<東京怪談ノベル(シングル)>


My China



「ほら、葉子ご覧よ。――クーデターだ」
 遠くで軍隊が発砲する銃撃の音が聞こえる。
 良く乾いたこの土地の空気みたいな発砲音は断続的に続いており、それは時折どこかの路地で繰り広げられては鎮圧される小競り合いなどとは比べ物にならない程の長さと、量だった。
 葉子と呼ばれた男――葉子・S・ミルノルソルンはつまらなげに眉を歪め、窓の外、そしてその傍らに立つ男の横顔を交互に眺めている。
 男は葉子よりも、ほんの少しだけ背が高い。
 縁が黒くて丸い眼鏡を掛け、遠くを見る目は少し細められている。良く身体に馴染んだ人民服の、肘と膝の部分が少しほつれてきていた。また縫ってやらないと――ぼんやりと、葉子はそんな事を考えている。
「もう共産党員も、逃げたり隠れたりする事は出来ないだろうね……まあ、そんな気は起きないだろうけど」
 まるで他人事のようにそう云うので、
「うん」
 つまらなげながらも、葉子は思わず肯定してしまう。
 頷いた後で、漸く気が付いたのだった。
 このクーデターは、彼自身の戦いでもあることを。

 決して小さくはないこの街で生まれ育った彼――葉子の契約主は、共産党員の父親と母親の間に生まれ、幼い頃からそう云った類いの躾を施されて大人になった。
 こまごまとした生活雑貨――時計や調理器具、大工用品に自転車など――そんなものの修理をする事で生計を立てている。生活は豊かなものではなかったが、この国にはもっと貧しい人たちや、死ごとにありつけない人たちも沢山いる。それが彼の口癖だった。
 この男の契約に乗ったのは、あまりに無欲な彼の生き方に葉子自身が興味を持ってしまったからだった。
 酒も煙草も、皆が未だに隠れてやっている阿片も賭事もやらない。
 ただ毎日を淡々と働き、生活し、こつこつと溜めた給料を父親と母親に送ってやる。唯一の楽しみと云えば、同胞である共産党員とちょっとした政治の話しをするくらいのものだった。
 この男は、何を楽しみに生きているのだろう。
 葉子はただ単純に、この男という心理の仕組みについて、深い好奇を寄せたのだった。
「さて……今日は仕事にならないかもな」
 一頻り、窓の外。
 ずっと遠くで今なお響いている銃撃に耳を傾けたあとで、男がイスの背凭れに掛けた上着に手を伸ばした。
 唖然とした葉子が、そのまま慌てて男の手を制する。
「ちょ、ちょっと待ちなよ…! まさかアンタ」
 あからさまに、馬鹿げているという心境を声音に乗せて葉子は問う。
 男が店を出しているのはこの通りの向こう、今まさに銃撃が行われている辺りなのだった。
 何か、と云った工合に男は首を傾いで問い返す。
 ぽかんとまぬけに口を開けたままで、葉子は男と上着を真ん中に向きあう形のままで立ち尽くしていた。
「……アンタ、いつか死ぬヨー…?」
「当たり前だろう葉子。人はいつか死ぬんだ、お前とは違う」
 薄い口唇を楽しそうに引き上げて男が笑った。
「俺達は、この国の人民なんだ。人民としての誇りと自由の為に生きている。……いいか、俺達は死ぬ為に生きているんじゃない。自由の為に生きているんだ」
 今まさに銃撃戦の最中、仕事に出掛けようとしている男の、そんなさばさばとした笑顔に、葉子は何も言えなくなってその手を離す。
 しばらくは背中で、男の身支度の音をじっと聞いていた。
「葉子」
 男が問う。
「お前、賭事の神様の弟子なんだろう」
「……弟子、ってゆうか…」
 葉子は口ごもる。
 いつもの事だった。神と悪魔。そんな概念は、この国にはない。
 地獄の悪魔に仕える悪魔、そんな言い方で自分の身の上を説明する葉子に男はいつも「賭事の神様の弟子」と云う言い方で返すのだった。
 人が持ち得ぬ力を持つ存在を、この国では十把一からげに「神」と総称するらしい。
「それならな、葉子。言い方を変えようか」
 男は上着を着込み、部屋のカーテンを閉める。朝昼の光を葉子がそれほど好まない事を知って、彼は毎日仕事に出る前にそうしていくのが日課なのだ。
「俺は、この命を賭けている。……お前がいるから、きっと俺は今日も死なない」
 男が云った。
 葉子は、何も言えないまま、怒ったような顔でテーブルの上をじっと睨み付けているだけだった。

 この街に誕生した臨時政府が今、クーデターによって倒立させられようとしている。
 男の仲間は今までにも沢山死んで来たし、おそらくは今日以降も死ぬだろう。
 人々がそれぞれに信じる自由の為に、たくさんの血が流れ、たくさんの死体が生きるものの踵に踏みつぶされて山となる。
 そうまでして守らなければならない己というものを、葉子は理解しえなかった。
 そしておそらく、それ以降もしえないのだろう。

 契約主の気配は、例え遠く離れた距離にいたとしても感じ取る事ができる。
 男の気配は、漸く辿り着いた自分の店先の辺りで大きく揺れて、しばらくの膠着の後で、

 不意に途切れた。

 国民党北伐軍と紅幇、それに青幇による市街地の掃討。
 私刑を受けている仲間を庇い彼らの怒りをかった葉子の契約主は、まるで道端の薄汚いのら犬をいたぶるが如く嬲り蹴られ、泥と軍靴の跡にまみれて絶命した。
 その遺体は、半日もの間、彼の店先に放置されたままだったという。
 皆が皆、自分の命を守る事に精一杯で、既にこときれた彼の遺体を慮る者など存在しなかったからだ。
 夕方になり、葉子が店先に男の遺体を引き取りに来た。
 優しさと余裕、そして力強さに溢れていた男の面影はもう無く、ただ使い古されたぼろ雑巾のようにちぢこまり、汚れたただの肉となっていたのだった。

 これが最後と知っていながら、それでも男を仕事に行かせた事。
 それは、葉子なりの男への結論だった。
 葉子が恐れを感じる程に、そして、魅了される程に無欲で真っすぐだった契約主への、葉子が顕した敬意のつもりであった。
 後の歴史を大きく動かした、上海クーデターである。
 労働者や共産党員の残党狩りは熾烈を極めるものとなったろうし、そんな中、ただ自分の命を守る為に逃げおおせるような契約主でない事は葉子自身が一番良く知っているつもりだったからだ。
 男は、自分の同胞を守って命を落とした。
 それ以上の何でも無かったが、それ以下の何でも無かった。

 男の遺体は部屋で洗った。
 弔う者などいない。葉子なりの考え方で、葉子なりの敬意や愛情を湛えた方法で男の身体を清めて行く。
 一度だけ、その首筋に歯を宛てた。
 既に骸となって半日以上が経過していた男の血液を、拒否反応が出るかもしれない事を鑑みることはせずに僅か、吸った。
 これで男の一部が、自分を活かすと思った。
 永遠とも思える自分の生の中で、例え一瞬でも男と交わりを持った事を現す、ただ一雫の紅、だった。

 服の裾で拭った白骨を抱いて、眠る。
 自分の背丈よりも大きな体躯を持っていた男が今、ただ頭蓋のみとなって葉子の腕にすっぽりと収まっている。
 そして葉子の身体には、男の紅がゆっくりと流れている。
 すっかり酸素を失ってどす黒く変色していたあの一筋が、今は葉子の骨肉の一部となって彼を活かしている。
 心の臓に、男の雫。
 両腕に、男の頭蓋。
 ただうっとりと、葉子はその目を閉じる。
 その青白い頬は燭台に照らされて、いつまでも橙を躍らせていた。

(了)