘蛛の長い足が現れたからだった。

カイル・ヴィンドヘイム「ぅわ…‥・大き…い…」
フィーリ・メンフィス「ジーク、油断するな…? 捕食されるぞ」

 蜘蛛は、本体の割りに足が長い。が――平穏の朝を闖入者に邪魔され、幾許なりとも怒りを感じているであろう目の前の大蜘蛛の足は、それを加味した上でもかなりの長さが、あった。
 ジークが羽搏きながら、時折その足の一本一本に体当たりを食らわせていた。
 その度、無様な素早さで蜘蛛が身悶え、逃げ去るジークを次の瞬間には捉えてしまおうと長い足をその背中に伸ばしていく。
 何度目かの突撃に、無数の繊毛を生やしごわついた蜘蛛の足がジークの翼を僅かに削いだ、その刹那。
 メンフィスが、僅かに露出した蜘蛛の本体に向けて、斬り込んだ。

【本章−3】

 倒れたゴーレムの左腕で踏み込み、弾丸の様に蜘蛛へ向けて突き進んでいく。
 風の抵抗を受けた剣の切っ先が、突風に煽られた焚火の様に大きく――燃え上がった。
 魔導――炎の剣である。

フィーリ・メンフィス「退け、ジーク…!」

 擦れたジークの翼が、寸での所で蜘蛛の足から逃れる。
 黒い大蟹の甲羅の様でもある蜘蛛の足に、思う様の強さで剣を振り降ろすと――炎がその足を抉り取ると同時に、不快な金属の擦れ合う様な蜘蛛の悲鳴を聞いた。
 突然の衝撃と熱に慌てた蜘蛛は四肢――否、八肢をばたつかせ、焼かれた切断口から熱い体液を辺りにまき散らす。

カイル・ヴィンドヘイム「っフィーリさん…!」

 蒼白になったヴィンドヘイムは、その名を叫ぶ事で精一杯だった。
 尚も足に絡んだ糸を解しているクリューゲルが片目を細め、その次第を見守っている。
 流れる様な仕草で何気なく降ろされた彼の左手の平で、陽炎の様に僅か空気が歪んでいた。
 とっさに蜘蛛の本体へ放った重力波の余韻である。それがなければ、完全な狙いを誇ったフィーリの剣の下、蜘蛛は憐れな骸となっていただろう。
 一堂が少なからず抱く筈の罪悪感の前に。
 
 一方、純粋に狙いを外したと受け取ったメンフィスが二の撃を振ろうと再び剣に炎の風を巻き起こす。
 冷静な折りの彼であったなら、即座にその炎を収めたであろう――ぱちぱちと音を立てて、糸が燃える不快な匂いが僅かに鼻についた。

カイル・ヴィンドヘイム「フィーリさん…止め…‥・」

 己の吐きだした糸が燃える僅かな煙に戦意を削がれ、蜘蛛は牙城の中で戦慄き――憐れに見悶えている。
 過ぎる程に冷徹なメンフィスの眼差しは、今は何をも映していないのだろう。おそらく、ヴィンドヘイムの震える声音もその耳には届いていまい。
 再び、重圧の障壁を張ろうと――クリューゲルがその掌に陽炎の弾を生まれさせた、その時。
 空高く飛翔していたジークが、高く哀しげな啼き声を挙げた。
 蜘蛛自身が暴れた事によって剥げた銀糸の隙間から、腹部にぎっしりと卵を抱き抱えたその姿が目についたからである。

【本章−4】

フィーリ・メンフィス「――、あ…‥・」

 尋常ではないジークの嘶きに、蜘蛛のその様子に先ず気づいたのはメンフィスだった。
 荒い呼吸にグロテスクに上下する腹部を覆う様に、人の掌ほどもある大きさの艶やかな卵達がびっしりと張り付いている。
 八肢のほぼ半分は、その卵を守る為であろう――腹部に向けて折り曲げられており、さらに一本の足を無くした大蜘蛛は炎を纏うメンフィスの剣から身を守るべく足掻いている。
 切断口に体液を滲ませた足は緩慢な断末魔の後、その機能を失っていた。

フィーリ・メンフィス「‥‥‥‥‥‥」

 メンフィスの眼差しに、少しずつ色が戻り始める。捉えた剣の切っ先からも、音も無く炎が掻き消えて行った。
 すっかり戦意を喪失した大蜘蛛は、彼の様子を見遣っては僅かに安堵したのか――荒いだ呼吸が少しずつ穏やかなものになっていく。
 そして魔導の聖火を掻き消えさせた剣が再び鞘に戻されれば、ジークがメンフィスの肩にそっと留まり――首を傾げて、大蜘蛛の姿を観察していた。

カイル・ヴィンドヘイム「お母さん…‥・なんですね? この蜘蛛さん‥‥」

 漸くその様子を目に留めたヴィンドヘイムが、蜘蛛を驚かせまいと緩慢な足取りで近づき、その腹部をまじまじと見詰める。
 未だに警戒の色を滲ませる蜘蛛は、その腹部を守る様に身体の向きを変えたが――それでもヴィンドヘイムに攻撃の意図が感じられぬと取ったか、それ以上の拒絶を表す事は無かった。

フィーリ・メンフィス「‥‥命拾いしたね。――弱いものいじめの趣味は無いんだ、‥‥‥足を斬ってごめん」

 その言葉に眉を寄せたヴィンドヘイムが、躊躇う様な素振りを見せながらも一歩を踏みだし――失われた蜘蛛の足の一本に、そっと両手を伸ばす。
 神経を焼かれ、身悶えしながらも逃げる事の敵わなかった大蜘蛛が、それでも触れられた刹那にその動きを止め――されるがままにじっとし始めた。
 と、ヴィンドヘイムの両手の平がほんのりと発光し、蜘蛛の足を包んだ。

カイル・ヴィンドヘイム「ごめんなさい‥‥‥もう、無くなっちゃった部分は、‥‥生えて来ないけど‥‥」

 痛みはこれで消えるから、と。
 再びヴィンドヘイムが身を立て直した時には、焼け爛れ、悪臭のする体液を滲ませていた切断口がぴったりと閉じ、数刻前の艶やかな黒を蘇らせていた。
 長さの足りないその足を、おっかなびっくりと言った様子で蜘蛛が動かしてみる。
 地を走り、銀糸を操るには少し不自由が残るだろう――だが無様にぶら下がっているだけよりははるかにましだと言えた。腹を守る以外の全肢で蜘蛛――彼女は巣糸の奥にその身を後退りさせ、一堂の様子を窺う様に腹を蠢かせた。

ユイス・クリューゲル「――やった!」

 と。
 どことなくしんみりと――そして幾許かの罪悪感に囚われ、無言となっていた一堂のはるか後方で、クリューゲルの間の抜けた歓喜の声が響かせられる。
 ジークを含む全員が、怪訝そうに顔を顰めて見遣ったその先には――

ユイス・クリューゲル「お前らが、燃やすな千切るなって喚くからさー? 一本一本心を込めて、丁寧に! ほら、解いただけ糸があるぞ」

 がっしりと、クリューゲルが大量の糸を掴み――得意げにそれを掲げ、満面の笑みを浮かべて仁王立ちしていた‥‥ゴーレムの、それは頭部であった部分だろうか。
 ぽかん、とメンフィスが大口を開け――ヴィンドヘイムがぱちぱちと大きな瞳で瞬く。

フィーリ・メンフィス「――実は、手先ものすごく器用なんでしょう」
カイル・ヴィンドヘイム「すごい、しかも蜘蛛さんが吐きだしてすぐの‥‥‥、――ね、蜘蛛さん‥‥あの糸、貰って行ってもいいですか‥‥?」

 問いかけられた湿地帯の主は、尚も穏やかな動作で巣の奥深くへと潜り込んでいく。
 くるりと身体の向きを変え、何層にも重なる澱の再奥でそれは――消えた。

カイル・ヴィンドヘイム「――ありがとう」

 繊細な糸だけが、それに答える様に僅か揺れた。
 一堂は蜘蛛の消えていった靄の奥をしばし見詰め――そして誰からともなく、引き返す様に身を翻して行った。

【終章】

 帰り道である。
 うかれて糸の束を振り回すクリューゲルを筆頭に、ヴィンドヘイム、そして彼に翼を癒して貰ったジークがメンフィスの肩で甘える様に頬を擦り寄せている。

 母の姿を、覚えているかと。
 三人が三人、口に出して問いたいと思っていた。
 その温もりを、面影を、匂いを――未だその肌に覚えている者はいるかと。
 この世に生を受けてから百年を越す者、眷族の繋がりを厭うばかりである者、そして――母を知らない者。
 それぞれが思い思いの懐告を胸の内に留め、それでも――
 僅かな疲労と、非道く穏やかな安心感に。
 ただ笑んで、黙々とその足を都に向けていた。

カイル・ヴィンドヘイム「あの卵、――いくつくらいありましたかね‥‥」

 足の爪先に跳ねた泥は、乾いて細かい粉の様になっていた。倒れた老木を乗り越えた時、掌でそれをぱたぱたと払いながらヴィンドヘイムが言った。

フィーリ・メンフィス「ん…‥・五十個くらい、かな…もしかしたら、もっとあったのかもしれないね」
カイル・ヴィンドヘイム「‥‥‥あの中の、いくつが、きちんと産まれる事ができて、……いくつが、大人になって、卵を産んで…‥いくつが、‥‥天寿を全うするんでしょうか――」

 独り言であるかの様な小さな声で、ヴィンドヘイムは問いかける。
 そしてそれに、答える者はいない。

 湿原の湿った空気が、少しずつその不快を失っていく。
 色の濃い泥地を踏み締めながらやがてたどり着いたのは、都にほど近い町の側、だった。

ユイス・クリューゲル「――奴等は、」

 既に傾きかけている夕日を背に、風に緋色の髪をなびかせながらクリューゲルが口を開く。

ユイス・クリューゲル「食料の無い冬の間、仲間の寝込みを襲って共食いをする。栄養失調に打ち克つ体力と、睡魔に負けない精神力を持つ者だけが生き残って、半年かけて卵を育てるんだ。――仲間を喰らうのも、喰らわれるのも。外敵に捉えられる事も捉える事も、奴等はああして受け容れる――それが運命の環だと、識っているからだ」
フィーリ・メンフィス「・‥…運命の、環」

 クリューゲルの言葉に、メンフィスが思慮深げにその秀眉を寄せる。そしてから、不意に溜息を吐き、黙り込んでいたヴィンドヘイムの肩をぽんと叩いた。

フィーリ・メンフィス「ほら、行くよ…‥・糸はきっちり三等分、リーダー、頼むよ?」

 勢い良く踏みだした爪先の余韻で、メンフィスの背に黒髪が散る。振り落とされぬ様ジークが体制を整え、貝と貝を重ね合わせた様な乾いた声音で甘える様に嘶いた。

カイル・ヴィンドヘイム「僕、・‥…ユイスさんの言ってた事の、意味が…なんとなく、判る様な気が、します」

 しばし、メンフィスの背中を見詰めていた後。
 ヴィンドヘイムがクリューゲルを見上げ、優しい笑顔を向けた。そしてメンフィスを追う様に駆け出し、夕日にその小さな背中を染めている。

ユイス・クリューゲル「・‥…若いって良いね?」

 そしてやはり、彼の背中を見送る様に、立ち止ったまま。
 僅かに笑い、僅かに――目を細める。
 一人取り残されたクリューゲルの呟きを聞いた者は、いなかった。