<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


恋愛教授


SCENE[1] エスメラルダの夜 ―OPENING―


 宵闇迫るベルファ通りに、ぽうと街灯が灯った。そのあたたかな橙の光は、通り沿いを流れる川の水面に映り、流れに揺らいだ。
 水路の用を為しているその川には数隻の小舟が浮かび、行き交っては客や渡し守達が互いに笑声を飛ばし合っている。いつもの光景だ。
「何だい、黒山羊亭に行くって?」
「ああ、今日はエスメラルダの誕生日らしいからな! 贈り物の一つもさせてもらわにゃア」
「あん? 誕生日? そぉかい、確か先月もエスメラルダは一つ年を取ったらしいけどなあ! 月イチで誕生日が来るたァ、結構なこった」
 一体今日で何歳になるのやら――――と愉快そうに笑った客を乗せた舟は、滲んだ橙の上を滑り、ゆるやかに去っていった。

 この夜の黒山羊亭は、いつもに増して盛況だった。
 民族楽器の独特な調べにのせてエスメラルダが舞う。手に持った淡く七色に透けるショールを、軽やかなステップを踏みつつ腰を捻るたびに体に巻き付けてはまた解いて見せる。ぴたりと身に張り付くような黒いスリップドレスの、太腿まで深く切れ上がったスリットの間から覗くしなやかな脚の皎さが眩しい。客がカウンターに向かって酒を注文する時にだけ送られる、エスメラルダからの蠱惑的な流し眼とウィンクが、何より黒山羊亭の売上を伸ばしていた。
 エスメラルダは、ちょうど一曲踊り終えた時、ギイと店の扉を開けた新たな客に気付いた。ようこそ、と声をかけようとして、その代わりに口許に柔らかな微笑を添えた。
「待っていたわ。依頼、受けてくれる気になったのね」
 そう言って、カウンター脇のボックス内から書類を引き出し、客を店の奥の席へと案内した。エスメラルダが手にした依頼書には、大凡以下のような内容が記されていた――――。

□ 案件:恋愛教授
□ 対象:金環蝕のレーテ/性別、女。年齢、十八歳。
□ 詳細:経験喪失となり、恋の何たるかを忘れたレーテに恋愛指南を行う。
□ 方法:適当と思われる「何か」を探し持ち寄り、レーテに恋を思い出させること。

 エスメラルダは客の真向かいに腰掛け、テーブルの上にぐいと身を乗り出した。
「レーテはね、十日後に結婚を控えている身なの。隣家のご子息とね。政略結婚云々と言うほど裕福な家柄じゃないけど、恋愛結婚でもないらしいわ。まあ、親が持って来た話に反対はしなかった、というあたりかしら。このまま行けば別段何の障害もなくゴールイン、の筈だったんだけど。レーテったら、この大事な時期に、事故に遭ってしまって。記憶喪失……ううん、記憶というより、経験を忘れてしまったのね。今までそれ相応に青春を謳歌してきた彼女が、全く恋というものを知らないと言うの。それで、このまま結婚してしまうなんて厭だってごね始めて。困りきったレーテのご両親から、こういう依頼があったのよ」
 一気にそれだけ説明し、エスメラルダは長い髪を背へさらり掻き流すと、客人に微笑みかけた。
「期待、しているわよ」


SCENE[2] 紅茶の美味しい山羊の店


 ベルファ通りからアルマ通りへと抜ける、ちょうど中間地点。夕暮れ時のあたたかな光の似合う、石畳の曲がり角に、その店は在った。
「ヤギっぽい店チョーと、背の高いオッドアイのイイ男が目印の紅茶屋!」
 店の特徴を説明するのに店員の話ばかりされても困るのだが、ともかくティア・ナイゼラは、前夜黒山羊亭のメッセージボードで指定された待ち合わせ場処らしき店の前に辿り着いた。
「このお店……で、いいのかなぁ」
 外から覗いたガラス張りの店内は、午后四時半という中途半端な時間帯だからか、それともいつもこうなのか、客の姿は疎らだった。見たところ、カウンターに一人、奥のボックス席に二人。ティアの待ち合わせ相手がいるのかどうかは分からない。
「とりあえず、入ってみようかな。ね、ピーちゃん」
 ティアは、湿った夕風に桃色の長い髪を揺らし、腕に抱きしめたピンク色のカッパの仔に話しかけた。ピーちゃん、と呼ばれた仔カッパは、その名に違わず「ピー!」と可愛らしい声で鳴き、ティアの微笑を誘った。

 ガララララララララァン

 店のドアを開けた途端、腹の底まで響くような重低音に出迎えられ、ティアはびくっと足を止めた。ドアに備え付けられた客の来訪を告げるチャイムの音だったが、これはどう考えても選択を誤っている。店に踏み込んだ瞬間に、何か攻撃でも受けそうな悪寒すら感じさせる重苦しい鐘の音。
「こ……これじゃ、お客さんも来ないよねぇ、ピーちゃん……」
 ティアは硬直した足を何とか一歩前へ進め、店内を見回した。
 ――――と。
「おッ、イーイ音がしたと思ったら、可愛いお客さァん♪ いらっしゃいマセ!」
 軽妙な声のした方へ顔を向けると、ひょろりと背の高い男が腰に黒エプロンを巻き付け、円盆を片手にティアに向かって笑いかけていた。
 右眼が黒、左眼が銀のオッドアイ。すっときれいに通った鼻筋の下で薄い唇の両端が吊り上がり、隠し持った鋭利さを笑顔でくるんだような、不思議な端整さを宿した男だった。
「こ、こんにちは。あの……私、ティア・ナイゼラと言います。このお店で待ち合わせ、してるんですけど」
 ティアは控えめにそう言い、ちらと眼前の男の表情を窺った。
 高い背。オッドアイ。となれば、今回一緒にエスメラルダからの依頼を引き受けることになった待ち合わせの相手は、この人だろうか。
「あ。あんたがエスメラルダの言ってたティアちゃん? そっかそっか、ハジメマシテ。俺、葉子・スペード・ミルノルソルン。一応、職業は悪魔。あとこの店のバイトね。憶えにくい名前だから、まー、気軽に『ようこちゃん』とでも呼んでヨ」
 葉子と名告った男は、円盆をカウンターに置き、ひょいとティアに右手を差し出した。悪魔、の一言にぎくりと身を固くしたティアだったが、挨拶の握手を拒絶するのも気が退け、そっと手を重ねようとした。ところへ、追って葉子の左手が飛んで来、ティアの小さな手を両側から挟み込むように握りしめた。
「きゃ……っ」
 勢いよく手を握られて、ティアが短い悲鳴を上げた。
「うーん、素敵な悲鳴をアリガト」
「ひ、悲鳴をありがとう……って……」
 ティアは、怯えた顔で葉子をみつめた。

 この人って、一体。

 ティアの視線を不遜な笑みで受けとめ、葉子はカウンターの椅子を一脚、後ろへ引いた。
「問題のレーテちゃんとは、五時にココで落ち合う予定だから。それまで、チョット二人で打ち合わせ。ネ?」
「は……はい」
 ティアはこの葉子と一緒に仕事をこなせるものなのかと微かな不安を抱き乍ら、勧められるままに椅子に腰掛け、ピーちゃんを膝に載せた。
 葉子はカウンターの内側へ入ると、「何がイイ?」とティアにメニューを開いて見せた。
 そうだ、ここは紅茶屋だった。
 ティアは葉子の不審な行動に翻弄されて忘れていたその大前提を思い出し、慌ててメニューに眼を走らせた。
「えっと……、じゃ、じゃあ、ダージリン・セカンド・フラッシュ」
「はぃはぃ、セカンド・フラッシュ・葉子フレーバーね」
「イ、葉子フレーバー!?」
「そーそー。独特の甘さと苦み走ったコクが大評判なんだヨ。オ、ス、ス、メ♪」
 この解説を真に受けると《葉子フレーバー》は甘さと苦さが同居したよく分からない味の上、葉子の言葉の遣い方それ自体も激しく間違っている気がする。が、ティアは敢えて指摘しなかった。問い詰めたところで、ますます話が混乱する可能性大だ。
「……それで……レーテさんの件、なんですけど」
 ティーポットに熱湯を注いでいる葉子の手つきを見乍ら、ティアが言った。
「私、やっぱり、恋って、心があったかくなって……倖せな気持ちになれることが一番だと思うんです。だから、その気持ちをレーテさんにも思い出してもらえたらなって」
「あったかくって、シアワセ、ねェ」
 葉子はポットの中の茶葉から艶やかな紅黄色が滲み出て来る想像で頭の中を満たし、ティアを一瞥した。

 確かに、この器にしてこの中身アリって感じ?
 ふわふわの可愛いオンナノコの頭の中ってーのは、ピンク色した恋愛モヨウで彩られてるって相場が決まってンのね。
 ルビーみたいな大きな眸を輝かせちゃってサ。
 膝に抱いてるカッパは、ヌイグルミなのかホンモノなのか分かンねぇけど。
 見るからに可愛いモノが好きそうで――――ティアちゃんにとっては恋愛も「可愛いモノ」のうち、ってか?
 そりゃ、なかなか度胸が据わってるヨ。
 俺様なんてもう、悪魔乍らに酸いも甘いも噛み分け過ぎて、ミョーに後味苦くなっちまって困ってるってゆーのに。

「……あの、葉子……さん?」
「あ、紅茶ね。もうすぐだから、葉子フレーバー」
 訝しげなティアの口調に軽く肩を揺すって応え、葉子はティーカップを準備した。
「んー、レーテちゃんに恋を思い出してもらうには、俺はやっぱ、白馬の王子様シチュエーションがイイんじゃないかと思うんだよねェ」
「白馬の王子様?」
 ティアの声に、心浮き立つような昂揚感が加わった。
 そうそう、そのカンジ。
 葉子はニッと笑い、カウンターの上に身を乗り出した。
「そう、白馬の王子様。レーテちゃんが、もうどうしようもなく『誰か助けて!』ってシーンで、王子様が颯爽と登場。で、悪者どもをアッと言う間にやっつけて、レーテちゃんの心を奪ってハッピーエンド。どォ? このシナリオ!」
「悪者をやっつけて、レーテさんを救って、心を奪って……恋に落ちる」
 ティアは葉子の言葉を繰り返し、どこか安直に過ぎるそのシチュエーション設定を、うっとりした表情で妄想した。
 素敵な白馬の王子様に、心を奪われてみたい。
 それは世の穢れなき乙女に共通の夢である。
「それで、その、白馬の王子様って」
「モチロン、俺」
 葉子が、細長い人差し指で自分を指し示した。
「……葉子さん、が?」
「ようこちゃん、でいいって。水くさい」
「よ……ようこちゃん、が、白馬の王子様?」
「何か、異論、ある?」
 葉子がティアの前に淹れたての紅茶をすいとサーブした。
「い、異論はない、です……」
 白馬の王子様が実は悪魔だったという結末は、恋に必要なスパイスなのだろうか。
 ティアはぎこちなく笑い、カップに手を添えた。
 爽やかな、花のような香りが仄かに立ちのぼり、周囲を染めた。
 葉子は、ティアが紅茶を口に運ぶのを見守り乍ら、
「まあ、サ。男と女じゃやり方も違うだろうし、ティアちゃんはティアちゃんらしく、俺は俺らしく、レーテちゃんに恋愛指南、してみるってコトで?」
 そう言って、バチンとウィンクして見せた。
 その時、

 ガララララララララァン

 店のドアが開き、そこに、あまりの音に驚愕した黒髪の少女が立ち竦んでいた。


SCENE[3] 金環蝕のレーテ


「ハイ、っと、レーテちゃんもダージリン」
 約束の時刻ちょうどに店に現れたレーテにも紅茶を淹れ、葉子はティアの隣の椅子に腰掛けた。
 恋の何たるかを忘れたレーテその人は、依頼書に記されていた《金環蝕のレーテ》の名を体現するが如く、両眼に金色の環を持っていた。茶褐色の虹彩の周囲が金で縁取られ、白眼に浮かんで見える。
 金環蝕とは、月が太陽の中央を蔽ってしまうことによって、陽光が月の周囲に環状に見える現象である。つまり、レーテの場合、その現象が眼中に於いて生じているようなものだ。
「へぇ、面白い眼、してるね」
 葉子に言われて、レーテは暫くの沈黙の後、俯いた。
「……気に、してるんです。そんなに真正面から見ないでください、私の眼……」
「あ」
 しまった。
 悪魔的には問題ない発言だが、白馬の王子様としてはいきなり失格である。いや、それを言うなら、颯爽と登場する筈の王子様がこんな処で悠々と紅茶を振る舞っている時点で、すでに間違ってはいるのだが。まあいい、一見どこにでもいる普通の男だと思って見縊っていたら実は私の王子様、という算段も悪くはない。普段の姿といざという時の勇姿とのギャップに恋心を覚えるのも、これまた恋愛の常道。
「い、いや、だってホラ。見るなって言われてもサ。レーテちゃんの眸があんまりキレーだから? ついみつめちゃうワケ。って、そういや俺の眼もちょいと珍しいオッドアイだけど」
 葉子が取り繕うと、ティアも同意を示し、うんうんと肯いた。
「本当に、きれいですよ。羨ましいくらい。あっ、もしかしたら、レーテさんの今までの恋のお相手も、その眸に魅せられちゃった男の人が多かったりして!」
「ピー」
 ティアの膝でピーちゃんが鳴いた。賛同の意を示したつもりなのかもしれない。
 レーテはカッパの仔の愛らしさに少し眼を細め、それから小さく溜息を吐いた。
「この金の環が現れるようになったのは、事故の後のことなんです。それに、今までの恋なんて、もう、憶えてなくて……、だから」
「だ・か・ら。俺達がいるんだヨ。ま、このオニーサンにどーんと任せておきなって」
 葉子が胸を張った。レーテは、どこまで信用してよいものか推し量りかねつつ躊躇いがちに「お願いします」と応えた。
「あ、でもね。今夜は、私とデートしてくださいね、レーテさん」
 ティアが慌てて言い継いだ。
 葉子が言っていた白馬の王子様シチュエーションを実現させるためには、とりあえず彼に退場願わねばならない。飽くまでも、自然に、自然に。
 先ずは、ティアとレーテの、二人きりの時間である。


SCENE[4] 恋しちゃってるんです。


「何だか……私の我が儘のせいで、迷惑かけてごめんなさい」
 陽の落ちかけた天使の広場で、レーテがティアにぺこりと頭を下げた。
「レーテさん」
「恋愛経験を忘れるなんて……ホント、事故の後遺症って言われても、私、どうしたらいいのか分からなくて。そういう経験が豊富そうなエスメラルダさんに相談したら、ティアさんと葉子さんを紹介されたんですけど」
 確かに、エスメラルダはいろいろと男女間の機微を心得ていそうである。較べると、ティアなどは、恋は恋でも駆け引きや一時の遊びとは無縁の、純情可憐な恋を知っているくらいのものだ。
 だが、結婚前のレーテに必要なのは、たとえば今ティアが抱いているような、甘酸っぱく胸しめつけられる恋の手触りではないだろうか。好きな人になかなか逢えなくて勝手に落ち込んだり、偶然街角でその人を見かけただけで一日倖せな気分でいられたり。幼いようでいて、一番大切な恋のかたち。
「えっと……、あのね、レーテさん」
 ティアが、少し羞ずかしそうに頬を染めて、レーテの手に触れた。
「私ね、実は今、恋、してるの」
「え……?」
 レーテは、波打つように曲線を描く長い黒髪を風に靡かせ、両眼を見開いた。眸の金環が、夕闇にゆらりと揺らめく。
「な、なんだかこうやって言うと、告白してるみたいで、は、羞ずかしいんですけどぉ」
 見る見るうちにティアの顔に血が昇り、耳朶まで赧く染まった。
 すると、それを眺めていたレーテの頬も、心なしか上気してきたようだった。
「やだ、ティアさん、好きな人いるんですか? 誰? 誰? ……って、名前聞いても、きっと分からないけど」
「ふふっ、そうだよね、もし私の好きな人をレーテさんが知ってたら、すっごい偶然」
「うん、でも、そういう偶然があったら愉しいよね。あ……、もし、ティアさんの好きな人が、今度私が結婚する相手だったらどうしよう」
「そ、それはないと思う……けど、多分」
 ティアが、眉根を寄せて、あはは、と乾いた笑いをこぼした。
 レーテもつられて笑い、暫く二人はわけもなく繰り返し微笑み合った。
 女同士が仲を深めるには、恋愛話が一番適しているのかもしれない。事実、まだ逢って間もないというのに、ティアとレーテはまるで以前からの友達のように親しげな言葉を交わし合うようになっていた。
 レーテは、恋を忘れたと言い乍ら、気が付けばティアの恋愛エピソードに耳を傾け、「それで? それで?」と先を急かすように彼女の恋を自分の心でなぞり始めていた。疑似体験、とでも言えばいいのか――――胸ときめかせつつ恋しい人を語るティアの慕情に己の気持ちを重ね合わせ、鼓動を揃えてラブストーリーにのめり込んでいくようだった。
「……何か私、体が熱くなってきちゃった」
 ひとしきりティアの恋に浸ったレーテが、両腕で自分の体を抱きしめた。
「レーテさんたら」
 ティアが愉しそうに笑った。
「私の恋愛の話を聞いてそんなにドキドキできるんだから、今眼の前に素敵な男の人が現れたら、すぐ恋しちゃうかも」
「そんなお手軽な恋って、どうかなあ」
「それでも、恋は恋だよ」
「わ、なんかいい言葉だね。それでも恋は恋、か……」
 レーテは伏し眼がちにふっと微笑み、それからほんの少し淋しそうに呟いた。
「……結婚しても、恋ってできるのかな」
「えっ?」
「ほら、よく、恋愛と結婚は別だって言うでしょう? 私、もうすぐ結婚しちゃうから」
 恋愛と、結婚は、別。
 そう言われて、ティアは「うーん」と頸を傾げた。
「結婚する相手の人に……、つまり、旦那様に恋をすればいいんじゃないかなぁ」
「結婚が決まってる相手に、今から恋をするの?」
 レーテが不思議そうに問い返した。
 ティアは腕の中のピーちゃんの頭を撫で、うん、と肯いた。
「……私ね、恋愛って、一緒にいると心がほわぁっと暖かくなって、すっごく倖せな気分になれることだと思うの。だから、相手が旦那様でも、構わないんじゃないかな。一緒の家に住んで、一緒にごはん食べて。一緒にあったかい気持ちになるって、素敵」
「そうだけど……でも、恋するより先に結婚が決まってる人に、そういう気持ちが持てるものかなって、すごく不安」
「私は、レーテさんの結婚する人がどんな男の人か分からないから、断言はできないけど……、でも、事故に遭う前のレーテさんが『この人となら結婚してもいいかな』って感じた相手だもん、きっと大丈夫」
 ティアはにっこり笑って、レーテの顔を覗き込んだ。
「今のレーテさんみたいに、気分が落ち込んじゃったりしてる時でも、好きな人と一緒にいると、明るくなれるんですよ!」
 力強い声でそう言うと、ティアはピーちゃんをレーテの手に預け、肩から提げていたポシェットの中から、珊瑚を取り出した。
「恋する気持ちは暖かくて、明るくて。冥い海の中にいても進むべき道を照らし出してくれる光。気分が塞いでいる時にも、心に安らぎをくれる優しい光。そう、こんな風に――――」
 不意に。
 ティアの掌の上で、珊瑚が朧気に揺れたような気がした。
 直後、それは広場に押し迫る宵闇の裡に、可憐な一輪の花のように柔らかに咲いた。
「わあ……!」
 レーテが歓声を上げた。
 ティアの髪の色のように、無垢な桃色に輝く珊瑚。
 その珊瑚の光は、ティアの手からあふれ出て、レーテの心にまで届いた。
 ほんのりと色づいて、思わず手を触れたくなるほどに魅惑的な、闇を払う光彩。
 珊瑚の輝きをみつめるレーテの眸の中、くっきりと描かれていた金環が、じわり滲み出し、色褪せたように見えた。


SCENE[5] 悪魔流白馬の王子様、参上!


「こ、こんなに急に豪雨になるなんてえぇ」
 レーテと肩を並べて駆け乍ら、ティアが泣き言を言った。
「ティ……ティアさんの珊瑚、雨を呼ぶアイテム、なんていうことないよねぇっ?」
「ない! ……と、思うけどなぁ」
 自信なさそうに応え、ティアは雨に濡れて頬に張り付く髪を掻き上げた。
 ただでさえ夜の闇に蔽われていた街が、重く垂れこめる雨雲のせいでより一層冥さを増し、激しい雨のカーテンに遮られて、二人はもうどこをどう駆けているのか分からなくなっていた。
「え……っと、こっちへ行くとベルファ通り……かな?」
 ティアがそう言って、三叉路でくるりと左手を向いた瞬間。
 どんっ
 そこにいたらしい誰かの筋肉質な胸許に、思い切り顔面をぶつけた。
「ぶっ……、い、痛……」
「ティアさんっ」
 慌ててレーテが走り寄ってきた。
 だが、事態は好転しそうもなかった。
「おいおい、ねーちゃん、いきなりぶつかってきといて、ゴメンナサイもナシかァ?」
 ああ、なんてお約束のパターン。
 どうやら、ティアがぶつかった男以外にも数人、周囲に仲間がいるようだった。
「ご、ごめんなさ……」
 即座に謝りかけて、ティアははたと思い当たった。
 もしかして。
 もしかして、これはようこちゃんの用意した、いわゆるゴロツキ?
 ということは、暫くこの人達にからまれていたら、どこからか白馬に乗った悪……王子様が現れる?
 成る程、手筈は分かった。
 しかし。
 おそらく、葉子にとってもこの大雨は予想外の展開だろう。
 数メートル先も見えない雨の中、無事にティアとレーテを助けに来られるのだろうか。
 それに、来てくれるなら来てくれるで、さっさと現れてくれないと、いつまでも雨に濡れているわけにはいかない。
 王子様の救いの手を待つのはいいが、先ずは何を措いても雨宿りだ。
「あ、あの! 本当に、ごめんなさいっ」
 ティアは深々と頭を下げるや、レーテの手を取り、男の脇をすり抜けた。
「おっ……おいッ! 待て!」
 すぐに男の声と跫音が追って来たが、ティアはそれには構わず、レーテを連れて道路脇の建物に飛び込んだ。飛び込んでから分かったことだが、そこは改装中の教会のようだった。突然の雨に打たれて、《進入禁止》の札が流れ落ちていたのだろう。
 教会内部は、改装中というだけはあって、鼻を衝く塗料の匂いや雑多な工具類であふれていたが、完成間近なのか、そこに漂う空気はすでに教会らしい静謐さと厳かさを備えていた。
「あれ……ここって――――」
 レーテが、きょろきょろと視線を彷徨わせ、呟いた。
 ティアは、なぁに、と訊こうとして、二人の後から教会に駆け入ってきた男達の姿を見、急いで教会内に隠れる場処を探した。
 だが、隠れる場処といっても、ざっと見たところ、パイプオルガンの影。参列席の下。柱の裏。どこも、すぐに見つかってしまいそうである。教会というのは、どうしてこうガランと美しい虚ろを内包しているのか。
「う、上、行こう!」
 ティアは整然と並んだ参列席の傍らから二階へ向かって設けられた階段に足を掛けた。今度こそきちんと《危険、進入禁止》の札が提げられていたが、それを外してレーテと伴に駆け昇った。階段の先には、聖堂に隣接する控えの間や、更には屋根裏部屋が続いているようだった。
 一階から、二階へ。二階から、
「……っ、きゃ……ぁッ」
 レーテの悲鳴を耳にしたと同時、ティアはぐいっと手を後方へ引かれて、バランスを崩した。
 手を取り合って逃げていたレーテが、男達に腕を掴まれて引き倒されようとしていた。
「きゃ……ッ、レ、レーテさんっ!」
 階段の途中でティアとレーテは重心を喪い、足を滑らせた。

 お、落ちる……!

 もうダメだ、と固く両眼を瞑った、刹那。
 ティアは、重力から解放され、ふわりと体が宙に浮くのを感じた。
「――――危機一髪! って、ネ」
 どこかで聞いた声音。口調。
「……ようこ……ちゃん……?」
 そうっと眼を開けて見ると、まるで蝙蝠か何かのような大きな漆黒の翼を拡げた葉子が、両腕にそれぞれレーテとティアを抱え込み、浮遊していた。
「葉子さん……!」
 レーテが、ホッとしたような表情で葉子を見上げた。
 葉子は、ここぞとばかりレーテに微笑みかけ、
「遅くなって悪かったよ、レーテちゃん。怪我はない?」
 努めて優しく声をかけた。
「は、はい……! 大丈夫です。あ、ありがとうございます……よかった、葉子さんが来てくれて……、助かりました」
「いやいや、間に合ってよかった」
 そう言って、葉子は二人を抱きかかえたまま、階段の踊り場から吹き抜けの聖堂へと刳り貫かれたドアを抜け、広い堂内へ飛び出た。
 だが、葉子の心中は穏やかではなかった。
 よりによって、教会。
 仕事のためとは言え。
 レーテに恋を思い出させるためとは言え。
 突然の雨で予定が狂ったとは言え。
 何が哀しくて、悪魔が教会なんぞに進んで入り込まねばならんのだ。

 恨むヨ、ティアちゃん。

 葉子は力なく胸の裡で嘆いた。
 カッコよくレーテを攫って夜景でも眺め乍ら愉しい一時を、と思っていたのに。
 この豪雨で、夜景どころではなくなった。
 しかも、二人が逃げ込んだ先は教会。
 さすがに入るのを躊躇った。
 それでも何とか覚悟を決めてはみたものの、一階の扉以外に侵入できそうなところと言ったら、天窓くらい。
 その天窓がまた小さい。
 結果、スタイリッシュに滑り込むどころか、翼を収めて肩を窄めてどうにかこうにか侵入成功。
 ああ、情けない。
 悪魔が誇り高くなくて、どうするのだ。
「ま……、これで間に合ってなかったら、シャレにもなんねぇけど」
 葉子は苦笑して、宙を下降し、すとんと聖堂の床に降り立った。
 ティアとレーテがそれぞれちゃんと床に蹠を付けたのを確認し、レーテちゃん、と声をかけようとして、
「おい、そこで何してる!?」
 激した男の声を聞いた。
 三人は、一斉に声のした方を向いた。
 教会の扉を開けて、そこに立っている一人の男。
 葉子よりは十五センチほど低い背の、落ち着いた褐色の短髪がよく似合うスーツ姿。
「……ヴァイエル」
 レーテがぽつりと言った。
「ヴァイエル?」
 葉子とティアの声が揃った。
 レーテは、あ、と少し口籠もり、それから囁くように告げた。
「あの……、私の婚約者、です」
「あぁ、今度結婚する相手」
 またしても葉子とティアの声が和した。二人は顔を見合わせ、思わず吹き出した。
 レーテは困ったように顔を伏せた。
「で、でも、どうしてヴァイエルがここに」
「レーテ……!」
 ヴァイエルはレーテに駆け寄るや、いきなり彼女を胸に抱きしめた。
「あららァ、お熱いコトで」
 葉子が軽く口笛を吹いた。
 ヴァイエルはキッと葉子を睨み付け、レーテを背に庇った。
「あんた、一体なんなんだ。レーテに何をしたッ?」
「……エ」
 どうやら、完全に悪者扱いをされている。
 おかしい。
 予定外にも程がある。
 白馬の王子様担当は悪魔ではあるが、悪者では納得がいかない。
「や、だから俺は」
「こんな雨の中、レーテを連れ出して……、しかも夜の教会で、何をするつもりだった?」
「何をするつもりも何も、とりあえずもうシ終わったトコで」
「なっ……何だとッ!?」
「ア。今の、チョット誤解されるよーな言い方だった――――」
 葉子の語尾を遮って、ヴァイエルの拳が飛んで来た。
 葉子は自分の右頬に当たりそうな拳を咄嗟に避けようとして、左頬にまともにその一撃を食らった。
「きゃ、きゃあっ、ようこちゃんっ!」
 ふらついた葉子の体を横からティアが支えた。支えたといっても、あまりにも二人の身長差がありすぎ、傍目にはティアが葉子の腰にしがみついているようにしか見えなかった。
「ヴァ、ヴァイエル! やめて!」
 レーテがヴァイエルの腕に縋り付いた。
「レーテ……」
「違うの! その人は、葉子さんは、私のことを助けてくれたのよ!」
「え……?」
「あなたこそ、どうしてこんな時間にこんな処にいるのよ!」
「それは……、レーテとの結婚式のために改装してもらっていた教会が、この大雨でどこか毀れていないかと心配になって、それで点検に」
「……私との結婚式のために……改装?」
 レーテが、ぽかんとヴァイエルをみつめた。
「ここ……レーテさんとヴァイエルさんが挙式する教会だったんだ」
 ティアが、そういえば教会に駆け込んだ時、レーテはここに見憶えがあるような顔をしていたな、と思い出した。
「……そりゃ結構なことで。愛しいカノジョのために、こっそりナイショで教会のお色直し、ってね」
 言い乍ら、葉子が殴られた頬をさすった。
「……ヴァイエル……」
 レーテは言葉を詰まらせ、きゅっとヴァイエルの手を握った。
「ありがとう」
 ヴァイエルをみつめるレーテの眸にうっすらと涙が滲み、金の環が濡れ流れた。


SCENE[6] 一夜のロマンスをあなたに


 雨の上がった教会の屋根の上で、葉子とティアは並んで腰を下ろし、夜空を見上げていた。
「結局、レーテさんにとっての王子様は、やっぱりヴァイエルさんだったってことだよね」
 ティアが、ピーちゃんに語りかけ、嬉しそうに笑った。
 葉子はやれやれと大きく伸びをし、溜息を吐いた。
「ま、そーゆーコト。一応、依頼された任務は果たしたことになるのかねェ」
「なりますよ! だって、ほら、レーテさんの眸の金環蝕、ヴァイエルさんと一緒に帰る時には消えちゃってたじゃないですか」
「あー、そういやァ」
 ティアが言うように、事故後出現したというレーテの金環は、ありがとうございましたと頭を下げて教会を出て行った彼女の眸から消えていた。あれは、レーテに突如訪れた忘却を示す環だったのだろうか。そして、それが消滅したということは、つまり。
「……恋しいオトコともうすぐ結婚、か」
「ふふ、いいなぁ、レーテさん!」
 ティアが二人の結婚を祝福するように、ぱちぱちと胸の前で拍手した。
 葉子は無邪気にレーテの倖せを悦ぶティアを見、
「それはそうと」
 と、その耳に手を伸ばした。
「ティアちゃん、これは一体どーしたワケで?」
「えっ?」
「もしかして……人魚?」
 言われて驚き、ティアは自分の耳に手を遣った。
「あ……っ」
 耳朶が。
 鰭になっている。
「……さ、さっき、たくさん雨に濡れちゃったから……」
 本性が人魚であるティアは、体をきれいに乾燥させることによって、鰭状の耳や人魚の尾を人間に擬態させることができる。が、逆に水中に身を浸せば、もとの体に還ることになる。多少の雨程度なら何とかなっても、今夜のような大雨に晒されれば、水に感応して人魚の姿に還っても不思議はない。
「や、やだ、乾かさないと……」
「ふゥん、乾かせば人間の姿に戻る仕組み?」
「はい」
 ティアの返辞を聞いて、葉子は口許に笑みを過ぎらせた。
「よっしゃ、ンじゃァ、ちょいとこの夜空を空中遊泳といきますか!」
 言うなり、両腕にティアの体を抱え上げ、屋根を蹴った。
 葉子の背を飾る黒い翼が、雨後の風にのって高く舞い上がった。
「ひゃあっ?」
 ティアが声をひっくり返らせた。
「よ、ようこちゃんっ」
「たまにはお姫様抱っこされンのも悪かない気分でショ。暫く夜風に吹かれてれば、体もすぐに乾く」
「で、で、で、でもっ、こ、こんな高いところ……!」
「高いからイイんだって。ホラ、街の灯りがあんな遠くて、綺麗。これっくらい遠くから眺めた方が、いろんなモノがキレーに見える。コレ、真実ね」
 葉子に言われるままに、ティアはおそるおそる眼下の街を見下ろした。
 珊瑚の光にも肖た、あたたかな輝きが闇に散っている。
 あの一つ一つの光に、人間の心が宿っている。
 その中に、今夜みつけたレーテの恋も、きっと。
「……本当に、きれい」
「だろ?」
 葉子の声が、ティアの耳許に優しかった。


[恋愛教授/了]


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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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+ PC名 [整理番号|性別|年齢|クラス]

+ ティア・ナイゼラ
 [1221|女|16歳|珊瑚姫]
+ 葉子・S・ミルノルソルン
 [1353|男|156歳|悪魔業 兼 紅茶屋バイト]

※ 上記、受注順に掲載いたしました。

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■         ライター通信          ■
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はじめまして、ライターの杳野(ハルノ)と申します。
先ずは、ティアさん、葉子さん、「恋愛教授」にご参加くださいまして、ありがとうございました!
可愛らしい姫と軽妙洒脱な悪魔のタッグが素敵で、愉しんで書かせていただきました。
レーテは、名をそのままギリシア神話に於けるハーデースの忘却の流れから取りましたが、その意味でも悪魔さんや、水に縁深い人魚姫さんにご参加いただけたのは嬉しかったです^^
本当は葉子さんのプランではレーテをお姫様抱っこして飛んでくださる筈だったのですが、なぜか雨が降り、なぜか教会に逃げ込み、なぜかレーテの婚約者が登場してしまったので、代わりにティアさんと空中遊泳を(笑)
それでは、またお逢いできる機会がありましたら、どうぞよろしくお願いいたします。

――葉子・S・ミルノルソルンさま。
はじめまして。今回は、ご参加ありがとうございました。
葉子(イェズ)さん、というのは、中国語音か何かでしょうか?
私のパソコンは、もう「いぇず」と入力すると「葉子」と変換されるように調教済みでございます。
とても愉しい方で、いろいろ想像し乍ら書かせていただきました。ありがとうございました。