＜PCシチュエーションノベル（ツイン）＞
明日見る夢
SCENE-[1] 夢の中の人
遠く遠く、
重い霧の向こうに霞んだ景色。
保存状態が悪く色褪せた絵画のように、かつては鮮やかだった記憶がところどころ剥げ落ち、そこを補うために新たな絵の具が用意される。
やりきれぬ過去を塗り替えるための思い出は、明るい色彩の方が良い。
そう思って絵筆を手にする。
だが、掠れた風景の隣に唐突に置かれた眩しい色は、やはり少しも周囲と馴染みはしない。足りない部分を補っているつもりで、結局は両者の差異がより一層きっぱりと浮き彫りになるばかり。
崩れた記憶は二度とは同じように組み上がらず、新しく手に入れた色合はどれだけ美しくとも過去とは共存しない。
それぞれは、別のもの。
互いに干渉し合わない、二枚の絵。
それをイーゼルに載せ、己の左右に並べ立てて、懐かしさと愛おしさの間で、眠る。
今宵夢に見るのは、いずれの心象風景か――――。
「ん……」
オズがベッドの上で一つ寝返りを打ち、彼の藍の髪が白いシーツの波間を泳いだ。藍に咲いた小花は、カーテンの隙間から射し入る澄明な朝陽を受けて揺れていた。
珍しく今朝はオズより先に眼醒め、二人分のホットコーヒーを用意していたエンテルは、夢現の境で身じろいでいるオズを一瞥してにっこり微笑んだ。
先に起きるというのも、悪くない。
いつもは、気が付いた時にはオズはすっかり身支度を済ませ、朝食を前にエンテルの起床を待っている。
「いつまで寝てるつもりだ？」
と溜息交じりに言われることはあっても、
「まだ寝てるつもりなの？」
そう自分から言ったことは、ほぼ、無い。
別段先手を取りたくて早く起きる努力をしたわけではないが、今日は何だかぱっちりと眼が開いた。上げた瞼をもう一度下ろしたいという欲求が湧くこともなく、エンテルはそのままベッドを脱け出し、ちらちらとオズの様子を見ていた。
（ふぅん……オズって結構、睫長い……のかな？ 男の人にしては。今までそんなの、気にしたことなかったけど）
相手が寝ていると思うと、無遠慮に眺めることが出来る。
（あ。耳の後ろにホクロがある。全然気付かなかったなあ）
そんなことに感心しながら、大きめのマグカップを二個準備して、コーヒーを注ぐ。エンテルのカップには、ミルクもたっぷりと。こうやってミルクを混ぜた方が栄養価が高く、胃にも優しく、風味も増すと思うのだが、オズは要らないと言う。
オズは、エンテルのことに関しては往往にして柔軟な対応をするのだが、その他のことについては、いったん己の判断で「余分だ」と規定したが最後、驚くほど寛容さを喪う。そしてその決断を翻すということをしない。
エンテルも、その理由はオズから説明を受けて理解している。つまりは戦場に於ける優柔不断は間違った決断を行うよりもなお悪いという話らしいのだが――――。
（何て言うか……オズも私も騎士だし。言ってることは分かるんだけど……）
コーヒーにミルクを入れるかどうかの判断に、戦場って関係あるのだろうか。
エンテルは頸をひねり、ふわり鼻先をくすぐるコーヒーの香りに口許を緩めた。
その時、
「……んん……」
オズが手の甲で眼を擦り、小さく声を上げた。
「あ……、オズ、コーヒーが入ったから、そろそろ」
「アミークス……」
そろそろ起きて、と言おうとしたエンテルの語尾を、オズの洩らした寝言が遮った。
アミークス。
……アミークス？
聞いたことのない言葉だ。見知らぬ単語。聞き慣れない発音。誰かの、何かの名前だろうか。
エンテルはコーヒーをテーブルの上に置いたまま、オズのベッドに近寄って行った。
「……ねえ、オズ。アミークス、って？」
オズがまだ覚醒していないのを承知で、訊いてみた。
エンテルは、一度気になったことは納得するまで深追いする質だ。分からぬままに放り出しておくのは気持ちが悪い。オズの肩を揺すって、返辞を待った。
「……アミー……クス」
「オズってば。だから、アミークスって？ 誰かの名前？」
「……ん……、大切な……」
「大切な？ 大切な……何？」
「……守れなかっ……、……初めての……」
大切な。
守れなかった、
初めての――――？
（それって、やっぱり……誰かの、名前？ 大切な、でも守れなかった、初めての……人？）
どくん、と、エンテルの鼓動が一つ、跳ね上がった。
「……アミークス」
もう一度オズが朧な夢の裡に呟き、その表情が悲しげに歪んだ。
SCENE-[2] 重ならぬ色彩
「……何を怒ってるんだ？」
オズがコーヒーを口に運びながら、テーブル向かいのエンテルを見遣った。
「怒ってなんか」
エンテルは両手でしっかりとマグカップを包み込み、オズから眼を逸らした。
「怒ってなんか、ないよ。……ないけど」
「けど？」
エンテルは一口、ミルクコーヒーをゆっくり飲み込んでから、ほんの少し唇を尖らせた。
「ちょっと、……気になっただけ」
「気になったって……、ああ、俺がなかなか起きなかったから、それで」
「違う」
言下に否定されて、オズは苦笑した。
一体、自分は恋人の機嫌を損ねるどんな失態を演じたか。
確かに今朝は珍しくエンテルよりも長寝をして、彼女の声でついさっき眼醒めたところだ。それが拙かったのか。それともまだ頭の隅がぼんやりと寝起きの気怠さを引きずっているせいで、エンテルの望むような言動を取れなかったか。
「……エンテル」
呼びかけて、オズがエンテルに向かって手を差し伸ばした瞬間、
「オズ。アミークスって誰」
唐突に、彼女のクリスタル・ブルーの眸に真正面から射抜かれた。
「……え……？」
一瞬、何を問われているのか分からなかった。
アミークス？
その名を――――どうしてエンテルが知っている？
「……何の……話だ？」
「はぐらかさないで。……知り合いの名前、でしょ？」
「それは」
知り合いと言えば、まあ、そうかもしれない。
但し、ヒト、ではないが。
オズが返答に詰まって溜め息吐いたところへ、すぐさま、エンテルの声が飛んできた。
「オズ、寝言で言ってたんだよ。アミークス、って」
「寝言で？」
オズは思わず口許を左手で蔽った。
同じ室で寝起きしていれば寝言を聞かれるということも、それはあるだろうが、改めてその事実を突き付けられるというのは、どうにも居心地の悪いものである。何しろ、寝言を発した当人は、自分が何を口走ったのかなど全く憶えていないのだ。「言った」と告げられれば、否定は出来ない。
それに、エンテルが「アミークス」の名を知っているということは、
（言った……んだろうな、寝言で）
今更、そんな名を。
眠りながらにして紡ぎ出したか。
オズは一度視線をベッドへ投げ、まだそこに己の夢の残滓が在りはしないかと、眉根を寄せた。
「……オズ」
テーブルに身を乗り出したエンテルが、オズの袖を引いた。
「ああ……」
「ね、アミークスって、誰なの？」
「……エンテルが、気にするような相手じゃない」
そう言って、オズは乾したコーヒーカップを置くと、席を立った。
――――アミークス。
彼の、とも、彼女の、とも言えないその名前は、確かにオズのかつての知り合いのものだ。
エンテルと出逢う前、自分以外の誰をも信じられなかった、孤独な少年時代。
その時期に、唯一心許せた存在の名。
他でもない、オズが与えた名だ。
ジュカに伝わる古代語で「amicus」と綴るその言葉があらわす意味は、「友」。
少年は、己と伴に日々を過ごした優しい木を、そう呼んだ。
砂漠などに於いてその能力が重宝されるため、常に人身売買の危殆に瀕している種族、ジュカ。特にまだ力弱く捕獲されやすい少年少女は、ジュカを売って儲けようと企む乱獲者の標的になりやすい。オズもまたその一人だった。
そんな彼を己の裡に匿い、暮れてゆく陽を並んで眺め、眠り、心地好い風の薫りを頒け合った木。アミークスは、結局、少年を守るために楯となり斬り倒され、その一生を終えた。
オズにとっては遠く懐かしい、そして二度とは繰り返したくない記憶である。
隠しておきたいというわけでもないのだが、何となく、わざわざエンテルに話し聞かせるようなことでもないように思う。
しかも、その思い出をこの年になってまだ夢に見て、寝言にアミークスの名を呟いたなど、威張れたことではない。我が事ながら、女々しいな、とさえ感じるのだ。とてもではないがエンテルに詳細を説明する気にはなれない。
そういう過去も、あったのだと。
己の中でだけ、懐かしんでいればいい。
心の片隅が少し軋むのも、あの頃の痛みが知らず甦るのも、エンテルとは無縁のことだ。
愛しい存在が今そばにいるからこそ、自分自身の力で乗り越えるべき傷というのもまた、あるのだから。
SCENE-[3] 夢の答え
エンテルは、ベッドの上に坐り込んだまま、「そろそろ出掛けよう」と声をかけたオズを振り向きもせず、黙していた。
明らかに、気分を害している。
原因ははっきりしている、オズがアミークスのことを頑として釈明しようとしないからだ。またしても、「優柔不断は間違った決断を行うよりもなお悪い」論理が彼の意識に擡頭したらしい。
（……誰なのよ、アミークスって）
その思いが、エンテルの胸の中でふつふつと沸いている。
大切な、守れなかった、初めての、と来たら。
その相手は。
（女の子、って考えるのが自然だよね）
アミークス。
エンテルの知らない、オズがまだエンテルと巡り逢う前の、近しい存在。
女の名にしては随分と珍しい気がするが、それはヒト族であるエンテルだからそう感じるのであって、ジュカにとってはさして奇異な名ではないのかもしれない。
ジュカとしての記憶。
ジュカとしての生活。
エンテルの知らない、オズの世界。
オズと出逢って行動を伴にするようになってからもう永いが、それでも、出逢う前の彼のことは断片的にしか知らない。オズは、あまり昔のことを語ろうとしない。愉しい思い出でないから話したくないというのは、分かる。エンテルも、似たり寄ったりの孤独な過去を抱えている以上、その点について強くは押せない。
（でも……）
知りたい。
まだ知らないオズを、知りたい。
どうでもいい相手じゃないから、一番身近な人だから――――きっと、一番、大切な人、だから。
知りたい。
「……オズ」
エンテルが、感情を抑えた声を発した。
呼ばれて、立ったまま室のドアに背を凭せ掛けていたオズは、エンテルの坐っているベッドに歩み寄った。
エンテルはおもむろにベッドの上に膝立ちになり、真っ直ぐオズと向き合うや、
「眼、閉じて」
何かを決意した表情で、ぐっとオズの衣の胸許を掴んだ。
「眼？ エンテル、一体」
「いいから、閉じて！」
「エンテ……」
眼を閉じろと言うエンテルの言葉に、オズが従うその前に。
オズの唇に、エンテルのそれがまるでぶつかるように勢いよく触れた。
「…………！」
接吻けているというよりは、押し付けているというのが正しいようなキス。
エンテルの眦は赧く染まり、オズの衣を引き寄せる手指の先が震えている。
あまりにも突然の事態に、オズはエンテルの体を抱き寄せることも忘れた。
エンテルは、数秒の後、ぱっと唇を離すと、
「……お……教えて」
揺れる声で言った。
「……エンテル」
「教えて！ ……気になって……仕方ないの。知りたいの。だから、教えて」
――――アミークスって、誰？
エンテルの眼が、オズにそう問いかけていた。
「それを……聞き出すための、キスか？」
オズがエンテルの隣に腰を下ろし、はあっと天井を仰いで息を吐いた。
「そ、そういうわけじゃ」
エンテルが、紅潮した頬を隠すように、俯いた。
「そういうわけじゃ……ないよ。……キスは、したかったから」
「したかった？」
「お……おかしいっ？ オズに、私からそうしたいって思うのって、おかしいこと？」
エンテルは耳朶がじんじんと痺れるほど熱くなっているのを覚えながら、羞恥心を誤魔化すように大きな声を上げた。
そんなエンテルを横眼に見、オズはふっと口許に微笑を添えた。
「いや……、おかしくはない。むしろ、良い傾向だな。特に、俺にとっては」
そう言い、それから少し間を置いて、
「……アミークスは、俺が大切に思っていた木の名前」
オズは、エンテルの手をそっと握った。
エンテルは、憑き物が落ちたような顔で、オズを見上げた。
「木……？」
「ああ。ずっと昔、いつも俺と一緒にいてくれた木。俺が勝手に、アミークスって呼んでた。……友達、って意味なんだ、その名前」
「……友達……」
「そう。だからエンテルが気にするようなことじゃないって言っただろう。幼い頃に木と遊んだ思い出を、夢に見て寝言を言ったんだと思う。それだけだ」
これでこの話は終わり、とでも言いたげに、オズはベッドから腰を上げた。
「分かったら、本当にもう出掛けるぞ」
荷を片手にドアに向かうオズの背をみつめ、エンテルはオズの友達だったという木を脳裡に思い描いてみた。
いつも一緒にいてくれた木。
オズの言葉が、耳に残って離れない。
大切な、守れなかった、初めての、友達。
懐かしくて、そして悲しい、思い出。
（アミークス、って寝言に呼んだ時のオズの顔……少し、苦しそうだった）
エンテルは、無理矢理にオズの口からその一事を聞き出したことを、僅かに後悔した。
知りたいからという好奇心ゆえに、オズを傷付けたかもしれない。
（……でも）
「オズ」
エンテルはオズの後を追ってベッドを降り、彼の背に向かって笑いかけた。
「私が、一緒にいるから。ずっと、一緒にいるからね！」
その声に、オズが振り返った。
少し驚いたような、
けれどどこか嬉しそうな、
優しい、
眼をして。
――――遠く遠く、
重い霧の向こうに霞んだ景色。
崩れた記憶は二度とは同じように組み上がらず、新しく手に入れた色合はどれだけ美しくとも過去とは共存しない。
それぞれは、別のもの。
だからこそ。
今度夢に見るのは、きっと――――。
[明日見る夢／了]
|
|
