<東京怪談ノベル(シングル)>


 ◇蒼眸の戯心と碧玉の遊心◇


 主にレンガ作りの建物が並ぶこの界隈は、やはり夜のほうが賑やかだ。
 闇に浮かぶようにして燈る灯りが客引きの為に立つ女の紅を照らし、店の窓から漏れる灯りは男達の笑い声と踊り子の曲線を映し出す。それに呼ばれるようにして、ふらりと男は酒を飲みに行く。そして女も。
 誘惑と秘密と危うさが絶妙なバランスで溶け合う夜の活きたベルファ通りとは違い、昼間の顔は静かな寝顔のようだった。
 真昼の盛り場が見せる一抹の寂しさにほんの小さい笑みを溢し、男は建物を眺めるのに飽いて、通りから川の流れを視線で追った。
 全身黒尽くめの胸元が大きく開きペンダントが揺れている。そのペンダントさえも黒く、男の赤い髪と青い目は見るものに強烈に印象づくであろう。
 その男――。ユイス・クリューゲルは静かな午後のベルファ通りを広場に向けて歩いていた。
 散歩がてら不動産を探しているものの、中々良い出物はない。居住区のアパートは手狭だったし、一軒の家を新しく建てるほどでもない。かといって部屋の広さがベストならば建物の趣味が悪いときている。全く、どうしたものか。
 とはいうものの、ベルファ通りに適当な物件があろうはずもない。
「ま、俺は妓楼の隣でもいいんだがな。美人宿限定でなら…な、っ」
 広場に差し掛かかった時、曲ってきた人とぶつかった衝撃でユイスは片目を薄く眇めた。
「…っ!! ごめんなさいっ」
「…いや。構わないが…」
 目前に居たのは若い女。長い栗色の髪を真っ直ぐ腰まで下し、色白の細い顔をこちらに向けていた。全体的に華奢な体の線を持つ女の後ろには屋台があり、飲み物などが並べられてある。ユイスはその透き通った緑色のガラス瓶やグラスが並んだ屋台と、女の顔を交互に見遣る。
 女は女で、売り物の数がまるきり減ってないのを店主に見咎められた売り子のように、顔を俯かせていた。


 高台から街を見下ろすようにして聳え立つエルザード城の謁見の間にて、騎士レーヴェはその巨体を緋色の長い絨毯の上に置いていた。既に王の姿もなく、レーヴェは幾許か固さの取れた面持ちでその掌中にあるものを眺めた。
 御庫に仕舞いおくようにと託された王の杖。紅玉の冠、黒い佩玉と共に正装には欠かせない御品の一つ。杖の先で艶やかに輝いている孔雀石には強いエネルギーがあり、持ち主の自然治癒力を高め、邪気を寄せ付けないといわれている。またお守りにもよく用いられ、この石に願い事をすれば必ず叶うと信じられていた。

「給料でも上げてくれ、と願っているのか?」
 突然の声にレーヴェは顔を上げ、血相を変えた。そこに見慣れない痩身の男。黒尽くめの格好で唇の端を少しだけ上げ、これも珍しい玉の嵌った肘掛に手を置き軽く足を組んで、玉座に座っていたのである。
「誰だ、貴様! そこを退かんかっ」
 眉を吊り上げた後、顔の中心に全てのパーツが集まってしまうのではないかと心配するほど眉間深く皺を刻み、口許を歪め、大股でずかずかと男の前に歩く。それに男はやれやれといったように肩を竦めると素直に腰を上げ、絨毯を踏んで立った。
「…全く。肩の力を抜けよ。曲者でも睨むような顔をして」
「明らかに曲者ではないかっ! こんなところで何をしているっ」
 鼻息荒く男臭い顔をぬっと寄せられて、黒尽くめは片腕でそれを向うへと押しやった。
「そこまで近づいていいのは別嬪だけだ。それに俺、実は曲者じゃない。ユイス・クリューゲルだ。今日から此処に住むから挨拶をしておこう、宜しくな」
「…何っ!? 宮中にだと? …貴様、その胡散臭いナリで何をしにきた」
 レーヴェの眉間が一層深くなり、再びぐいぐいと押してくる顔をユイスはまた向うへと押し戻し溜息を吐く。
「つくづく失敬な奴だな。宮廷魔道士の長を捕まえて胡散臭いとは」
「ふざけるなっ。お前のようなものが長になったなどとは聞いていない! この痴れ者がっ」
 握っているのが王の杖という事も忘れ、その御物でユイスに殴りかからんばかりの勢いである。忠誠心に厚く、また中味も熱い男なのだ。
「仕方なかろう? 市井に趣味の良い部屋が少ないんだから」
「お前という奴は…っ。開いた口が塞がらないとはこの事だっ」
「ほう、さすがにいい品だ」
 ユイスはレーヴェの握る杖の先に嵌った石に眸を眇めた。心眼の碧玉。それを包む地金は花鈿のように銀を編み上げ、杖の部分に朱漆塗りで夜光貝をふんだんに使った螺鈿。
「…それで俺を殴る気か?」
 片眉を跳ねたユイスから、レーヴェは己が振りかざしていた杖に視線を流した。ふっと崩れるように体勢を解くと、そっと杖を握りなおした。その上でユイスをねめつける。
「…貴様の所為だ」
「それは俺の所為ではなく、お前の所為なのだ。…たまには旨い酒でも飲め。固いばかりでは務まらんだろう? 鋼もいつか錆びる」
 憮然としたレーヴェに構わず、ユイスは緑のガラス瓶をその胸に押しつけた。
「余計な世話はいらんからとっとと出て行け」
「代わりにこれを頂く。酒代だ」
 押し付けた瓶と入れ替わりに、レーヴェの腕からひょいと御物が引っ手繰られる。
「貴様っ! 正気か! 俺の杖ではないのだぞっ!?」
「たまには面白いことも言う。心配するな。お前はこんな可愛らしい杖を振る職には見えん」
「いい加減にしろ!」
 遠慮のないユイスの笑い声にレーヴェは脳内を沸騰させた。
 ――王の杖が酒代だと!?
 筋肉の固まりのような腕を振り上げ、拳を前に突き出す。反射的に後へと飛んだユイスのペンダントを、レーヴェの無骨な拳が掠めた。
「…おっと。乱暴だなぁ。宝物に傷がつく」
 ユイスはくすり、と唇から息を逃し軽く右手を上げると素早く魔術を編み上げた。碧玉の一端にレーヴェの指先がかかる寸前、きらりと蒼の眸が輝き、レーヴェの視界の中でユイスの体がふっと霞んでいく。
「っ…!! 逃げる気か貴様!! この瓶は何だ!!」
『酒代だといっただろう? …甘草水だよ』
 最早視界の中にユイスの姿はなく、代わりに細かい光の塵が天井へと昇っていくのを捉えた。薄っすらと、虹色に古代文字が軌跡を描いて。
「…か、甘い草水だとぉっ!? 鎮静剤など俺には必要ないわっっ!!」
 灯心の揺らぎのようなそれがふっと消える刹那、レーヴェの元に届いたのは柔らかな音色だった。
『仕様がないよなぁ…、美人にああも泣きつかれちゃな…』
 もう、その音が響かなくなってからもレーヴェはずっと虚空を睨んでいた。

 それから数日後――。
 今日もきっちりと始業30分前には登城し、身なりを整えた後、石の如く頑なに、山の如く動かない男が城門にいた。
 いつもと変らぬ表情の読めない厳しい面構えをして…いるようには見えるが、内心レーヴェは穏やかではない。
 王の御物を目前で盗まれるという失態。
 それだけではない。あのユイスなんとかと言う男は街を離れた山奥の洞窟に地下迷路を創り、最深部に盗んだ御物を飾って、ありとあらゆる罠をしかけ、冒険者の到来を待っているというではないか。
 その主がユイスだと聞いた訳ではなかったが、邪悪な魔導士の住む洞窟といったら、あの男に決まっている。
 レーヴェの思考も時折強引である。
 王宮始まって以来の雪辱を招いたのだ。騎士の名折れどころか、この首はもうないものと腹を括っていた。
 ところが、である。一向に処分の沙汰がない。謹慎、自宅蟄居とも言ってこない。その沈黙がレーヴェにとっては逆に怖かったし寂しかった。己は底から聖獣王に心服している。いや、惚れているのだ。男が男に心服するのは、惚れているからこそだ。
「……」
 レーヴェは自分を忘れ去られることが、この世で一番恐ろしいものなのだと知った。
 そんな彼の元に、交代の騎士が下りて来、耳打ちする。
 ――とうとう来た。
 王の御前に呼ばれたのである。ゴクリ、と咽喉の奥が鳴る音をやけに大きく聞きながら、レーヴェは城内へと入っていった。
 
 1時間後、呆けたような顔をしてレーヴェが戻ってきた。会う仲間知り合い全てにちらちらと、目の前に手をかざされても視界に入っておらず、ふらりと持ち場に戻ってきたレーヴェである。
 ――何だったのだ…? 一体?
 気を揉んでいた処罰の言い渡しもなく、それどころか手ずから茶器に注いだ飲み物まで下された。しかし、どこか覚えのある妙な甘い匂いが立つ茶に恐れながら訊ねると、甘草水だという。
 思わずピクリ、と眉が動いた。知ってか知らずか愉しげに声を溢し、杖の事ならある筋から既に取り戻してあるから心配しないように、というのである。
 王は自分を忘れたのでもなかったし、反対に心にかけていてくれるように見えたのは落涙するかと思うほど嬉しかったのだが――。
 どうしたのだ、と横から同僚に顔を覗きこまれつつ、レーヴェは咽喉に絡む甘い香りを呆然と味わっていた。
 
 
 ふと城が見えただけのことだ。
 広場でいきなり女が泣き出した上、その女がちょうど男と向い合ってたらどう思う?
 男が泣かしたと思うじゃないか。
 俺は周りの白い目をどうにか避けて、噴水前のベンチに腰をかけさせた。
 行きがかり上、訳を問う俺に女は謝る。ただ謝る。
 穏やかに午後の陽光が降注ぐ中、それをぼんやりと聞いているうち女の向うにふと、城が見えただけのことだ。
 キナ臭いことや邪悪なものからはとりあえず、護られてはいるこの聖都。
 だが、白く眩いあの城の中で、聖獣王の名を冠する王から此処は見えているだろうか――。

「…レーヴェの言うとおり、ふざけている。優男の寝言じゃあるまいし」
 は、と息を逃し、ユイスは寝台の上でごろりと寝返りを打った。
 だが、あの王は面白い。
 ユイスの口端が持ち上がる。

 通常、王の身の回りの世話や御物の管理は騎士の仕事などではない。それをあの時レーヴェに託していたのはつまり、俺が来ることを知っていたということだ。預けるものは何でも良かったはず。冠であろうが、杖であろうが。
『中々良い男であったろう?』
 王の御物を宝にダンジョンを創って遊ぶのにも飽いた頃、碧玉螺鈿の杖を戻しに行った。自分に向かって微笑み、たっぷりと蓄えた白髭を撫でていた王。
 何故、レーヴェなのだ?
 俺にレーヴェを引き合わせたかったのか、レーヴェを俺に見せたかったのか。
 ――いや待てよ。その謎は追々考えるとして――、何故はもっと他にもある。
 暗がりの中、ユイスは寝台の上に半身を起した。

 御物は御物だろう。ひょっこり現れたら誰にでも、あんなに容易く渡す気か?
「…やられた」
 戯れた俺に、王も遊ぶ。
 せっかく起した半身を、ユイスは背からぱったりと寝台へ倒れこませた。
 視界に天井の模様がぼんやりと映る。

 後で詫びてくることもご承知か、御前。
「…ふ、貴方も大概…」
 退屈しておられたか。
 ユイスはくつくつと咽喉奥を鳴らした。
「まぁいい。街へ下りた時は度々、あの男を揶揄いにいってやろう。甘草水もたっぷりあることだしな」
 ふと寝台の傍らへ視線を投げる。そこには屋台が出せそうなくらい、緑のガラス瓶が並べてある。
 暫くは退屈せずに済みそうな、ユイスであった。