<東京怪談ノベル(シングル)>
春の月
遠く見える敵地は朝もやに霞んでいた。
その霞は陽炎のようにも見える。そこに何が起きているのか、そしてまたこれから自らはなにをしに行くのか、それをわかっていればこその感覚でもあっただろう。
エルレアーノは身の内にあるその感覚を静かに噛み締めていた。
それがあるという事がまた意外でもあり、そして意外と感じる事もまた奇異とも取れる。
エルレアーノは魔導人形。錬金術師の手を経て生み出された、騎士団への特注品。『作品』であるからだ。その身の内にあるはずのない思いがある、それはやはり奇異かもしれない。
エルレアーノは遠く霞んでいるアセシナート公国を目視し、後ろを振り返った。
そこに騎士団の仲間達がある。
そのことにまた安堵を、確かな安堵を覚えた。
それもまた事実だった。
敵を殲鬼と呼ぶ。鉱物採掘所を占拠し、多く民を攫いそこでの強制労働を行わせている。
恐怖を食うその存在は集めた民を脅かし、継続するその恐怖の感情でその地を封土と呼ばれる己のテリトリーとしていた。渦巻く感情は殲鬼に更なる力を与えるのだ。なにやら単にそれだけでもないことを目論んでいる風もあるがそれは未だ確かともいえない。
その解放。それがエルレアーノに与えられた任であり、同時に騎士団の任でもあった。
月が出ている。時刻は深夜。攫われた人々が強制労働につかされている昼間ではそのまま彼らは質となり足手纏いとなる。殲鬼が従えるシビトの活動時間ではあるが、解放が目的である以上、攫われた民に害成されては意味がない。
踏み込んだ先は冴え冴えとした緊迫感に満ちていた。
恐怖。
それが渦巻き外気にまで負荷を与えている。
エルレアーノは無感動な表情で仲間を振り返り、言った。
「封土の解放を……」
よしと頷いた仲間達は、幾人かの集団となり散って行く。
助けが来た事を民に知らせねばならない。『助かる』その事実を。
恐怖に閉ざされた地を開放するに他に手立ては無いのだ。
それを見送り、エルレアーノは踵を返した。己は少しでも手勢を散らし、そして親玉に切り込まねばならない。
「……行きます……!」
決意と共に、一歩目を踏み出した。
封土から力を得ている以上、その地から殲鬼が出ていることはありえない。
そしてまたその封土が殲鬼に絶対の自信を与えている。逃げ隠れする事無くそれはエルレアーノと対峙した。
「人形如きが我に楯突こうとは片腹痛いわ……!」
嘲る殲鬼の背に、月。
冴え冴えとして冷たくしかし霞みかかりどこかか細い。
月。まるで春霞の。
「殲鬼如きに人形などと侮られる覚えは無い!」
生まれ出でた時からしっとりと手に馴染むハルバートを握り返し、エルレアーノは殲鬼に向かい跳躍する。
殲鬼の手から放たれた衝撃波がエルレアーノの右を掠めた。
明確な威嚇に怯む事無く、エルレアーノは更に加速する。突き出したハルバートは、しかし虚しく空を切った。大きく跳躍してその一撃を避けた殲鬼は、そのまま宙を舞い、エルレアーノの後方へと下りる。
「突進してくるだけが能か!」
哄笑。そして衝撃波がまたしても放たれる。いっそ無造作なほどに。
エネルギー切れを、この際はスタミナといってしまっても良いかもしれない。それを案ずる心配が今この殲鬼にはない。
機械仕掛けの身体は哀れにもその衝撃波をまともに受ける。しかし飛ばされつつも宙で身を屈めたエルレアーノは地に叩きつけられる事無くふわりと着地する。
エルレアーノは間をおかず、その余勢のままに跳躍した。
下部に見える地面に衝撃波が被弾する。僅かな空中遊覧の後、エルレアーノはハルバートとともに殲鬼の傍らに着地する。
シュッと、その一撃が空を鳴らした。
その背後にまた月。
(……美しい……)
冷たくしかし素朴で、斬りつけるようでいながら何故か暖かい。
霞む月の光。
封土の解放がなるまでは時間を稼ぐより他は無い。
ハルバートと組み合うように交差された腕を、ハルバートで払い、エルレアーノは後方へと跳躍する。
恐怖が失われてしまうまで。
戯れるように、しかし確実に生命をかけて。
矛盾していながら矛盾していない攻防は続いた。
嘗てある剣鬼が句を詠んだ。
修羅とも呼ばれ狼と忌み嫌われ壮絶な戦死を遂げた剣鬼が。
「死ねえい!」
「滅せよ!」
腕とハルバートが交差する。
エルレアーノの肩を衝撃波が砕く。同時に殲鬼の胸を、ハルバートが貫いた。
瞬間、殲鬼の身体に震えが走る。
「な、ぜ……」
砕かれた肩のせいでバランスがとれず、地に膝を付いたままにエルレアーノは淡々と言った。痛みは感じないが深手である事は分かる。本来ならば口をきく事さえエネルギーの消費となり宜しくはないだろう。
しかし、言いたかった。言わずにいられなかった。
「愚か者が。封土と化した地に一人で足を踏み入れたりなどする訳がなかろう」
封土からの解放。
そして、
「がああああああああっ!!!!」
それもまた、解放であったのかもしれない。
殲鬼は、滅した。
駆け寄ってくる騎士団の面々に頷きで答えつつ、エルレアーノは天を見上げた。
やはり月は霞んでいた。
「……綺麗……」
呟きはか細い声でしかなく、エルレアーノの深手に大騒ぎする仲間達には聞き取ることは出来なかった。
嘗てある剣鬼が句を詠んだ。
修羅とも呼ばれ狼と忌み嫌われ壮絶な戦死を遂げた剣鬼が。
『公用に出て行みちや春の月』
矛盾を孕んだ霞む月。
敵と対峙しつつその美しさに心を奮わせた己。
似ているから美しいと思うのか、それとも美しいと思うからこそ似ていると思いたいのか。
「戻ろう。お前には手当てが必要だハルバート」
その武器ゆえかエルレアーノはそう呼ばれることが多い。
それにどこか寂しさを感じる自分を自覚しながら、エルレアーノはこくりと頷いた。
戦う人形でありながら。いやあるからこそ。
愛でた月の姿をエルレアーノは忘れることは無かった。
その剣鬼の名を土方歳三。それは無論エルレアーノの知らぬ世界の知らぬ人物のことだった。
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