<東京怪談ノベル(シングル)>


【この広い世界で】



 ちょっとした宗教を信仰しているんだと、誤魔化す。
 大抵は盛り場だ。大きな焚火を囲んで、自家製の濁った酒のコップを煽りながらだとか、時代が進めば大衆酒場の隅にあるテーブルでだとか。

 敢えて簡潔に言うならば――と、俺は何かの内緒話をこっそりと打ち明けるかのように小声で語り始める。
 『そこ』には、祈りも救済も、罪も罰もない。
 幸せとは言いがたいが、なかなか悪いものでもない。
 無理矢理引きずり込んだりするつもりは無いから。
 どこかでまた見かけたら声をかけておくれ。

 そして俺は、コップの中身を飲み干した後で告げる。
 だから、さよなら。
 またいつかどこかで。

 「ヒト」との、親密で安定した一定の関わりを、俺はやんわりと避けながら存在してきた。
 それは何よりも、俺――ユイス・クリューゲル、と名乗る事にしている。ユイス。そう呼んでくれて構わない――が面倒を厭う事が主な原因の1つだが、それとは別に、もっと直接的な原因もある。
 ただ、それをヒトに伝える機会は永遠に無いのだろう。
 永遠に失われてしまった、ままなのだろう。

 だがしかし実際は、ヒトと関わる事を決して嫌悪している訳ではない。
 嫌悪する事などどうしてできようか? 彼らの存在を肯定し、生みだしたのは、他でもない己自身なのだ。愛と執着は、その根幹を等しくさせてはならない。衝動に駆られる事だけが愛情ではない、手を掛け甘やかす事だけが執着ではない。
「永遠の命? ハ! ンなもの要らねぇよ、こちとら明日のパンにさえ事欠く毎日さ。これが無限に続くなんざ、生き地獄以外の何者でも無いじゃねえか」
 いつか酒場で隣に座った男に、戯れで問うた言葉の応えがそれだった。
 兄ちゃん、この世にゃ、生きたまま片足突っ込める棺桶が1つだけあるンだ。何だか知ってっか? 結婚は人生の墓場、ってな!
 男は俺のコップに気前よく酒を注ぎながら、自分の女房がいかに豊満で、いかに口が悪いかを切々と語り、そしていかに…自分が家族を愛しているかをおどけた口調で話して聞かせる。
 相槌を打ちながら、俺は心のどこかで男を羨望している事に気がついていた。
 この酒場が閉まる時間になれば、男は悪態をつきながらも帰路を辿り、女房とやらに遅い帰りを叱られながらベッドに潜り込み、朝になれば大きな欠伸を噛みつぶしながら町工場へ赴く。
 皿の上にグリーンピースの山を築く幼い息子を窘め、女房の目を盗んで代わりに食べてやるかもしれない。尻の大きな若い娘のパートタイムにでれでれと顔を緩ませながら、定時になればまた家族のもとへ帰っていくのだ。
「なかなか悪くなさそうですよ、そんな暮らしも」
 苦笑まじりに、それでも率直な感想を男に述べた。
 男はにぃ、とヤニだらけの歯を向きだして満足そうに笑い、グラスの中身をぐいと飲み干した。

 自身の成り立ちとは、異えて創った。
 その自覚は有ったのだ、あの頃も今も、敢えて彼らが永遠の時間を生きる事が無いように、あらかじめ、終わりと共に始まりを創生した。

 それだけの事だと、俺は思っていた。
 長い間、ずっと。

††

「あなたは死者を哀れむ目をしている、ユイス・クリューゲル。それでは死者は救われない、終わりの後でどこにもたどり着く事ができない」
 流行り病に食い尽くされた、荒廃しきった村だった。
 鳥は堕ち、牛は痩せ、家畜という家畜が全て満足な乳を出さなくなった。
 生き永らえている一握りの村人達は都に降り、術に自信のある魔道士を連れて帰る。終わりの見えない病魔の原因が、何か自然界とは別の掟が絡んでいると考えていたからだった。
「悼む事と哀れむ事の差にすら気づかないと言うのか、――魔道士殿よ」
 屍を見れば判った。
 これは『我々』の関与するべき湾曲では無いと。
 理の範疇外から訪れたモノ達の仕業では無い、これは我々が成した世界の内で起きた淘汰だ。
 閉鎖された村に有っては不自然すぎる病に映るだろうが、それでもこれは――哀しい事に――予定調和の1つ、だった。
 俺を「魔道士」と呼ぶ老いた男は、目の前に横たわる屍の向こうからじっと俺を見据え、そして――言葉を続ける。
「あなたには判っている筈だ、だから――あなたは今この瞬間、ココに留まる資格はない」
「――なんてこった」
 なんてこった。
 俺は、声に出して1度、そして心の中でもう1度、呟く。
 集まった村人達は、僅かな間のみ、俺に対して不審の眼差しを向けてはいたが、老人が目を閉じ小さく哀悼の呪を唱え始めると、やがて再び病死体を見下ろしては涙を零し始めた。
「………」
 ゆっくりと、大きく。
 息を吐きだす。
 回りを見倣うように眼差しを落とした俺だったが、押し殺す嗚咽やしゃくりあげの声が居心地悪い。自分だけが、少なくともこの村に於ては異端である――それをありありと、感じたからかもしれなかった。
 ヒトはいつか命の灯を消す。
 どれほど死を遠ざけたいと願おうと、それぞれの個体を個体として繋ぎ止めておくための意志やエネルギーはいつか摩耗し擦り切れて、土に還っていく。
 土に還ったエネルギーは、自然の中で尚も存在し続け、大地を見守って行く事になる――そこまでの道程はあまりに遠すぎて、『ヒト』には理解しえないのかもしれないが。
 彼らは、俺に、どうして欲しいのか。
 俺が『古代人』だと知れば彼らはどうするのか――畏れるか。敬うか。限り有る存在として産み落とされた自らの生を呪い、俺に刃を向けるか。
 そのどれでも無いような気もしたし、そのどれでも良いような気もしていた。
「そして土に還る幸せを、主よ――あなたに感謝いたします」
 老いた男は呪を締めくくった。
 涙ながらに印を結ぶ村人に横目で倣い、俺も指先で印を切る。
 何の理にも触れる事のない、ただ幾何学的なだけのマーク、だった。

†††

 その村で明かした夜にも、村人が1人、息を引き取った。
 俺達をこの村に連れてきた大柄で仏頂面な男の一人娘で、彼女は高熱で最期には自分の父親すらも良く判らなくなっていた。
 苦悶を耐え、生への執着を最後まで捨てる事無く少女は戦い、そして甲斐なく死んでいったのだ。

 娘が息を引き取る数刻前、俺はただ、ぜえぜえを咽喉を鳴らして胸を上下させる彼女の腹をじっと見下ろしながら、ただ1度だけ、その額に手を翳した事があった。
 どうしてだかは判らなかった。
 ただ、その部屋にいる数人の村人達――彼女の父親である男も含めて――や老いた男、それに幾人かの得体の知れない魔道士達とは違う、『俺にしかできない事』がある事実だけを、ただ自覚していた。

――苦しいです
――早く向こうにたどり着きたい
――お父さん
――もう太陽を見る事ができないかも
――水がほしい
――音が遠いのすごく

 一瞬の内に『流れ込んで』来た生々しい感情の切れ端達を俺はその指先から受けて、彼女の命の果てがそう遠くはない事を知る。
「――なりません」
 傍らで両手を合わせながら、ただ静かに少女へ向けて祈りを捧げていた老人が――その目を開ける事もしないままで、俺に言い放った。
「なりません。・‥…あなたは、ただ1つ彼女が持つ尊厳と証すら、その手で踏みにじるおつもりなのか」
「―――、彼女を…」
「あなたがそれをするのは、間違えた行為である」
 迷うならば、それをするべきではない。
 老いた男はそんな風に言葉を続けた後、じっと押し黙ってしまった。
(見透かされてる、と言うべきか)
(ヒトではないから)
(そういう問題では、なくて)
 しゃらり。
 踵を返した時、纏った服の中でゴールドが僅かに鳴った。
 老人と男――その時始めて男は、自分の娘から目を逸らして俺を見た――はちらりと視線をこちらに投げて寄越したが、誰1人言葉を発する事は無かった。
 同調できぬ者は去ね。
 彼らの背中が、そう告げている様な気がした。

††††

 山の空気は思ったよりも冷たくて、俺は自分の吐いた息に煙った黒い空を見上げた。
 都にいる時よりも、明滅する星達がくっきりと鮮やかに目に映る。
 ほとんど空の黒に溶け入ってしまうくらいの小さく遠い星の、そらに向こう、ずっと果てまで。
 それは俺達が創造した、大きな大きな――そう、これは、箱庭にすぎないのだ。
「――迷うかよ。今更」
 毒突く様に呟いたが、それすら白くなって掻き消えてしまうほどの澄んだ空気だ。俺は上着の前を合わせながら両腕を組み、ただじっと、息が霧散していく虚空を見上げていた。

 あの時――少女の汗ばんだ額に手を当てた時、俺は何をしようとしたのか。
 熱に魘される病人の意識を読み取りたかったからでは無いだろう、とは…思う。今まさに闇に沈もうとしている風前の灯を読んだ所で、今までに何度繰り返してきたか判らない自己嫌悪と自問の渦に巻込まれて行くだけだ。
「―――」
 それでは、現に――今この瞬間、俺の中に渦巻いている、焦りにも似た揺らぎの感情は何だ。
 彼女の心を読んだ後で、己は何をしようとしたのか。
 何だと、言うのか。
「・‥…――阿呆くさい」
 たどり着いてはいけない答。
 そこにたどり着けば、もう2度とは戻れぬ答があった。
 そしてそれを有耶無耶にしてしまう為に呟いた言葉は、些か怒気を孕んでいた様にも思う。
 夜露にしっとりと濡れている芝の上にごろりと転がった。両腕は頭の後ろ、足は大の字に放り投げて。不謹慎。俺の呟きと次第を見留めれば、ヒトならそう窘めるかもしれなかった――だが。
「終るものは終る。果てるものは果てる――そう創ったのは俺で、そうやって終わり果てていくのは、ヒトだ」
 テントの中、少女の命がゆらりと揺らぐ。
 今にも掻き消えてしまいそうだった炎が大きく揺らいで、その朱を鮮やかにさせるのを――俺は、視界の端にでも映っているかの様に一瞥し、そして目を閉じる。
 くぐもった喧騒が大きくなる。男が必死に少女の名を呼んでいる声が聞こえる。
 何を思う?
 何を思い、何を厭い、そして何を――
「――ああ」
 そして、闇。
 男の声が一際高くなり、怒号の様に空気を震わせ、闇に溶けた少女の命をさぐりあてようともがき苦しんでいた。心が。
 何だっていうんだ。
「――何だってんだよ…畜生…!」
 目尻に、ひんやりと冷たい筋を感じて瞬いた。
 ちらちらと光る1番大きな星をただ見上げるままで、ただ吐いた息が白く、そして熱い事だけを感じていた。
 ―――涙。
 一筋だけ、ただのそれだけ零したそれは、目尻から蟀谷を通り、そして僅かに髪を濡らした。
 ただそれだけで、それだけの事だった。

†††††

 根の深い流行り病だろうから、まだまだ生き物は死ぬ。
 しばらくこの土地を離れなければならないだろうと言う、俺と老人の共通の見解に、残された村人達は深い深い――溜息を吐く。
「・‥…この村で、この土地で…ずっと生きてきただもの」
「んだ。今さら離れる事なんてでぎね」
「魔道士様方、どうか手厚く葬ってやってぐれえ。わしの、たった1人の娘だっただァ――」
 涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、少女の父親がぐじぐじと言葉を継ぐ。何も言葉を返さない俺を、老いた魔道士はただ見上げているだけだった。

「ヒトの命を量るものさしを創った方々が、いまも存在しうると――耳にした事があるのです」
 山を下りる、長く細い道すがら。
 数日前はこの山道を共に登った老人がぽつりと呟いた。
「ものさしがものさしで有り続けるには、その尺度を――定められた寸法や質量を、最後の最後まで違えない事、それを守る事のみなのです」
「俺は」
「あなたはあの時、彼女のものさしを違えようとした。――彼女を生き延びさす事も、生き延びる苦しみに終止符を打つ事も、あなたには許されていない筈だ。あなたの傲慢に、ヒトを曲げてはならぬ」
「・‥…」
 さく、さく、と小気味の良い音で土を踏む。
 足取りは重く、得体のしれない疲労感を纏っているというのに。
「これ以上、ヒトがヒトである事を――損なわないでください。命は産み落とした者の所有ではない。産み落とされた者が、ただ1つ…己というモノを保つために与えられた光、なのですから」
 目を上げた。
 緩やかに下る坂道が見え、その両脇に茂る小さく儚い小花が見え――それを取り囲む様に森は茂り、空は青かった。
 美しかった。
「あなた方が私達にお与えになった唯一の救いを、あなた方自身が奪う事はなりません。果てある者こそ美しい、果てあるからこそ、その美しさを誇ることができる」
 己が成したこの世界の、その美しさに心打たれる。
 この掌から生まれた世界の理が、俺の手を離れたその瞬間から、この美しさの為に生き、摩滅し、そしてそれを何度も何度も繰り返してきたのだ。
 もう、世界はとうに『所有物』たりえない事を肌で感じた。
 与えたものを奪う事も、与えた事を恥じる事も、全てが罪である事を知った。
「――と、いつか…古代の方に生きてお会いする事があれば、申し上げたいと思っておりましてな。耄碌したこの身が朽ちるまでにその願いは叶うのか…難しい所ですのう」
 老いた男は別れ際そう言って笑い、ゆっくりとした足取りで人込みの中へ消えていった。

 ただ慈しむだけの世界ではない。
 あの日歩き出した赤子はいつまでも赤子のままではいられずに、自らの手を伸ばして果実を貪り、両の足で立つ事を覚えていたのだ。
 俺には、文字通り、世界が鮮やかに色立つ事を感じていた。
「――生きようか」
 己に向かって問う。擦れ違うヒトの背中が、ひどく愛おしいと思った。
 ヒトと共に、生きようか。
 すでに子供のままではなくなって、独り立ちしたこの世界で。

 男の背中が見えなくなってから、俺は彼とは反対の方向へ歩み始めた。