<東京怪談ノベル(シングル)>


空蛇

 黒山羊亭の午後は、比較的暇だ。基本は夜賑わう店だから当たり前といえば当たり前なのだが、そんな空いた時間が勿体無いとばかりに、エスメラルダは冒険者の斡旋や仕事の仲介などをして小銭を稼いでいた。

 「あら、おかえりなさい」
 「ただいま戻りました、エスメラルダさん」
 ランチの時間も過ぎたが夕方の仕込にはまだ早い、一日のうちで一番暇な時間の、人気のない黒山羊亭にやって来た翔を見て、エスメラルダがカウンターに両肘を突いて身体を乗り出す。そうすると、キャミソールドレスの豊かな胸元が更に強調され、思わず翔はどぎまぎしてしまうのだが、どうやらエスメラルダはそれを分かっててそうしているらしかった。ふふ、と口元で妖しく笑うエスメラルダに困ったような笑みを向けながら、翔は腰に掛けてあった、何かが入った小さめの皮袋をカウンターの上に置く。
 「なーに、これは?」
 「証拠、ですよ。ちゃんと退治したって言う証拠にね、依頼主さんに渡してもらおうと思って」
 そう答えて翔が皮袋の紐を解き上下逆さまにすると、中から幾つかの拳ほどの大きな牙と、手の平ほどの硬い鱗が転がり出てきた。
 それは、空を飛ぶ大蛇の一種、その近辺では通称・大砲と呼ばれるモンスターのものだった。


 大砲は、形状は一般的な蛇の形とほぼ変わりなく、ただ、全長の前から三分の一程の位置に、蝙蝠のような羽根がある。そして、空を飛べば建物丸ごと一個を覆い尽くす影が出来る程、巨大だ。蛇が水中を泳ぐように自由自在に大空を舞い飛び、目標に向かって天空から真っ直ぐに、物凄い勢いで突進しては頭突きする、その攻撃方法がまさに大砲の弾のようなので、その通称が付いたらしい。動きが素早い事もあるが、何しろその身体を覆うのは、亀の甲羅のように硬く丈夫な鱗ゆえ、生半可な武器では通用しない。有効なのは魔法。その中でも風の魔法にはさしもの鎧もその効果が半減になるらしく。それでエスメラルダは、この大砲の討伐を、風魔法が得意な翔に依頼をしたのであった。

 大砲は基本的には人を襲う事はなく、攻撃の激しさの割には穏やかな性質のモンスターであるが、稀に気性の荒いものが出没する事がある。それらは縄張りを作り、その中に入ってくるもの達を攻撃してくるのだが、よりによって、小さな村の上に己の縄張りを張った大砲がいたのだ。村人達の、頭の上をゆっくりと旋回する大砲の存在に怯え、外出や仕事は勿論、隣近所に出掛ける事もままならなような状態を、話には聞いていたが実際目の当たりにして翔は、思わず溜息が零れてしまう。
 「…おっきいなぁ……」
 感心したような翔の小声が聞こえたのか、大砲の尻尾の先がブン!と勢いよく振られる。一拍の間をおいて、極短い突風が翔の元へと届いた。足元の砂がその風に吹き上げられて、思わず翔は目元を覆う。顰めた表情のまま、片目だけ開けて上空を見上げたその瞬間、翔の目は驚きに見開かれた。ついで頭が考えるよりも先に身体が反応をし、横っ飛びに飛んで地面を転がる。すると、先程まで翔が居た場所に、さっきまで空を泳いでいた筈の大砲が、ズゥンと大音響を立てて地面に頭突きを食らわしたのだ。
 「…ココじゃ……」
 体勢を立て直した翔が、衣服に付いた砂埃を払う間もなく、呼び寄せた風に己の身体を空へと運ばせる。地上で戦う事も可能だが、それでは暴れる大砲の尻尾などが村の施設を破壊する可能性があるからだ。空へと逃げた(と大砲は思ったのだろう)翔を追って、大砲が再びその背中の羽根を羽ばたかせ、自分も空へと舞い戻った。

 大砲の身体の動きは、その巨大な体躯に似合わずしなやかで素早く、長い身体をくねらせて風の抵抗を減らしながら翔の方へと一目散に突進してくる。風に黒髪を煽られながら、翔が空中で停止をし、ウィンドスラッシュの構えを取った。
 「はぁッ!」
 掛け声と共に、白く発光した真空破が、ブーメランの形になって大砲へと放たれる。目に見えている所為か、ウィンドスラッシュは大砲の身体の一捻りで紙一重で避けられ、翼の先を少し切り裂いたに留まった。大砲は空中で螺旋を描いて凄い勢いで飛び、鋭い牙を覗かせて大口を開けて飛び掛ってくる。その口がガチン!と閉じる一瞬前に、翔は大砲と同じように身をくねらせ、螺旋を描いてその攻撃を避けた。
 「…なるほど、この方が早く動けるね。ひとついい事を覚えた」
 こんな状況下にあっても、翔は至って暢気にそんな事を呟く。水平方向への身体の回転が止まった位置は、大砲に背を向ける位置だった。翔が首を捻って背後を見、大砲の位置を確認しようとすると、その目に飛び込んできたのは再び真っ赤な口を際限まで開け、今まさに翔を頭から飲み込まんとしている大砲の喉の最奥だった。
 「!!」
 翔は慌てて後方へと、自分を乗せた風を移動させて逃げようとした。が、その幅と大砲が首を伸ばした幅では、翔が逃げた幅の方が短かったのだ。…つまり、そのまま大砲が口を閉じれば、翔の頭は確実に齧られる状況にあったのだが…。
 がちっ、と歯が鳴る音がして、大砲はまたも噛み損ねた悔しさに歯噛みをし、低い声で唸る。翔はと言えば、自分が呼んだ飛翔の風とは違う風に、その身を絡め取られて更に上空へと舞い上がっていたのだ。
 「…ありがと、シルフィード。助かったよ」
 翔がそう呟き、笑みを向けると、翔が僅かな時間の間に召喚したシルフィードがにこりと微笑み返す。翔の身体から風の縄を解くと、その背後に控えて次なる己の出番を待った。

 自分は翼に傷を負ったのに、一度ならず二度までも攻撃を避けられた事で大砲の怒りは頂点に達し、喉元を反らして大きな雄叫びをあげた。尻尾が癇症に大きく振られ、その名の通り、翔に向かって一直線に飛び掛ってくる。動きの速さは早いが単調ゆえ、今度は避けるのも容易く、翔は風によってではなく自分で風の上でジャンプして大砲を避けた。それだけでなく、飛び上がった翔が降り立ったのは何と大砲の背中の上、二枚の翼の付け根あたりだったのだ。当然、大砲は怒りに震えて耳障りな鳴き声をあげる。振り落とそうと大空を上へ下へと身体をくねらせて暴れまくった。翔は、大砲の羽根の付け根をしっかりと掴み、激しい揺さぶりに目が回りそうになるのを堪えている。大砲は首を捻って背中に乗った翔に噛み付こうとするが、距離が近過ぎてそれも叶わない。ついに、ますます怒り狂う大砲は、元より少なかった冷静さを欠き、そのまま己の身体ごと、翔を地面に叩きつけようと、高い高い上空から真ッ逆さまに地面に向かって頭から突進していったのだ。

 『!?』
 空に浮いたままのシルフィードが、声もなく主の危機に悲鳴を上げる。が、当の翔は至って冷静だ。自分を地面に叩きつけ、骨どころか肉そのものをばらばらに砕こうと目論む大砲の背中の上で、翔は身体の前で両手で印を形作って魔法陣を描く。そこに、周囲の大気が集まり、凄い勢いで凝固し始める。それは余りの高密度の為、先程のウィンドスラッシュよりも更に眩い白銀の光を放ち始め、偏った気圧の変化の所為か、翔の面もどこか苦しそうに歪んだ。集めた大気の量が増えていくに従って、身体の前の白銀の光も大きくなっていく。いつしか、翔の身体が全部隠れてしまう程の、大きな大きな光球となった。
 溜めに溜めた、翔の風のパワーとエネルギー、【風神之御剣】の放つ瞬間が訪れた。大砲が落下を始めたのが相当高い高度であったお陰で、翔は充分に圧縮大気を集めることが出来、これなら最大限の効果が期待できる。後はタイミングだけだ。一歩間違えば、肉塊になるのは自分の方。翔は、高速の為に狭くなった視界の中、みるみるうちに近付いてくる地面と己の距離を測る。ここだ!そう感じた瞬間、翔は身体の前に抱えた大気の塊を、大砲の頭目掛けて一気に放った。

 どぉおおお―――…ん!!

 物凄い地響きと揺れを起こしながら、大砲は頭から地面に突っ込んだ。自らの勢いに合わせて翔の放った【風神之御剣】の力、それが相乗されて大砲は、凄い力で頭を押さえつけられ、地面に叩きつけられた形になったのだ。硬い鱗に守られた、巨大な大砲の頭もさすがの衝撃に耐えられず、潰れて地面に深々と突き刺さった。どさりと長く太い身体が地面に投げ出され、そして舞い上がった砂埃が落ち着いた頃、周囲に静寂が戻った。



 「…なーるほどォ……結構、大変だったのねぇ」
 カウンターに頬杖を突いたまま、エスメラルダが呟く。翔が持ち帰った大砲の牙の欠片と鱗を皮袋にしまうと、背後の棚に置く。
 「じゃァ、これは預かっておくわね。ご苦労様でした。ゴハン、食べてくでしょ?」
 あたしの奢り。そう言って片目を瞑るエスメラルダの笑顔を見て翔は、今になってようやく、凄く空腹である事に気付いたのだった。