<東京怪談ノベル(シングル)>
†ホリゾント†
それは…舞台奥の曲面を成す壁の意。
■血宴月下■
夜道。
どこかに繋がっていれば不安にはならない。
繋がっていれば……
「はぁっ……はあ……」
息が詰まり、脇腹が痛くなってトールは蹲った。
涙が目の端に滲む。
冷たい地面を膝で感じれば、震えが全身を駆け巡った。
喘ぐ息は冬の寒空の下で白く変わる。
走って汗をかいたロングコートの中は、一変して今度は冷や汗で徐々に冷えていった。
地面に手をつけば小石が手に触れて、その冷たい輪郭を感じている時間さえももどかしく思う。
立ち上がるには力が抜けてそれも叶わない。
仕方なく、トールは地面を這っていった。
一歩でも離れる。
そうすれば永遠に安全な場所に行ける気がして、手に入らないものを掴むようにトールは手を伸ばした。
逃げる術はわからぬまま、這ってその場を移動する。
それしか自分には残されていなかった。
いつものコースは大幅にずれている。
闇雲に走った所為で、今、自分が何処に居るのかさえわからない。自分が働いている雑貨店シェリルの店に近いのか、家に近いところに居るのか、まるで違う場所に居るのかさえわからないのだ。
町に慣れないうちに、こんな事が自分の身に起きるとは思ってもみなかった。
「…っ……はぁ……」
暫く、ゆっくり移動すれば、段々、息も整っていく。
恐怖から下ばかり向いていた顔を上げれば、小道は二手に分かれていた。
どちらも暗く、安全には見えない。
高く手の届かない位置に月がいた。
月も、家も、何もかもが遠い。
溜息を吐いた。
早く決めなければ『あれ』は自分を追ってくる。
トールは眉を潜めた。
曲がりくねった道には、大道りを照らす光は届かない。
その日まで自分が街燈がこれほど暖かいのものだとは思っていなかった。
いつもどおり、お決まりのコースで帰途の着く筈だったのに、今の自分がこの先何処かに辿り着けるかどうかも分からない。
息を整えながら滲んだ汗を拭き取ろうと手の甲で拭う。
「…ぁ……」
頬と顎に濡れた感覚を感じて触れば、手に血が付着する。
「…血…血だ……」
呆然と見つめれば、先程の衝撃がまざまざと蘇った。
■ 雫 ■
何処かで奇妙な音が聞こえていた。
耳を澄ませば水音と共にすすり泣きのような笑い声も聞こえてくる。
「…なんだろう……」
角を曲がって顔を出せば、大柄な男が地面に座っていた。
「どうしましたぁ?」
帰り道の途中で気を抜いていたトールは声を掛ける。
手に持った夕食用の肉の塊を抱えて笑いかけた。今日は給料日で、夕食をふんぱつしようと買い込んだものだった。
座り込む男の姿に怪我でもしたのだろうかと声をかけたのは、ちょっとしたお節介の気持ちからだ。
その時、これから起きる事など分かろうはずも無かった。
落ちていたのは、指。
真っ赤なインクに一滴垂らした白いインクのように、それは鮮やかに映えていた。
「…あ……」
思わず声を失った自分の喉からは、ひゅーひゅーと言う奇妙な音しか出ていかない。
後に下がろうとした足も凍りついたように動かない。
男は振り返った。
真っ赤に彩られた口元。
魔物の意志を秘めた瞳がじっとこちらを見ていた。
その手元には、首の無い胴体。
しかも切り取られた、小さな体だった。
最近、子供が辻々で殺される事件が相次いでいるのを、ふいにトールは思い出した。
―― …まさ…か……
嚥下する喉の動く音さえ大きく聞こえて、トールは胸の奥が冷えていくように感じた。
「だぁ〜〜れだぁ?」
小首を傾げるような幼い仕草の男の容貌は整ってはいたが、それが一層、薄ら寒ささえ感じさせた。
品定めするような視線が自分の顔に向けられる。
「キレーな顔だなぁ……きひッ」
「…ぁ…う……」
「けひひ…俺と遊ぼうよ〜〜」
男は無造作にかつて人間であった胴体を、まるでおもちゃを捨てるように投げた。
ビチャッっと音も立てて、『それ』が血溜まりに撥ねる。
小さな赤い雫はトールの頬を濡らした。
「…や…やだ……」
「けひッ! あそぼーよぉ〜〜〜〜〜」
グッとトールの腕を掴むと地面に引き倒した。
「わぁッ!!」
耳元で水の撥ねる音が聞こえて、耳に冷たい感覚を感じる。
頭を掴んだ手は予想以上に強く、濡れた地面に押し付けられて動けない。
男は愛しげに髪を撫ぜた。
「綺麗な髪ぃ〜〜〜〜〜」
無理矢理仰向けにすると、シャツを掴んで引き裂いた。
「や…嫌だッ!」
「いひひッ! ひゃぁッはあ!!」
「…は、離せぇっ!!」
「ぐぁっ……」
トールは思いっきり蹴りを腹に食らわすと、相手が腹を押さえて怯む。
その隙に地面を這って離れ、立ち上がった。
「誰かーッ! 助けてぇーッ!!」
トールは叫んだ。
気がついてもらえればきっと助かる。
そう思えば声も出た。
「…に、逃げなく…っちゃ…」
ふらふらと歩き出せば、遠くで叫ぶ声が聞こえた。
殺人鬼の声でない事を悟れば、緊張で震えていた足にやっと力が入る。
逃げられるだけ、離れられるだけ距離を置こうと懸命に走り出した。
一度だけ振り返った闇の中に、緑色の何かが見えた。
■境界線■
「ボク…助かったのかな……」
呆然としたまま地面に座り込み、顔の半面を汚していた血を拭う。
何かが追いかけてこないかと振り返ったが、何も追ってくる気配は感じない。
「さっき見えたの…何だったのかなぁ……」
まるで殺人鬼を襲うかのように覆い被さっていた、緑色の『何か』。
人だったのか、物だったのかは見えなかったが、助かった事には代わりなかった。
自分の居場所が何処だかわからなくって、トールは辺りを見回す。
見れば見るほど何処だか分からなかった。
「どうしよう……」
深い溜息を吐くと立ち上がろうと腰を上げた。
カツッ……
何かが硬いものにぶつかって弾けたような音が聞こえる。
ふと、トールはそちらを向いた。
「…ぁ……」
何かを振り切ろうとするかのように、トールは首を振る。
近づいてくる黒い影。
裂けてボロボロになった服から見える肌には、何故か赤いものが見える。
血だ…。
そう、直感した。
「み〜つけたぁ〜」
「いや…いや…」
「あそぼうよー…」
男はトールを掴むと抱きすくめ、ぺロッと頬を舐めた。
「けひひ…今度は逃がさないよぉ〜〜」
「嫌だ! 離してッ!!」
「あそぶだけだよお…いひッ…いひひッ」
「やーだ! 嫌だあああッ!!」
引き攣ったような声が自分の耳に響く。
腕を振って離れようとしても力が強くて逃げる事ができない。
「助けてぇ……」
「キヒヒッ…」
男がトールの首を掴むと、グッと力を入れた。
「ぅ…ぐッ……」
目の前が霞む。
段々、強くなる握力に意識を手放しかける。
「俺の〜…俺のコレクションー…ひひッ」
「これだけ世間を騒がせておいて、逃げられると思ってるのなら……俺たちも舐められたものだな…」
不意に声が聞こえて男は振り返った。
手の力が抜けて、トールは地面に転がる。
力無く四肢を投げ出して、トールは目だけで声のした方を見た。
「…あ……」
首を絞められて掠れた声しか出せない。
先程見えた緑色何かの正体がそこにあった。
緑色の着流しを着た男。
澄んだ夜空の下に立つ姿。
逆光で顔まで見ることができないが、長い髪が宙に舞っている。
細々とした町の灯は彼の顔を照らすことは無かった。
「お前の相手は、俺だ」
「大人なんかには用はないんだよおー…いひひ」
「俺も貴様に用は無い」
「あんたは小さくもないしなぁ〜」
男が言えば、いかにも嫌そうな声音で着流しの男は答えた。
「どちらにしろ、貴様に興味を持たれるのは心外だ」
言うや否や、気合の声と共に空を切るような音が聞こえる。
続く剣撃と叫び声を聞けば、自分の身が安全なのが分かってトールは瞳を閉じた。
安堵を感じた瞬間、意識が闇に落ちるのを感じる。
何処までも続く深い意識の海も、何故か怖くは無かった。
―― お礼…言わなくっちゃ……
思ったものの、疲労した体は動かない。
閉じた瞼も重くて開ける事が出来なかった。
境界線を踏み越えて、トールの意識は流されていく。
たゆたって、何処に行くのか分からない自分が目覚められるようにと祈りながら、トールは眠りの波に飲み込まれていった。
■END■
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