<東京怪談ノベル(シングル)>


朗々と謳え、漆黒の山羊

 カードを繰る男達の手指の動きが一層早くなるのとは裏腹に、自分は少しずつ興ざめたような気分になっていくのを隠せずにいる。
 プレイヤー、2、7、スタンド。
 バンカー、4、5、スタンド。
 バンカー、エース、8、スタンド。
 プレイヤー、クィーン、9、スタンド。
「……………」
 プレイ、バンク、プレイ、プレイ。
 赤ら顔で逞しい、賭事好きな男達の声までもが低く短くなり始めたので、興醒めの心に哀憐までもが入り交じって彼――葉子・スペード・ミルノルソルンはいたたまれない気持ちになってきた。
 黒山羊亭、3度の飯よりもバカラの好きな男達がジンライムのグラスを握り締めながら集う丸テーブル、である。店じまいの仕度をあらかた終らせてしまい、あとは葉子と男達と追い出すのみとなった若女将、エスメラルダが――繰られる度にぴったりナチュラルを定める葉子の賭け先に肩を竦める。
「もう許してあげたら? この人たち、今日の飲み代まですっからかんよ」
 許して欲しいのは葉子の方、である。
 決着が見えてから次のゲームへ以降するまでのカードシャッフルが異様なまでに早くて、葉子には二の句が告げられずにいるのだ。いくらやっても葉子には勝てない、早々に見切りをつけた他の客はとっくに帰ってしまっている。後には葉子とエスメラルダ、それに3人の男のみが残されている。
「どうでも良いけど、まだ居座る気ならもう1杯ずつ貰っちゃうからね…ジンライム、ジンライム、ジントニック、葉子も…ジントニックで良い?」
 窮屈そうに両足を組み上げている葉子が、背中ごしにエスメラルダへとひらんひらん手を振って見せる。もう要らない、との合図にも見えたが、どうせ支払うのはあの男達になるのだ。見ていない振りをして、エスメラルダは4個のグラスをカウンターの上に並べジンの瓶に手を掛けた。
 バンカー、8、エース、スタンド。
 プレイヤー、7、2、スタンド。
 バカラとは、バンカーとプレイヤーそれぞれのカードのうち、より9に近くなる方を先読みしてチップを賭ける単純なゲームである。当然、カードの数字が合わせて9になればそれが1番強い。
 が、葉子が気乗りしない様子で賭けるワンコインは、決して呑まれてしまう事がなかった。バンカーであろうとプレイヤーであろうと、葉子が賭ければ必ずナチュラルが出る。1枚目と2枚目のカードのスコアは必ず足して9になり、もう片方はならない。ゲームはいつも最短のルートで終わり、最短のルートで繰り返されている。
「運の強え野郎だ、俺ァ財布の中身がスカンピンだぜ」
 最初の数回はそう言って笑っていた男達も、連敗が2桁に乗る頃にはぐっと黙り込み、今はただ額に青筋を立ててカードを繰るのみとなってしまっている。
 エスメラルダが冷たく水滴の滴るジンのグラスを4個テーブルに運んで来た時、丁度3桁目の連敗を記した男の1人が背中を伸ばし、カードをテーブルに放り投げた。怒りのためか酔いのためか、その顔を真っ赤に血走らせながら。
「・‥…終わり、ね」
「そうッそ…ほら、何度やっても結果は同じだからサ…‥・」
「お前ェっ、やっぱりイカサマ使いやがって!」
「ちがッそうで無く! 何て言ッかさ、ホラ〜…だったらコレ返す! イラナイよお金とか!」
「何だとコラ! って事は、俺らに恥ィ掻かせッ為にやってたって言うのか!」
 結果的に、口さえ開けば火に油を注ぐ。
「テメ…‥・表に出な」
 いつものことである。
 が、その時、だった。
「ちょっとお待ち、よ」
 1番ヒートアップしている赤ら顔の鼻先に、すい、とエスメラルダが指先を伸ばす。
 ギロリと剣呑な眼差しがエスメラルダを捉え、そして数度の瞬きをした。
「そんなに息巻かなくても良いじゃないさ、全部チャラにしてくれるって葉子も言ってるだろう?」
 濃い朱を塗った口唇が弓のようにしなやかな笑みの形を作り、エスメラルダが男に問う。
 言うと、エスメラルダの踵が数度、堅い床の上に鳴り響いた。男の鼻先に突き付けられた指先がそのリズムに合わせてぐるりと回され、
「全部忘れちまいな、今日は特別だよ」
 ターンと同時にブレスレッドをしゃらりと鳴らす。長い髪が弧を描き、男たちの鼻腔を僅かな香の香りが擽った。
 魅惑の踊り子、エスメラルダの――魘熱と情欲の舞、である。

 打ち鳴らされる踵のリズムに、エスメラルダの上体が艶めかしく揺らされる。
 滑らかな肌の上でコインを模したチェーンの飾りが揺れ動いて、砂金の零れ落ちるような微かな擦れ音をさせている。リズムは4拍子からやがて変拍子へと変わって行き、少しずつテンポの早いものとなっていく。
 先ほどまでは手の付けようがない程に苛立っていた男たちの目がエスメラルダに釘付けになっている。
 葉子ですら、踊り子としてのエスメラルダを今までに数えるほどしか見た事がない――どこの国のリズムとも知れぬ艶容なそれに、彼は楽しげに口唇の端を引き上げた。
「・‥…――Mit Ernst er's jetzt meint,」
 神を讚え悪魔を打つと言った主旨の祈りの詩である。
 遥か昔に耳にした事のあるその詩を、葉子は己の声に乗せ、口遊みはじめた。
 リズムと歌詞がひたりと寄り添いあい、等しいベクトルへ向けて共鳴しあう。
「……………」
 白く細い咽喉をのけぞらせて舞うエスメラルダの口許が笑んだ。
 男の1人が驚いた顔で、葉子の横顔を凝視する。ニィ、とやはり笑んだ葉子が、エスメラルダの舞いに合わせてその歌声を大きくさせる。
「Den Gott hat selbst erkoren…」
 神の真理こそ、我が内にあれ――などと。
 バエルが聴けば、その脆弱さに邪笑を零すかもしれない…葉子は朗々と声を張りながらふと思う。敬虔で盲目な信仰の詩は、エスメラルダの妖艶な舞いにはいささか不釣り合いにも思えた。
 が。
「Es soll uns doch gelingen、…‥・」
 どうしてか、葉子は口を閉ざしてしまう事ができなかった。
 悪魔が謳う神の詩、舞うのは通り1番の妖艶な踊り子。
 いかにも自分に相応しい、冒涜的なステージでは無いだろうか?
 エスメラルダがその踵で、チェーンに絡んだ鈴の音で、そしてしゃらしゃらと鳴る金具の音で取るリズムの裏を取るように、葉子が己の指先を弾いて鳴らす。
 男たちは間近に繰り広げられるエスメラルダの舞に、虚ろな口を開けて見入っている。
 葉子の声が朗々と、夜更けの冷たい空気を震わせるように高く響き渡れば、しゃなりと伸ばされるエスメラルダの指先は清水を滴らせるかのような瑞々しさに溢れた。
 しばしの夜の宴、である。

「すげえなあ、あんちゃんその歌でも食っていけるだろうなあ」
「良いもん見たなあ、おい…‥・またやろうな、次はイカサマするなよ」
 一夜限りの夢の時間が過ぎてしまってから、男たちは口々にエスメラルダと葉子を褒め称えた。
「だっから! イカサマなんてしてないんだってばサ!」
 やっきになって反論する葉子の肩を、男がばしばしと親しげに叩く。
 上機嫌に帰っていく3人の男たちの背中を見送って、エスメラルダは汗にしっとりと濡れた髪を掻き上げて葉子に問う。「驚いたわ、どこでそんな歌を聴いて来たの?」
「エート、エート…‥・昔ィ…どっかで…‥・」
「それじゃ答えになってないわよ」
 エスメラルダが苦笑ながら、冷たい水を出してくれた。
 熱くなった咽喉の中がひんやりと冷やされるのが心地よい。すっかりグラスを空にしてしまってから、葉子は人心地がついたと言うようにはふ、と息を吐く。
「でも、助かったヨ…俺様、アイツラにコテンパンにされちゃうトコだった。ウチ、男の人初めてやシィ…‥・」
 しなを作って己が身をぎゅっと抱きしめたが、エスメラルダは冷ややかな目でじっとそれを見つめているだけなのでやめた。ノリの悪い人種が苦手である。
「でも、ちょっと見直しちゃったじゃない♪ 顔が綺麗でリズム感が良くて歌の歌える男なんて最高」
 さすが本業が踊り子なだけあると言う事なのか、かなり偏った男の選び方を告白しつつエスメラルダがカウンターに頬杖を付いて葉子に言った。「今日の飲み代、チャラにしちゃう♪」
「ヤーっタ! エスメラルダ、超愛してる」
「チャラ、の後でそう言われても、ちょっと微妙ね」
 ぼそりと呟かれたその言葉を、既に葉子は聴いていない。

 明けかかった東の空が橙色に染まり始め、やがてやってくる朝を告げていた。