<東京怪談ノベル(シングル)>
斯くも日常の風景
白山羊亭の治安は、シグルマによって守られていると云っても良い。
シグルマは静か―――ではないにしても、それなりのルールを守って酒を飲んでいる。ルールも細かく云えば色々とあるだろうが、結局の大元は一つだ。―――曰く、“店に迷惑をかけない”ということ。
そのルールを守ってこそ、楽しい時間が遅れるというものなのに。
どうやら、今宵もそんな簡単なルールも守れない無粋者が居るようだ。
―――本当に、それくらい判らないものだろうか。
シグルマは一杯やりつつそんなことを思った。先ほどからルディアの「何とかして」という視線を痛いほど感じている。確かに、今シグルマの座る席の隣のテーブルで騒いでる男はいただけない。自分は強いだのと豪語して騒ぐだけなら良いものの、他の客や店のものに危害を加えてはダメだ。暴れるわけではないのでまだ大人しいものだが、文句ばかり大声で喚いていれば店の雰囲気も悪くなる。
シグルマも勿論そう思うが、何だか最近それを収める役はいつも自分に回ってきている気がする。頼りにされているのは良いのだが、何となく釈然としない。だが、今更そんなことを云ったところで期待の眼差しが途切れるわけもなく。
シグルマはしゃーねーな、とばかりに腰を上げ、その男の元へ向かった。
その瞬間、ルディアの表情がぱっと明るくなったのは云うまでもない。周囲の他の客も、何処かほっとしたような表情になった。
「よう。一緒にどーだ」
一人なんだろ?と。シグルマは自然なフリを装って声を掛けた。
一瞬、話し掛けられたその男は「ああ?」と睨んできたが、手ごたえのある人物だとシグルマを見込んだのか「そうかそうか」とすぐに気を良くして席を勧めてくる。
(人を見る目はあるらしいな)
もちろん、シグルマは酒に強い。それどころか飲めば飲むほど調子が上がる。そして、冒険談も数多く持っているから酒の肴には困らない。だからこそこの役目を買って出ているのだ。この男は、他人に迷惑を掛けつつもそんなシグルマの能力は見込んだらしい。どうせそのシグルマを潰して自分が上に立とうとか思っているのだろう。
想像通り、その迷惑な客はシグルマに酒を勧めて来た。
「アンタ話の判るヤツだな。じゃんじゃん行こうぜ」
どんなに酒を勧められたところで、潰れるような柔な身体はしていない。寧ろ、相手を乗せて逆に潰させることこそシグルマの真の目的だ。しかしここでシグルマ本人が問題を起こしては本末転倒。酔い潰して、大人しくさせる。それがいつもシグルマの取る行動だった。店に迷惑をかけてはいけない。酒と自分に相手の意識を集中させることがコツだ。
今までの迷惑な客がシグルマ一人にかかりっきりになったことで安心した周囲が、シグルマの酒の強さを間近で見られることと相俟って囃し立てる。それがここに集まる仲間たちのムカつくところでもあるし、シグルマの気に入ってるところでもある。
(本当に、調子の良いヤツらだ)
―――そして、一時間後。
テーブルに顔を突っ伏して酔い潰れる男と、嬉々としてカウンター裏に撃墜マークを書き込んでいるシグルマの姿があった。追撃マークの数は、もう相当なものになっている。
それはもう毎度お決まりの光景だ。周囲も急に始まった飲み比べの騒ぎに満足して、すっかり店の雰囲気は良いものになっている。多少がやがや騒がしくても、だ。明るい雰囲気の店というのは居心地が良い。
客の笑顔を確認したルディアは、シグルマの元に駆けつけた。
「ありがとうございますです、シグルマさん。助かりましたです」
「いやいや。こっちもいつも騒がせてもらってる身だしな」
「でも、シグルマさんのお蔭で皆さんも楽しめるですよ」
「そりゃ良かった」
「また何かあったらお願いしますです」
「任しとけ」
白山羊亭の看板娘、ルディアに頼まれれば悪い気はしない。それに、白山羊亭が居心地良い場所で在ることはシグルマ自身の願いでもあるのだ。結局、今の頼りにされてる立場に満足しているシグルマだった。
シグルマはそんな役目を全うすべく、そして自身も酒を飲んで仲間たちを騒ぐべく白山羊亭を目指すのだ。
―――まただ。
シグルマはため息をついた。
「どうして楽しく酒を飲めないかねぇ」
今夜の男は少々やりすぎだ。暴力を振り出してはいけない。ルディアも今度は視線だけじゃなくて、全身で助けを求めている。ルディアが大きく頷きながらGoサインを出しているのを見て取ると、シグルマはすぐにその男の元に向かった。
「俺が相手だ!机をどかせっ」
叫びながら早速相手に拳を一発。勿論、その男が倒れ込む場所に何もないことは確認済みだ。驚いて動きを止める周囲を他所に、既に顔馴染みの客の何人かはいそいそとテーブルを片付け出した。シグルマと酔っ払いの男の周りに、少しだけ広い空間が出来る。男はよろよろと床に倒れ込んだが、すぐに起き上がって反撃してきた。
「テメー!何しやがる!」
酔っ払いの拳なんてスピードも強さも高が知れてる。それでも、シグルマは敢えてその攻撃を避けず受け止めた。そしてまたこちらもすかさず反撃。相手がまた倒れても続けて攻撃するようなことはしない。起き上がるのを待つのだ。
始めは唖然としていた周囲も、だんだんヒートアップしてくるその決して一方的でない殴り合いに興奮したのか、野次を飛ばしてくる。そのほとんどがシグルマを応援する言葉であったのを聞きとめると、シグルマは上着を豪快に脱いだ。負けじと相手も上着を脱いで、其処からは裸の殴り合いが続いた。
「おらおら、かかってこいよ!」
「はッ!強がってんじゃねーよ」
興奮しつつも、冷静に店のものにぶつかりはしないかと注意を払う。周りを盛り上げすぎてもいけない。乱入者が居ると困るからだ。まあその辺は顔馴染みのヤツらが何とかしてくれるだろうから、とシグルマは相手に視線を据えて攻撃を続けた。
「お前がシグルマか。噂は聞いてるぜ」
「そりゃ光栄だな」
相手を挑発するような会話しつつも、お互い手は休めない。始めは周囲に手当たり次第八つ当たりしていた男も、今ではシグルマだけを相手に暴れている。
「お前白虎模様の鎧つけてんだな」
「ああ。それがどうした」
一つ台詞を吐く度に、相手に一発殴るのが段々リズムになってきた。
「兜はどうした?」
「あ?そんなもんねぇよ」
「同じ模様の兜があるって、聞いたコトあるぜ。何だ、持ってねぇのか」
「マジか?」
少し以外なコトを聞いたので思わず動きを止めてしまうと、その瞬間諸に男の拳が腹に入った。―――効いた。今のは流石に効いた。
少しよろめいたが、すぐに足を強く踏み込んで止める。そしてシグルマは不穏な笑みを浮かべると、渾身の力を振り絞って男の鳩尾に一発入れた。
盛り上がったところ悪いとは思うが、そろそろ終わりにしないと野次馬連中も黙っていられない頃だろう。シグルマの思惑通り、男はうっとうめいて床に倒れ込んだ。
起き上がらないかと一瞬喧騒が水を打ったように静かになったが、男がすっかり目を回しているのを見て取ると堰を切ったようにどっと盛り上がる。ヒューヒュー、とからかうような囃し立てる声が舞った。
さすがにふーっと長い息を吐いて近くの椅子にどかっと腰掛けるシグルマを見て、今までカウンターで戦況を見守っていたルディアは救急箱を持ってシグルマの元へ駆けつけた。
「シグルマさん!大丈夫ですか?」
「おうルディア。平気だよ」
「本当ですか!?今、手当てしますです!」
武器も使わない単なる殴り合いだから救急箱を使うような怪我はあまりないのだが、それでも手当てしておくに越したことはない。
「ありがとな。でもホントに大丈夫だよ。このくらいでへこたれてちゃ、やっていけねーしな」
「シグルマさんらしいですね」
「そうか?あ、消毒だけで良いからな」
「でも……」
「良いんだって。また出掛けようと思うから」
「冒険ですか?」
「今の男が、俺の鎧に兜があるって云うもんだから」
「へぇ。それは、是非とも揃えたいです」
「だろ?だから早速行かねぇと」
「じゃあ余計ちゃんと手当てしなきゃダメです。大人しくしててくださいね」
「だから、平気だって。兜が俺を呼んでんだよ」
先ほどまでの男を挑発するような剣幕は何処へやら、楽しそうに語るシグルマに「何ですか、それ」とルディアも笑った。
「じゃあ、腫れてるところ冷やすくらいはしてくださいね」
「おう」
すっかり段取りも判っている顔馴染みの連中が、伸びた男を並べた椅子の上に寝かせてテーブルを元の場所に戻している。ルディアは、今度はその男の手当てに向かった。周囲もシグルマのお蔭でまたいつもの良い雰囲気を取り戻している。それどころか今日は乱闘騒ぎで盛り上がれたお蔭で、まだ一部の連中は盛り上がっているようだ。興奮冷めやらず、と云ったところか。
―――それでまた、酒癖の悪いヤツが出なければ良いんだけどな。
そんな店の様子を見て満足そうな笑みを浮かべたシグルマは、思わぬところから情報を手に入れたこともあって上機嫌だった。自身も沸き起こる興奮を鎮めるように、窓から見える夜空を見上げる。
―――目指すものは、この同じ空の下の何処かに。
白山羊亭の治安を、いつも穏やかに――時には暴れて――守っているシグルマだったが、ほんの少しの間また休業だ。冒険に行かなくてはならない。これからの冒険にもきっと役立ってくれるであろう、この鎧の兜を探しに。
シグルマは、殴り合いであうっかり赤く腫れた手で、愛用の鎧に住み着く白虎を撫でた。
「待ってろよ」
鎧に対する慈愛の言葉か、兜に対する挑発の言葉か。そのどちらとも取れる台詞を、シグルマは空を見上げながら呟いた。
兜を手に入れる冒険談をしながら、気前良く周囲に酒を勧めるシグルマの姿が見られる日もきっと近いことだろう。
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