<PCシチュエーションノベル(ツイン)>


化粧仮粧



SCENE-[1] 髪を結いませ


 髪結いの女主人は、細い指でエンテルの金の髪を梳き上げながら、鏡に向かって微笑んだ。
「今日は、どんな風にいたしましょうか」
 古めかしい装飾の、大きな鏡台の前の椅子に腰かけて、落ち着かぬげに両手指を組んだり解いたりしていたエンテルは、
「えっと……、私って、どんなのが似合うかな?」
 活気の中に仄かな気羞ずかしさをひそませた声で、訊いた。
「お嬢様なら、どんな髪型でもお似合いになると思いますよ」
 如何にも上品そうな女主人に、お嬢様、と呼ばれ、エンテルは思わず紅潮させた頬の前で両手を左右に振った。それが客に対する常套句と分かっていても、落ち着かない。
「私、髪なんて肩くらいまでしか伸ばしたことないし! 大して着飾ったりしたこともないから、もう全然!」
「全然……?」
 僅かに頸を傾げた女主人の手に握られた櫛が、するすると金の糸の間を過ぎてゆく。
 自分以外の誰かに優しく髪を撫でられる感触に、エンテルは少し体を硬くし、上眼遣いに眼前の鏡を見遣った。
 いつもと同じ服。
 いつもと同じ靴。
 いつもと同じ鞄。
 女騎士として、特定の人物の護衛を行ったり、各地の治安維持に努めたりする仕事柄、衣裳を選ぶ時の基準は何よりも「動きやすい服装」だ。剣を振るう邪魔にならず、身軽に敵の攻撃を避けられ、なお且つ旅に適した装い。それらの点が総てに優先する。
 裾に可愛いフリルが施されているかどうか、留め具のブローチが凝っているかどうか、ショールの色合いが妙趣がどうか。そんなことは、二の次どころか三の次にも出てこない。
 髪型もまた然り。
 髪は女の命だなどと言ってみたところで、本当に生命と天秤にかけた場合、髪の方が重いわけがないだろう。切ってもまた伸びてくる髪と違い、生命は一度喪ったらそれまでなのだ。取り返しはつかない。
 だから、エンテルの装いはいつも、「それなり」である。
 それなりに気に入った色の外套。
 それなりに見栄えのする靴。
 それなりに自分の体に見合う鞄。
 それなりに納得のいく髪型。
 そしてそのどれもが、戦うには都合が良いレベルを維持している。
 それでいい、と思っていた。
 エンテルもまた、多感な時期にある一人の少女として、街行く娘達の美麗な姿に眼を奪われないわけではなかったが、自分は彼女達とは違うのだからと思えば、それ以上を望むべくもない。剣を手にオズと伴に先へ進むのが自分の生き方。髪をきれいにカールして、微風にふわふわと揺らしながら笑いさざめく暮らしは似合わない。似合わないような道を、歩いて来た。
 だが、今日のエンテルは少し勝手が違った。
 今まで横眼に見るだけだった街道沿いの髪結いの店に突然入る気になった理由は、オズ・セオアド・コールその人にあった。
「知り合いが、レストランを始めたらしいんだ。明日、一緒に行ってみないか」
 昨夜、エンテルはオズからそう誘われた。
 レストラン。
 話によると、新鮮な魚介類をふんだんに使った蒸し料理が名物の、小洒落た店らしい。
 コース料理以外には手の込んだ一品料理ばかりだというから、これはやはり――――オズの知り合いが経営しているのでさえなければ、とてもではないがエンテル達が気軽に寄りつける類の店ではないだろう。貴人の護衛でそういった場処に踏み込むことはあれ、二人で向かい合って小皿彩るオードブルや創作的なメインディッシュを口に運ぶことなど、ほぼ、有り得ない。
 オズにその話を持ちかけられた瞬間、デート、という言葉がエンテルの脳裡を過ぎった。
 毎日こんなに一緒にいて、今更デートも何も。
 一度は意識して苦笑してみたものの、そんな体裁とは別に、心は勝手に浮き立った。
 オズと、レストランで、デート。
 となれば、寒風に吹かれ土埃を被った旅装で出向くわけにはいかない。
 (たまには……ちょっとくらい、おしゃれした方がいいよ、ね)
 せめて、髪を少し結い上げて。
 露わになった耳朶には小さなイヤリング。
 頬紅を差して、口紅を塗って。
 マニキュアはサクラ貝の色。
 オズは――――なんて言うだろう?
「……こんな感じでは、いかがです?」
 器用に髪を編み上げていた女主人が、エンテルの顔を覗き込んで、微笑んだ。


SCENE-[2] ラヴァーズ・リアクション


 夕方までに細かな用事を済ませ、待ち合わせ場処の天使の広場で恋人を待っていたオズは、少々遅れて姿を現したエンテルを見、呆気にとられた。
 一体これは、どうしたというのだ。
 左右双つに分けて耳の上で環状に編まれた髪。
 心なしか鋭角に整えられた眉。
 必要以上に存在を主張している重そうな睫。
 何を塗り散らしたのやら、瞼はところどころがキラキラと光って見える。
 熱でもあるのかぼんやりと染まった頬。
 朱い唇。
 白い耳朶には、オズの髪に咲いているような小花を象った耳飾り。
「遅れてごめんね!」
 そう言って差し伸ばされた手の爪は、揃って同じ色の光沢を放っていた。
 少し羞ずかしそうに眼を伏せつつオズに近付いて来たエンテルは、
「どう……かな、こんな感じ」
 傍から見ても明らかに、「可愛いよ、よく似合ってる」という感想を期待して言ったに違いないと看取できるような響きをこぼした。
 だが、当のオズは、
「……ああ」
 と言ったきり、エンテルから眼を背けた。
 このあまりにもすげないリアクションに、さすがにエンテルも驚いた。
 確かに今まで、オズがそのあたりの女性を見て、衣裳が美しいのアクセサリーが綺麗だのと評しているのを聞いたことはない。だが、それは飽くまでも相手が見知らぬ女性だからであって、自分の恋人がデートに際して多少なり愛らしく身繕って来たなら――――照れるなり悦ぶなり、するべきではないのか。いや、自然とそうしてしまうものではないのか。
 だというのに、オズのこの態度は何なのだろう。
「そ……そんなに似合ってない? どこか変っ?」
 エンテルは一歩オズの方へ踏み込むと、語尾を荒げた。その眦にはすでに淡い怒気が昇り立っている。
「……いや、そんなことはない」
「嘘。だって、オズ、ちゃんと私のこと見てくれないじゃない」
「どうしてそんなに絡むんだ。それより、そろそろレストランに」
「オズ!」
 ぐいっと袖を引かれて、オズは再び視線をエンテルに向けた。
 大きな硝子玉のように澄んだエンテルの眸が、不機嫌そうにオズを見据えている。
「……どうして、化粧なんか」
 ぽつりと、オズが呟いた。
「えっ?」
 エンテルは数回瞬きし、訊き返した。
「どうして化粧なんかって……どういう意味?」
「……そういう意味だ」
「分かんないよ、そんなの。だって……だって、折角オズと素敵なお店に行くんだし、私だって少しは着飾ったりした方がいいんじゃないかなって思って」
「そんな必要はない。俺は、そんなこと望んでない」
「な……」
 小綺麗に身を整えて来たエンテルを称めるどころか、必要ないと言い切るオズに、エンテルは言葉を喪った。そして数秒の後、喪われた言葉は怒りの感情に姿を変えて彼女の裡から噴出した。
「いくらなんでもそれは非道いでしょ!」
「エン――――」
「いいわよ、似合わないなら似合わないって言えば!」
「だから、それは」
「でもね、私だって、私なりに、頑張ったんだから!」
「エンテ……」
「何よ! 努力の方向が間違ってるとでも言いたいのっ?」
「エン」
「オズのバカ!」
 オズは、どう足掻いても最後までエンテルの名前を呼ばせてもらえなかった。
 どうにも執り成しようがなく、オズは夕空を仰いで深い溜息を吐いた。
 それがまた、エンテルの癇に障ったらしい。
「……っ、わ、私がオズの前できれいでいたいと思って、何がいけないのよッ!」
 それを捨て台詞に、エンテルは踵を返すと、今来た道を駈け戻って行ってしまった。
「え……」
 一人その場に残されたオズは、盛況に痴話喧嘩を披露した恋人達を眺め遣ってはひそひそ話を交わし合う、周囲の人々の無遠慮な視線に晒されたまま、立ち尽くすしかなかった。


SCENE-[3] 素顔のままで


 結局。
 オズはレストランの予約をキャンセルし、夕闇の中、帰路に就いた。
 エンテルはもう、宿部屋に戻っている頃だろうか。
「……別に、似合ってなかったわけじゃない……」
 言い訳がましく口中にひとりごとを転がし、オズは口の端を僅かに下げた。
 オズにとっては、エンテルの恰好が、化粧が、彼女の美しさを高めているかどうかということが問題なのではなかった。
 エンテルがオズに逢うために化粧をして来た、そのこと自体、悦べなかった。
 (化粧は……)
 化粧は、素顔を隠すためのものだ。
 オズには、そういう認識がある。
 実際、ジュカの社会では、化粧は祭祀などの特別な折か、もしくは婚姻前の生娘が異族の異性の前に姿を見せる時に施される。つまり、素顔を晒して不都合だと思われる場合に、意図的に行われるのが化粧なのである。
 無論、ヒトが日常的に化粧をしているのは日々眼にしているが、それにしても根源は他人の眼から素肌を隠すという一点にあり、人々が無理なく化粧を実行するために様々な技法が発達してきたのではないかと思うのだ。
 だから。
 今日のエンテルを見た時、本能的に、「ああ、エンテルに距離を置かれている」と感じた。頭では、そうでないと分かっている。分かっていたつもりだった。が――――きれいだ、と賛辞を贈るにはやはり抵抗があった。
 きれいな化粧は、心を隠す。
 エンテルには、そのままのエンテルでいてほしい。
 (……俺の、前では)
 素顔の、ままで。


SCENE-[4] おあずけ


 オズが部屋に入って行った時、エンテルは先刻の恰好のまま、ベッドに突っ伏していた。
 寝ているのかと思ったが、
「エンテル」
 と呼びかけた時に、微かに肩が揺れたところを見ると、そうではないらしい。
「……まだ、怒ってるのか」
「当たり前でしょ」
 オズの問いに、間髪を容れず返答が飛んで来た。顔を枕に押し付けているせいでくぐもった声が低く響き、異様な迫力があった。
 これは、ジュカにとっての化粧が云々と言ったところで始まらないな、と諦めたオズは、窓際のアームチェアーに腰かけると、
「……俺はそのままのエンテルがいいんだ」
 そう静かに語りかけた。
 すぐには、反応がなかった。
 それでも構わず、オズは続ける。
「素顔のままで十分、きれいだから。わざわざ化粧なんかしなくても」
 ここまで言えば、少しは機嫌も直るだろうか。
 そんな打算がなかったと言えば嘘になる。が、その言葉はオズの本心でもあった。
「……やっぱり、似合ってなかったんだ」
 返って来たエンテルの台詞は相変わらずだったが、声音は柔らかかった。
「あーあ……無駄な努力だったのかなぁ」
 そう言ってベッドから身を起こしたエンテルを、安堵の表情で見遣ったオズは、次の瞬間、ぶっと吹き出してしまった。
「……な、何よッ?」
 再び怒りに火が点きそうなエンテルを、オズは、壁に掛かっている丸鏡を見るようにと指先で促した。
「え……?」
 顔を顰めて鏡を見たエンテルは、その姿勢のまま暫し硬直した。
 ――――枕に、顔をぎゅっと押し付けて、煩悶していたのがいけなかったのか。
 エンテルの顔を彩っていた化粧は、あちこちが捩れ、色を移し、総ての輪郭という輪郭が行方不明になっていた。
「オ……オズの……せいなんだからね」
 エンテルの震える声に、「分かってる」と、此方は笑いを堪えるために肩を震わせて、オズが応じた。

 慣れない化粧は、当分、おあずけ。


[化粧仮粧/了]