<東京怪談ノベル(シングル)>


無自覚な境界線


 不意に、弾けるように自我が目覚めた。



「……?」
 今まで眠っていたのだろうか。
 分からない。
 気付いたらここに佇んでいた。
 白昼夢でも見ていたかのように、すっぱりと記憶が抜け落ちていた。



 自分は何をしていたのだろうか。
 そしてここはどこだろう。
 どうしてこんな場所にいるのだろうか。



 何も分からなかった。



 名前は……葵。
 それ以外の記憶は吹き飛んでいた。
 他に何か覚えていることはないだろうか。
 漠然とした焦りに突き動かされ、記憶を刺激されるものがないか、周囲を眺めてみる。



 見覚えのない風景。
 自然が溢れた穏やかな場所だ。木漏れ日がきらきらと降り注いでくる。
 見上げて眩しさに掌を翳す。
 いい天気だった。日光浴には最適な日和だ。
 日の光を浴びていると現金なほど気分が軽くなって行く。
 暫く足を投げ出して座り込み、じっとしていた。



 日光浴はいい。ぐるぐると考えていたことが緩々と解けていく。
 焦ることはない。
 今慌てても、記憶が戻るとは考えられなかった。
 まずはこの世界を知ることの方が先だろう。
 どこに住み、どうやって生きてきたのか。
 何も分からないのだから、やらなければならないことは多い。
 闇雲に足掻いていても仕方がない。



 記憶がないということは、自分が何をしなければ分からないということだ。
 だったら、これを目的にすればいい。
 失った記憶を探すために、これからの自分は動く。
 全てはそのためだけに。



 やがて、耳が小さな音を捉えた。



 ちろちろちろ。
 流れる音。
 ちろちろちろ。
 水が、流れていく音だ。



 すごく懐かしい気持ちになった。
 長年の親友のような感覚。誇らしさ、に似ている。



 水を呼び出す。
 おいでおいで。



 何を言われなくても分かった。
 どうすればいいのか、本能が知っていたから。



 水を呼ぶ。
 ここにおいで。僕の元へ。



 目を開くと、水がベールのように自分を取り囲んでいた。光を反射してきらきらと輝く。
 それはとても幻想的で綺麗だった。
 嬉しくて、飽きもせずにずっとそれを眺めていた。



 すでに記憶のない焦燥感は薄れていた。
 時間が緩やかに流れていく。
 水を操るこの力は、普通の人間もみんな使えるものなのか疑問が残ったが、それ以上に喜びがあった。
 美を産み出す綺麗な力だと嬉しく思った。



 ――本当に?



 ぎしり、と心の奥が軋んだ。
 分からない痛みに、眉を顰める。
 自分の中で囁く声の他に、誰かの悲鳴が混じっているような気がする。



 はっと目を見開いても見える景色は変わらない。
 ただぼんやりと恐怖に歪んだ幼い顔が脳裏を横切った。苦悶しているようだ。詳しい表情は分からず、状況も不明だった。
 過去の映像なのだろうか。もっと詳しく見ようとして、再び目を閉じようとした。



 グルルルゥ。



 突然背後から聞こえてきた声に葵は飛び上がった。
 振り返りざま、反射的に見を捩る。かなり無理な姿勢だったが、結果的に、それが葵の命を救った。
「狼?!」
 ……ではない。
 4つ足で口から覗く牙は狼っぽいが、その他があまりにも違いすぎた。
 背中が盛り上がっているのは、翼を持っているからか。目が赤く光っていた。前足の指はまるで人間のように長く、葵の頭を掴めそうなほどの大きさがある。
 こんな怪物のことは知らない。記憶にない以上に、知識にもなかった。



 ガアァァァァァ。



 その獣は再び襲ってくる。同じように避けれるとは思えなかった。
「……死んでたまるかっ!!」
 こんな知らない場所で。
 記憶のないままで。



 葵は本能の命ずるまま、力を使った。
 一度うねった水はスクリューのように回転し、獣に向かっていく。
 驚愕に目を見開く獣に斟酌してやる余裕もなく、葵は攻撃の手を緩めない。
 大きな口に水の槍を突っ込まれた獣は、物凄い断末魔の叫びを上げて仰け反った。
 その咆哮に、喉を掻きむしり、助けを乞うて泣き叫ぶ声が重なった。
 まださっきの映像が続いていたようだ。



 ゆっくりと崩れていく身体が、意識の中で重なる。地響きを立てて倒れた方が現実なのだと知る。
 葵は肩で息をしていた。動悸が激しく、なかなか収まりそうにない。



 映像の中でも葵は、身を震わせている。
 呆然とした心を感じる。
 一気に覚めた激情に脱力してしまっている。
 心が麻痺してしまっているのだ。



 静かに周囲の景色が戻ってくる。
 飛び散った雫がきらきらと落ちた。



 怪物をやっつけたことには、達成感があった。だが、あの映像には苦い思いしかない。
 殺してしまったのだろうか。
「……僕がやった……?」
 自分の掌を見つめても何も思い出せない。
 信じたくない事実だった。
 目を背けようにも、心の中に強い罪悪感がある。深く身体に染み込んでいた。これからも消えることはないだろう。



 ぐっと拳を握り締める。
 周囲の水が、冷たく閃く。
 決して穏やかなだけじゃない、その性質に気付いた。



 生命の源でもある水は、ただ優しいだけではなく。
 その中に無慈悲な強さを備えている。



「付き合おうじゃないか。」



 全ては記憶を取り戻すために。
 悪魔だろうが、天使だろうが、構わない。
 この力を使って、これからも生きていく。



 葵は静かに立ち上がり、一歩を踏み出した。





 ここが、聖獣界ソーンという世界であることを知るのは、まだ少し先のことだった。



 END