<東京怪談ノベル(シングル)>


再会

 思えば──男の人生は、勝手に訪れる苦労の連続だった。自ら足を向けずとも、向こうからフル加速でやってくる。避けようと身をひねれば、ひねった先で手ぐすねを引いて待ちかまえている災難や騒動には、己が運命と笑うしかない。
 男の夢は、安穏な隠居生活だった。
 世俗から離れ、日々ぼんやりと過ごす。縁側で腰かけて飲む茶には、猫の話し相手がいれば良い。小さな畑と数羽の鶏の世話をして、時に昔を思い出しながら剣を振るのも良いだろう。そんな気楽な暮らしを送るのだ。
 ささやかな願望である。決して大逸れてはいない。
 だが、現実は何故かそこからかけ離れて行く。望めば望むほど遠ざかる。
 男は水桶に映る自分の顔を、まじまじと眺めた。眉間を斜めに走る切り傷。鼻の上にも、同じものが横一文字に刻まれている。これは名残だ。
 かつては、その名の元に戦った。笑いあう友がいた。そして皆、その名を掲げていた。
『サムライ』と言う肩書きの、これは名残であり証であった。
 二つ名は『刀伯』に、『塵』と続く。それが男の名前だった。
 塵は、ツイと空を見上げた。今日も良い天気である。どこにいてもこの青だけは、きっと変わらないのだろう。そして、塵が『サムライ』であると言う事も変わらない。
 例えここが『中つ国』ではない、他の世界だったとしても。
「そうだ。ここはあの場所とは違う。だが、どこであれ、五体満足で俺は生きている。仮住まいも見つかった。こうなったら、腰を据えるしかない」
 ベッチベッチベッチ。
 塵の呟きに答えるように、足下で怪しげな音がした。何かをうち鳴らすような怪音である。
 塵は、音を立てている原因を目視した。
 ペンギンだ。眠れぬ夜の枕元でスヤスヤと寝息を立てていた温泉ペンギンが、塵の足下で両翼を羽ばたかせている。ペンギンは、最後にブルブルッと体を震わせると、左右に体を揺すりながら行ってしまった。
 一日の終わりにやってくるような疲労感が、塵に訪れる。爽快な朝であった。
「暢気なもんだな。そっちは熟睡していたようだが、俺は一睡も出来なかった」
 もともとあのペンギンは、この家に住んでいたのだろう。だが何故、ここへまで来て『ペンギン』なのか。ペンギンが塵を呼ぶのだろうか。それとも、塵がペンギンと離れられない宿命なのだろうか。
 ウワ〜ッ。
 と、白い物体が、塵の視界の片隅で大あくびをした。塵はそちらに顔を向ける。ワニである。ワニが縁側で、気持ちよさそうに日向ぼっこしている。ワニは日差しが好きだ。陽光を浴びて、実に幸福そうである。
 遠い目。塵は、ため息をついた。
 ペンギンにワニ。夜になれば、四十三人の透けてる精鋭部隊も戻ってくる。天井からは、重力と引力に逆らった女もぶらさがるだろう。
 穏やかな隠居生活はどこへ。
「『あの庵』に負けず劣らずの怪屋敷だな。これで『像』まで現れた日には……」
 運命、宿命、赤い糸。もしかすると塵の行く手には、『静寂』や『平穏』と言う言葉は落ちていないのかもしれない。『騒動勃発』や『大事件発生』は、ごろごろしていると言うのに。
 塵はバシャバシャっと顔を洗い、手拭いでそれを拭った。頭が幾分すっきりする。持ち前の適応能力は、すでに目の前の事実を受け入れていた。これ以上、何事も起こらぬよう祈るばかりである。
「掃除も終わった事だ。少し周囲を歩いてみるか。自分が住む土地の地理ぐらい、把握しておかないとな。ついでに昼飯の調達が出来ると良いんだが」
 刀を手にしたのは、無意識であった。常に死と隣り合わせの生活で身に付いた癖は、戦いが終わっても抜ける事は無い。
 塵はそれに微かな苦笑を浮かべ、廃屋裏の林へと向かった。
 ザッと、草をかき分ける塵と。
 四十三人の透けてる精鋭部隊が、横一線に並んで、草を踏み倒す。
 壮観。
「俺は驚かない。動じないからな」
 塵は剣を抜刀した。振り上げた刃で、草を薙ぎ払う。
 四十三人は剣を抜刀する『ふり』をした。振り上げた刃で、草を薙ぎ払う『ふり』をする。塵の横で、塵に合わせて四十三人が、持っていない剣を振り回す『ふり』をする。
「……」
 塵は沈黙した。決して、害は無いのである。付き合いが良いだけの事なのだ。そう思えば何て事はない。
 諦めて歩き出した塵は、頭上に張り出した枝を避ける為に、腰を屈めた。その態勢のまま、チラリと横を見る。
 実に滑稽な状態であった。四十三人がへっぴり腰で、見えない枝を避ける『ふり』をしている。
 目眩や頭痛が、一度に塵を襲った。情けなくもなった。何とかして何とかしなければならない。少し動揺し始めていた。そんな塵の肩が、何者かに叩かれた。
「何だ?」
 振り返るとそこに、エイのような化け物の幽霊が、カニみたいな怪物の幽霊を背に乗せて浮遊していた。カニのはさみが、塵の肩に置かれている。カニとエイは二体合わせても、塵の身長と同じくらいの大きさであった。
「なぁっ?!」
 塵は身構えた。カニとエイのサイズなど、どうでも良かった。
 本能だ。本能が危険を訴えている。ツツーっと冷たい汗が、こめかみを滑り落ちた。
 イン──とか。ルド──とか。
 塵の頭を、舌を噛みそうな名前がよぎった。
 それには激しく見覚えがあった。間違えようがない。こんなに陰険で『たち』の悪そうな顔をしたカニは他にいない。そして、その目は腹についていた。多分、腹だ。顔ではない。これが顔なら、全身が顔になってしまう。全身が顔なら、手足は顔に生えていると言うのか? それにしても、また二体一緒であった。
「どうなってるんだ、この場所は……」
 塵は刀を構えた。四十三人も一緒に刀を構える『ふり』をする。もう失笑。
「いい加減にしてくれ!」
 わああぁあぁぁ!
 塵の一括に驚いた四十三人とカニとエイが、蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。ゼェハァと肩で息を切らして、塵はため息をついた。
 ボトッ。
 何かが木から落ちてきた。
「わぁ!」
 足下に転がったのは、一個の像だ。背を向き、塵に拾われるのを待っている。
「……嫌な予感がするな」
 塵は呟いた。
 もしもこの像が、『やたらと濃い親父顔』だったり、どこかの名物だった『あれ』だとしたら、直ぐに捨ててやる。
 そう固く心に誓って、塵は像を拾い上げた。
 その途端。
 ボトッ。
 塵は像を落とした。棄てたのだ。いらないのである。足早にその場から遠ざかった。逃げるとも言う。
「俺は何も見なかった。気のせいだ。何も落ちていなかった」
『弘』――像の名は『弘』。怪現象の源と悪名高い、恐ろしい像だ。塵がかつて暮らしていた場所にあった『それ』が、何故ここにあるのだろう。
「悪夢再びは勘弁してくれ」
 塵はげんなりとした足取りで、林から我が家へと戻った。結局、朝飯の調達は出来なかった。あとはふて寝しかあるまい。
 犬も歩けば棒に当たる、と言うが、塵が歩くと災難に遭遇するようだ。
 ガラリと戸を開ける。
 像。
「弘!」
 慌てて後ずさった塵は、戸と一緒に後ろに倒れた。呆然とする目に映る青の広がり。
 今日も本当に良い天気である。などと、悠長な事は言っていられない。放置してきたはずの『親父像』が、家の中にあるのである。
「冗談じゃない! もうあんなのと付き合うのはご免だ!」
 塵は首だけを起こして、像を再確認した。
 ある。やはり、ある。しかも、四十三人の透けてる精鋭に囲まれている。もてはやされている。大人気だ。取り上げようとしたら、四十三人から、四十三人分の呪いを受けるかもしれない。むしろ、すでに付きまとわれているのだから、呪われていると言える気もする。
 さすが弘。凄いぞ弘。災いの種。
 背後からやってきたペンギンが、ぼしぼしと塵の頭を叩いた。
「諦めろと言うのか……」
 塵は再び空を見た。
 長く尾を引く白雲が、ゆっくりと過ぎて行く。
 もしかすると、この空はあの地に繋がっているのかもしれないな。
 ふと、そんな事を考えた。


                      終