<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


『精霊の洞』

●宝の地図
「これが……宝の地図です」
 タオの手にした地図は、ぼろぼろの羊皮紙だった。
「僕たちにはもう、必要のないものですから」
 道程は、頭に入っていますしね……と、言う。
「誰かに奪える、奪い合うものでもないので、話は広まっても大して困ることはありません。ただ、彼にとって安住の地でなくなったら、姿を消してしまうかもしれませんが……」
 そこは洞窟なのだそうだ。
 人里離れた山中にある、洞窟。
「そう、彼に気に入られなくては、願いは叶いません」
 彼、というのは洞窟に住まう、水の精霊。
 彼こそが、宝物。
 彼は、人のささやかな願いを叶えてくれる。
 誰かの姿を見たい。何かの今の姿を見たい。
 そんな願いを叶えてくれる、水鏡の精霊。
「その姿をとるだけで、話しかけてくれるわけではありませんが」
 それでも、そこに行きたいのなら。
「お教えしましょう、その洞へ続く道を」
 望むのなら、お教えしましょう……と、タオは囁いた。
 彼に気に入られる方法を。

●洸の精霊〜みずのわきたつひかりのせいれい〜
 それは形のないものだからか。
「……光だ」
 そこまで来ると、もうランタンは必要なかった。それはタオの言った通りに……いや、邪魔ですらあった。なので神名恵志は、その灯を落とした。
 その洞窟の奥の奥。そこまでは、闇に閉ざされていた。外は昼間だと言うのに、その洞窟の深くには、わずかの光も迷いこまぬようで。だから、進むのには光が必要だった。
 しかし……水の湧く音のするそこには、光がさざめいていた。見れば高い高い天井に小さな穴が穿たれている。そこから差し込む一条の陽光は水に落ちて、わきたつ水に弾けて、拡散して。
 そんなほのかな光の前には、ランタンの灯などは無粋だった。
 光は拡散して……
 美しい人の像を結んでいた。
 水のほとりに。
 実体ではないと恵志が思ったのは、その像が美しかったからだ。生身の、肉のある美ではないと思った。
 恵志の声に、ただその人の像は振り返った。
 涼しげな色の髪がさらさらと流れる。
 振り返ったものの、その印象は、それでいて冷たすぎはしなかった。怜悧ではなく、包み込むように軟らかで……どこか激しく、どこか懐かしい。
「ようこそ……見知らぬ方」
 涼しげな美しい声。
「ああ……」
 恵志はそんな音を喉の奥から、ため息のように漏らした。彼が知る中でも、その像は最も美しいもののうちに入るだろう。それでいて、どこかで見たことのある懐かしさを感じるのは何故なのか。
「何の御用でしょうか?」
 くすりと笑うような、そんな響きに、恵志は我に返った。
 そうか、と。
 これは精霊だからだ。
 この像の足元にある、光弾く水が、水のわきたつ光が彼の正体。形のない美しいものを視るために、いつか見た美しい水のある風景を象るために、恵志の心に映し出された幻影だ。
「……あんたに会いに来たんだ」
 強い躰を包んだ外套を、光を斬るように翻して恵志は『彼』の前まで進んだ。
「おやおや……私には、大したことはできないんですよ」
 美しい……男だ。娘のような華奢さはない。そのシルエットは流麗だが、女のものではなかった。
「何の話だ?」
 恵志は自分のペースを取り戻したことを感じつつ、そんな風にとぼけて見せる。
 そして、更に一歩進んだ。からんと下駄が鳴る。
 もう、その手が届きそうなほどに。
「……私は、誰の願いでも聞き入れるほど優しくはないんですよ」
 そう言う精霊は、優しそうだった。
 彼は知っているのだろう。誰かが彼を訪ねて来る時に、決まって目的があることを。
 だから優しく拒絶する。
 だから恵志は、そんなことは知らぬ気に続けた。
「綺麗だな……名前は、なんていうんだ」
 求めるばかりでは与えられぬことだって、わかっている。
「俺は神名恵志。神名でも恵志でも、好きに呼ぶと良い」
 どうとでも、と。
「あんたはなんて呼べばいい」
 真名である必要はない。ただなんと呼べばいいのか、名を呼びたいのだと。
 いつか友に向けた情熱のそのままに、囁く。
 そんな情熱にほぐされるかのように、精霊は口元を綻ばせた。
「そうですか……では……」
 少し考え込む間があって、それから。
「ホノカと呼んでください」
「ホノカ?」
「昔、ここを訪れた方が私を呼んだ名です。私が名のらなかったら、勝手に名付けてくれました」
 勝手にと言いながら、精霊はその思い出に不快さを示しはしなかった。きっと良い出会いだったのだろうと、恵志は思う。
「どこから来たかは聞きませんでしたが、ホノカとは、その方の故郷の言葉で水の光を意味しているのだと言っていました」
「そうか……あんたに、よく合ってる。そう呼んだ奴の気持ちもわかる。ホノカ」
 名を呼ぶと、精霊は……ホノカは笑った。

●触れあえぬ恋
「それで、彼とは別れてしまったんですか?」
 恵志は、こんなつもりじゃなかったな、と心のどこかで思っていた。その話をしながら。これでは、やはり物欲しげに見えてしまうかもしれないと。
 それは、かつて故郷を旅立った……旅立たざるをえなくなった親友と、共に旅に出た日の話。親友のために、恵志もまた、遠い故郷に帰る機会を捨てた。傷つき倒れ、手を差し伸べなくては永遠に失われてしまうかもしれない命を……友を、置いていったいどこへ帰れただろう。
 だが、今は離れている。
「俺のきかん気が悪かったのかもしれないが」
 ふん、と鼻を鳴らす。
 その様子に、ホノカはくっくっと喉を鳴らす。
 初めは実像とは思えぬ美しさだと思った姿も、今は虚像とは思えぬ生々しさで恵志を惑わした。
 だが、触れられない。
 やはり虚像は虚像だ。
 今は水のほとりで、神名も腰を下ろしていた。
 袖を擦るほどに近くにいたが、命ある肉体の持つ独特の温もりは感じられなかった。
「後悔しているんですね」
「後悔!? そんなものはしていない」
 恵志の親友は、誤解も受けたが芯の強い男だったので、他にも彼を慕う者たちが共にいた。親友が人々に慕われるのは、恵志にとっても悪い気分ではなかったが……それでも友を奪られる気分は拭えなかった。
 いつか耐えがたくなって、親友の元を離れた。
 嫉妬だ。
 わかってはいる。
「我慢が出来なくなったのは俺だからな」
 強い友情は、強い愛に似ている。
 おそらくは同じ本質を持っている。
「寂しくはないと……?」
 ホノカは問う。
「寂しくはないさ」
 恵志は答えて、ホノカの海色の瞳を覗き込んだ。
「やけに絡むな。妬いてるのか?」
 ニヤリと笑って見せた顔に、ホノカは微笑みを返した。
「妬いていますよ。私には、そんな相手はいない。いつも思うけれど」
 羨ましいのです……と少し、ホノカは寂しげだった。
「私は人と触れあえませんから」
「なんだ。俺だって、別にあいつと躰の関係があるわけじゃない」
 けろりと言ってから、恵志はそういう問題じゃなかったかと思い直す。
「そうなんですか?」
「そうなんですかって」
 だがいかにも意外そうに聞き返されて、恵志の方が拍子抜けした。
「ああ、すみません。私は、どうも生物の仕組みに疎くて。人の種は特に、時代や地方で様々ですし。恵志とその方とは、番う関係にはならないのですね」
 そして、ホノカもまた微妙な表現で二人を評する。
「つがう……ああ、まあ、そういうんじゃない。まあ、あいつが番いたいって言うならちょっとは考えてみるが、そうは言わないだろう」
 ありえないと思うにつけ、恵志は苦笑いを漏らす。
「あなたからは?」
 更なる問いに、恵志は絶句した。
「……それは駄目だ。あいつを泣かす」
 その返事が喉を通るまでには、少しかかった……もしもそう言ったなら。それは恵志にとっても実に危険な想像であったので。
「そうですか……触れあわぬ恋もあるのですね」
 正しいような違うような、そんな気持ちを曖昧な笑みに閉じ込めて、恵志は返事を飲み込んだ。
 それをどう捕えたのか、ホノカは話を続けた。それは違うように見えて……
「ここに来る人は、多くが、泣くのです」
 ホノカは眉を顰ている。視線はどこかを彷徨っていた。
 それは、彼にとっても不本意なことなのだろう。
「ふん?」
「最初は一目逢いたいと。でも、姿を見ると触れたいと。見るのではなかったと……私の力は後悔を呼び覚ます」
「そりゃあ、士道不覚悟ってもんだ。あんたのせいじゃない」
 世には、純愛ってものもあるのだから。触れあえぬ恋人たちだって、いたはずだ。
「……私は自分の相手となるべき人と出会ったことがないだけなのかもしれません」
 ここを訪れる者は、もう心に誰かを住まわせているからだろう。
「あなたも、ずっとここにはいてくれないでしょう?」
 ホノカは遠くを見つめていた視線を恵志に戻してきた。何か吹っ切れたかのように。
「……ああ。悪いな」
 今は離れていたとしても……
「いつかは帰る。あいつのところへ」
「でしょう……今も、今すぐでも、帰りたいですか?」
 恵志は、ホノカの問いが核心に近づいたことを感じた。
「どうかな……今は、あんたの前にいるんだ。それは失礼ってものだろうよ」
 ホノカは密やかな罪を暴くように囁く。
「嘘は良くありませんよ」
「……嘘じゃ」
「逢いたいですか、彼に」
「……ああ」
 それは、偽らざる気持ちだ。
「あなたには、後悔してもらいたくなりました」
 優しく優しく、ホノカは言った。
「後悔して……お帰りなさい、あなたを待つ人のところへ」

 流れる水の色をした髪は、気がつけば黒く。
 そしてその顔は、懐かしい人の顔へ。
 彼はただ、見つめていた。
 何も言わない。
 ほんの少し手を動かせば、その手に触れる位置で。
 ほんの少し顔を動かせば、その唇を掠める位置で。

「ああ……わかった、帰るさ」
 どこか遠くで、ホノカの声がした。
「泣いても、いいのですよ」
 だが、唇を噛み締める。そして血の滲んだ唇で恵志は笑った。
「泣きゃあしない。俺は負けたわけじゃないからな」
 ただ、望むままに前に進むだけなのだから……

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【SN01_1261/神名恵志/男/28歳/彷徨い人】

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■         ライター通信          ■
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 大変お待たせしました〜。執筆いたしました、黒金かるかんです。最近こればっかり(汗)、またぎりぎりまでかかってしまいました。
 今回はお二人一度に受注したのですが、上にある通り、話の中には神名くん一人しかキャラは出てきていません。普段は一応、一度に受注した方は細部は変えても同じお話として書くのですが、今回は試行錯誤の末、一本ずつ別に書くことにいたしました……この判断が遅くなったのが敗因です(涙)。
 このお話は何かこう、懐かしい気分に浸りつつ書かせていただきました〜。調子に乗って書きすぎだったらごめんなさい。これでも手が滑りそうなところを抑えたんですが……(笑)