<東京怪談ノベル(シングル)>


樹上追想



 高いところに登るのが、好きだ。
 木の上、崖の上、塔の上。
 どこでもいい。
 足場が悪くて、下からの視界が利かず、静かなところなら尚更いい。
 追っ手を気にせず、人の眼を気にせず、喧噪から遠く、深呼吸できる場処。
 そういうところが、好きだ。


 少年は、葉の生い茂る高木の、枝分かれしている木の股に腰を落ち着け、その太い一枝に背を預けて瞑目していた。
 頭の後ろで手を組み、こうして瞼を下ろしていると、木々の梢を打ち鳴らし葉をざわめかせる風の音だけが全身を包み込む。
 地に根を下ろし、伸びやかに成長し、今こうして一人の少年にゆりかごを与える大樹。
 少年はこの高木を、「アミークス」と呼んだ。
 木は、少年に語りかけはしなかったが、もし植物にも心というものがあったとしたら、アミークスは彼を「オズ」と呼んだだろう。
 オズ・セオアド・コール。
 それが、此の世に生まれ落ちた時に与えられた、少年の名だった。
 だが、その名を呉れたのが誰なのか、オズ自身も知らない。
 気が付いた時には周囲からそう呼ばれていたし、オズと呼ばれたらそれは自分のことなのだと認識できるだけの下地がすでに出来ていたのだ。
 だから、自分の名について気に掛けたことはない。

 好きなように呼べばいいさ、大体、あんた達にとって「オズ」なんて名に、意味はないだろう。

 「オズ」はきっとコードネームのようなもの。
 「藍の髪に白い花を咲かせるジュカの童子」を指す一単語。
 固有名詞というよりは、数字に近い。
 一応の個体識別語。
 譬えるなら、獣の頸に無遠慮に引っ掛けた真鍮製のタグ。
 「ジュカ」も似たようなものだ。
 その髪に花を咲かせて生まれ来る特異な種族、ジュカ。
 彼らは――――もちろんオズ自身も含め――――殊、砂漠に於いては、容姿の佳麗さと持ち合わせた能力ゆえに珍重され、商品として人身売買されることの多い一族である。
 捕まったら、売られる。
 そういう世界で、オズは育ってきた。
 いや、誰かに育てられたという憶えがない以上、生き抜いてきた、と言った方が正しいのかもしれない。
 生みの親を知らず、育ての親を知らず、その場その場で手を貸してくれる一族の誰かに支えられつつ、何とか今まで生き延びてきた。同じ種族だからと気を許したら、その当人の代わりに商人に売られそうになり、必死で逃げたこともある。
 誰を信じていいのか、分からない。
 だったら、いっそ誰も信じなければいい。
 最初から総てを疑ってかかったなら、裏切られたと後で歯噛みすることもない。
 捕縛されて自由を奪われ命の危機に晒されて初めて、謀ったな、と嘆いたところで後の祭りだ。
 純粋に他人を信じられることは、此の世界では美徳ではないと知った。
 狡猾と言いたくば言え、そうでなければ生きられぬ場処も、種族もあるのだ。
「……アミークス」
 オズは、右腕を伸ばして、手近な細枝に触れた。
「どうした? 今日は、落ち着かないのか……?」
 返辞など返って来ぬのを承知で、オズはアミークスに話しかけた。
 時折、こういうことをする。
 オズにしてみれば、ヒトより木の方が余程、伴に生きるに足るだけの存在だと思えるからだ。無論、言葉や身振りによる交流は出来ない、それでも――――触れ合っているだけで、心が安らぐ。ジュカ乱獲者の眼からオズを隠してくれ、安全な寝床を与えてくれ、時が満ちればアミークスの実は食用ともなる。木の内部で蠢く生命の鼓動は、たった一人、孤児として毎日を暮らすオズにとってあたたかい生の証でもあった。
 そのアミークスの様子が、おかしい。
 オズは、直感的に、思った。
 何がどう違うと言われても困るが、何となく木の表情が強張っているように感じる。
 陽光はもう暫くもすれば完全に姿を消し、宵闇が訪れる時刻。
 いつもなら、しめやかな夕風を吸って、木は笑っているかのような芳香を発散させる。
 それが今日は、風に心を解放するどころか、頑ななまでに身を縮ませているのだ。
 (……何だ……?)
 オズが頸を傾げつつ身を起こしかけた時、

 ドゥンッ

 木が大きく揺れた。
 突風による震動ではない。
 これは――――、
「矢……ッ?」
 慌てて高枝から下を見下ろしたオズの眼に、木の幹に突き立った太い矢が映った。弩の矢だろうか。如何にも頑丈そうである。それが、深く木を貫き、幹に大きな罅をばりばりと拡げているではないか。
「な……、一体、誰が……!」
 状況を確かめるため、枝から飛び降りようとしたオズの衣に、アミークスの枝が引っ掛かった。
 オズはそれを振り払おうと身を捩ったが、どうやっても巧く外れてくれない。小枝の先が絡み付いて、無理に飛び降りればそれらを幾本も割り折ってしまいそうだった。
 もしかして、木が俺を止めているのか。
 そんな気がした。
 ドン、ドン、と立て続けに矢が木を襲った。
 五本目の矢は上方に向かって上昇して来、オズの乗っている枝に突き刺さった。
 オズはきつく唇を噛みしめ乍ら、そのまま時を待った。
 七本目の矢が刺さった後、
「……なんだ、いねえのか」
「おっかしいな、このあたりで藍の髪のジュカを見たって噂だったんだが」
「所詮噂に過ぎなかったか?」
「大体、こんなに葉の茂った時期に、木を棲処にしてるジュカをみつけようってのが間違いなんだよ。手間かかってしょうがねえ」
「だよなァ。一本一本、木に登って確かめてるヒマはねェし。じゃ、木は諦めて、向こうの岩場に行くか?」
「そうするか……」
 ざっと数えて、五、六人ほどの男衆が、弩や斧、鎖を片手にアミークスに近寄って来た。
 一目で、ジュカ狩りの集団だと見て取れた。
 オズは、己の俊敏さと剣の扱いには多少の自信があったが、いくら何でも大人の男六人を相手にして勝てるわけはない。ここは、このまま隠れているのが賢い。
 息を潜め、オズは木と意識を同化させた。
 男達はすぐ去って行くかに見えたが、中の一人が急に、
「おい。折角これだけ矢を撃ち込んだんだ、この木、倒してから行かねえか?」
 そう言って、罅割れた幹に重そうな斧をあてがった。
「ああ? なんでまたそんな面倒なこと」
「いや、スッキリするかもしれねェぞ。こう、バリバリ音たてて倒れてく大木を見るのはよォ。ジュカの隠れ家を、一つ壊すことにもなるしなァ」
「はは、ストレス解消に最適、ってか?」
 その言葉が終わる前に、ガツッと烈しい衝撃がオズに伝わった。
 二度。
 三度。
 四度。
 木が、めりめりと慟哭し、大きく傾いた。
 (や……やめろっ!)
 オズの心の叫びは、届かない。
 (やめろ、やめてくれ! アミークスを殺すな!)
 もう、飛び降りてしまおうかと思った。
 だが、今となってもやはり、木の枝はオズを放さなかった。
 やがて――――重心を喪った木は、オズをその裡に抱きしめたまま、轟音と伴に地に身を横たえた。枝と葉に守られて、オズは体のどこを打ち付けることもなく、添い臥した。
 男達は高らかな笑声を曳いて立ち去り、後には薄闇に頽れた一本の木と、最期まで木が守ろうとしたジュカの少年だけが残った。
「……どう……して」
 オズの眦から、ゆっくりと一筋、涙が伝い落ちた。
 噛みしめ過ぎた唇は、血に濡れていた。
 悔しくて、悔しくて、悲しくて、たまらない。
 どうして。
 どうして、こんなことになるのだろう。
 何も、していない。
 木は少年を守ろうとしただけだ。
 少年はジュカとして生まれただけだ。
 それだけなのに。
「……違う、な……」
 オズは、震える声で呟くと、ぐいと手の甲で涙を拭った。その琥珀に輝く眸に、怨の色が灯る。
 泣き言を言っていても、始まらない。
 何もしないから、いけないのだ。
 どうせ世は理不尽に出来ている。
 大切なものを守れないのは、守れない方が悪いのだ。
 木はオズを守った。オズは、木を守れはしなかった。
 それが悪だと言うのなら。
「強く、なってやる」
 オズは身を立て直し、木の中から這い出た。
 ただ隠れていただけなのに、息が荒い。動悸が烈しい。
「俺が強かったら、……こんなことにはならずに済んだ」
 悄然と倒れ込んだ木。
 後はもう枯れて地に還るしかない木。
 生まれて初めて、オズが名付けた存在。
 ジュカの大老が教えてくれた言葉、「amicus」。
 それは「友」を意味する古代語。

 初めての、友達――――。

「……もう、逢えなくなるな」
 オズは握手をするように木の枝を軽く握り、それから何を思い付いたか、倒れた木の上に体ごと投げ出した。
 深く息を吸って、吐いて、体内で静かに気を練る。
 そうして、体温を失くした木に向かって、己の生命力を送り込んだ。
 途端。
 葉はその緑を増し、蕾を付け、枝々は生気を取り戻した。
 闇に蔽われた地面に、新緑が咲いた。
「今だけ、だけど……」
 オズは木に囁きかけた。
 ジュカは、自分の生命力と引き換えに、草花の成長を促す能力を持っている。逆に枯死させることも出来るのだが、今オズの能力は、斬り倒された木に末期の花を与えるために使われた。
 無惨に砕かれた木は、この先どこからも栄養を得ること叶わず、ひとときオズの力によって命を繋いでも、もう生き返ることはないだろう。
 だからこれは、最後の晩餐。
 少年と木の、二人だけの、訣れの儀式。
「……さよなら……」
 オズの声が、葉の上にこぼれた。


 俺は、高いところに登るのが、好きだ。
 木に登るのが、好きだった。
 本当に、好きだったんだ。


[樹上追想/了]