<聖獣界ソーン・黒山羊亭冒険記>


『精霊の洞』

●宝の地図
「これが……宝の地図です」
 タオの手にした地図は、ぼろぼろの羊皮紙だった。
「僕たちにはもう、必要のないものですから」
 道程は、頭に入っていますしね……と、言う。
「誰かに奪える、奪い合うものでもないので、話は広まっても大して困ることはありません。ただ、彼にとって安住の地でなくなったら、姿を消してしまうかもしれませんが……」
 そこは洞窟なのだそうだ。
 人里離れた山中にある、洞窟。
「そう、彼に気に入られなくては、願いは叶いません」
 彼、というのは洞窟に住まう、水の精霊。
 彼こそが、宝物。
 彼は、人のささやかな願いを叶えてくれる。
 誰かの姿を見たい。何かの今の姿を見たい。
 そんな願いを叶えてくれる、水鏡の精霊。
「その姿をとるだけで、話しかけてくれるわけではありませんが」
 それでも、そこに行きたいのなら。
「お教えしましょう、その洞へ続く道を」
 望むのなら、お教えしましょう……と、タオは囁いた。
 彼に気に入られる方法を。

●洸の精霊〜みずのわきたつひかりのせいれい〜
 羽妖精であるフィフニア・ヴィンスは洞窟のごつごつとした地面に急いで舞い降りると、持っているバスケットを置き、バスケットにくくりつけた蝋燭の火を吹き消した。
 それで、フィフニアの持っていた灯は消える。
 残るは、そこに自然に差し込むほのかな光だけ……
 タオに示された洞窟の奥の奥。そこまでの道程に、光はなかった。だから、進む先を照らす光は、どんなかすかなものであれ必須であったのだが。
 だが。
 そこに……フィフニアの目的地に辿り着いた時、その光は邪魔なものとなった。
 そこには、光があったからだ。
 天井のわずかな裂け目から陽光が差し込み、一条の光線はくぷくぷとわきあがる水面に反射して、その空間に拡散して。
 散った光は、どんな魔法か、人の像を結んでいた。
 だが、その地のものではない持ち込まれた光の前に、その人の像は薄れ消えかかった。それが、急いでフィフニアが蝋燭の火を消した理由だ。
 わずかな光も、その場所の魔法には不純物となるのかもしれない。
 その、差し込む光だけになると、人の像は失いかけた色を取り戻した。
 そうしている間も……消えかかっている間も、戻る間も、その空間の入口に半ば背を向けたその人の像は、身じろぎ一つしなかったが。
 そんなことは厭わぬ程に、何かを考えているのか。
 その見えている姿などは、彼には大して重要な物ではないのか……
 どれだけ、フィフニアはそこでそうしていただろうか。その美しい横顔に見とれていたというわけではなかった。その、美しい虚像に。
 ここにきて、迷っているというわけではなかった。怖じ気づいているのでも。願いは決まっている。何かで何かが変わるということはなかった。フィフニアの願いは、そんな曖昧さを持つ願いではないのだから。
 そこで、どうして佇んでいたのか。当のフィフニアにも、明瞭な説明は出来ない気がした。
 強いて名をつけるならば、それは罪の意識か。初めて出会う人ならぬものに、何の罪悪感をと他人は思うだろうが。
 持ち込まれたわずかな光にすら打ち消されそうな儚い精霊に、自分は何をしてやれるのかと……
「どうなさったのですか?」
 いつのまにか振り返っていた顔は、何も語りかけないフィフニアに痺れを切らせたという顔ではなかった。待つ時など、人ならぬ身には大した重荷にはならない。それが一週間ほどもそこでぼんやりしていたとしても、やはり同じ顔で精霊はフィフニアに問いかけただろう……
 もっとも、フィフニアがぼんやりしていた時間が、半日にはならないことは明確だったが。降り注ぐ陽光に大きな変化はなく、一度も夜は訪れていない。
 永劫に近い時を……忘却を糧にして生きている者に、時の重さは時に軽い。
「何か、御用でしょうか……?」
 さらさらと流れる髪をゆらして。彼はもう少し振り返った。虚像とは思えぬほどになめらかに、生々しく。声は冷たくはなかったが、淡々としていた。
「あ、ああ……すまぬな、思索の邪魔をするつもりはなかったのじゃ」
「いいえ、邪魔などと」
 微笑むように、彼は目を細める。
「ご用事があるのではないのですか」
 先を促されていると、フィフニアは感じた。
 そうだ、誰かがここに来る理由など、この精霊にわからぬはずもない。今までにも、両の手の指ではとてもとても足らぬ数の訪問者がいたはずだ。
 その多くは……否、ほとんど全ては、願いを持っていたはずだった。
「私は、なんでも出来るわけではありませんよ」
 フィフニアの心を読み取るかのように、精霊は告げた。
「それは……聞いておる。じゃが」
「私は、誰の願いでもきくわけではありませんよ」
 精霊はそう告げる。それは聞く者によっては、冷たく聞こえるだろう。だがそれは、あらかじめ聞いてきたことでもあった。そして、この世の法則を思えば、当たり前のことでもあった。
「わしの願いは、聞いてはもらえぬじゃろうか。……お主のために、何かしてやれるというわけではないしのう……せめて、話相手にでもと思うたが、土産のランチもお主には意味のない物じゃったようじゃ」
 フィフニアは、持ってきたランチバスケットに視線を落とした。
 今見えている精霊の姿は、明らかに虚像であった。食物を口にできる、実像ではない。触れれば消えてしまうと思えるほどに、陽炎のごとき不確かな存在。
「……それが私のために作られたものなら、意味のない物ではありませんよ」
「しかし、食せぬじゃろうて」
「人と同じように、食べることはできませんが」
 あなたも人ならぬ身なら、本当はご存じでしょう……?
 音にならぬ言葉で、彼はそう言ったような気がした。
「私のために作られた物の、私のために作られた意味を、私はいただくのです」
 彼は手を差し伸べた。
 それが、食さぬ神々に食べ物を供える意味。
「それは、私のためのものではないのですか?」
「……お主の物じゃ。今、そちらに持っていこう」
 フィフニアは再び地を蹴って舞い上がった。バスケットを手にして、ふわふわと。

●願いの代償
 若く立派な青年の姿だった。
 フィフニアの心を映したその姿は。

「……わしはあさましい」
 それは『似姿』でしかない。
 いかに本物そっくりであろうとも。
「姿だけならば、いないのも同じじゃ」
 何も言わぬ、何もせぬ、ただそこにあるだけの虚像。
 フィフニアの願う通りにすら動かない、ただ在るだけの遠鏡。
「……それでも」
 逢いたくて逢いたくて。
 それだけしか願いはなかった。
 フィフニアは血を吐くように嘆き、地に伏した。
 それに触れられぬことに。それが偽物であることに。自らが不甲斐ないことに。
 涙と、心に満ちる意味をなさぬ叫び。
 それが涸れるまで、その虚像はフィフニアの前にあった。
 永劫とも思える一瞬のような時間。
 満足などあろうはずもないように見える、後悔の苦しみの前に……
 それでも。
「もう、十分」
 それが何に向かって発せられた言葉なのか、初めはフィフニアにもわからなかった。
 のろのろと顔を上げると、いつのまにか虚像は精霊の形を取り戻していた。
「お見苦しいところを、お見せしてしまったようじゃ」
「いいえ。ここを訪れる方の多くは、皆そうです」
 珍しくはないのだと、そう精霊は言った。
「私の力は、後悔を呼び覚ます」
 それは必ず。その後悔が、どこに向かうかは人それぞれではあるけれど。
 けっして満たされはしない力。それが、この精霊の持てる力の業。
 そしてそれこそが、願いの代償。
「あなたからは、もう十分にいただいた」
「わしから?」
 人知れぬ精霊は、人知れぬ神。
 欲望を叶える奇跡の力を持ち、奇跡に揺れる人の希望と絶望と嘆きを糧とする。
「そうです。夢から醒めて……人の世にお戻りなさい」
「わしは……まだ……」
「逢いたいですか?」
「……逢いたい」
「ならばなおのこと」
「じゃが、逢えん」
 沈みかけた陽が、光の反射を変えつつあった。
「逢えますよ」
「逢えんのじゃ」
「夢から、お醒めなさい……」
 精霊の姿は、消えていった。
「これは……夢なのか……?」
 もう、精霊からの答えはなかった。
 ただ湧き出る水の音だけが響き渡る。
 フィフニアは、水の音に耳を澄ました。
 もう、精霊の声は聞こえなかった……

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■   登場人物(この物語に登場した人物の一覧)  ■
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【SN01_1388/フィフニア・ヴィンス/男/29歳/ヴィジョンコーラー】

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■         ライター通信          ■
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 こんにちは、執筆いたしました、黒金かるかんです。
 今回は追加受注させていただいた分となっております。慌てて発注なさったようで、ご自分もわかっていらっしゃるようですが、微妙に文意の読み取れないところがありました。慌てるなというのも難しいと思いますが、意図した物と違う結果になってもお嫌でしょうから、発注文は誤解のないように書いてくださいね。
 それから、先日いただいたファンレター、8割くらい意味がわからないのですが……