<東京怪談ノベル(シングル)>
未来をきずくもの
■
家路を急ぐ西の空が、鮮やかなだいだい色に染まり上がるのを見るのが好きだった。
一日の半分以上を、スティラは遠視の師匠である老婆の家で過ごす。
師匠と云っても、特に何を修業するというものでもない。大きな雲がゆっくりと流れて行くのを一日中眺めている日もあったし、老婆に教わりながら鍋いっぱいのシチューを拵えて兄に持ち帰るようなこともあった。
老婆はスティラに対して、怒りや憤りを露にすることがない。
里の人々は彼女を変わり者と呼び、よほどのことがない限りは関係を持ちたがらないが、自分にはいつも優しい眼差しを向けてくれる彼女をスティラは好きだった。
太陽が頭頂に上がる少し前に彼女の家に向かい、日が暮れるまでさまざまな話しをする。
帰り道、老婆が語ったたくさんの思い出や記憶、そして教訓などを思い起こしながら、静かに暮れて行く大きな夕日を遠くに眺めて歩くのが、スティラは好きだった。
「あんた、わたしんところで遠視を学びなさい。ついでに文字の読み書きも教えてあげる」
ある日突然やってきた老婆がスティラにそう告げたのは、父親と母親が亡くなってから半年が経とうとしていたころだった。
幼いスティラは、兄について里で小さな仕事を引受けるわけにもいかず、毎日ただ兄に頼って生活することを心苦しいと感じ始めていた。
彼とて、未だ幼い少年であった。たかが子供二人分の食いぶちとは云え、彼一人でそれを賄って生きていくにはあまりにも重荷すぎる。
スティラが老婆の言葉の通りに修業を始めたのは、決して才能の有無を確信したからではなかった。
どちらかと云うと、文字の読み書きを教えてくれるという言葉に惹かれて老婆の家の扉を叩いた。読み書きさえできれば、自分にもできる仕事が見つかるかもしれない。そんな小さな希望を持ってのことだった。
「あんたんとこのお兄ちゃんを、町で昨日見かけたよ。ずいぶん痩せちまったじゃないか、これを持ってお行き」
そう云って、篭いっぱいに盛ったぶどうパンを持たせてくれることもあった。
幼い兄妹はその頃、里一番の気難し屋と呼ばれていた遠視の老婆に育てられたと云っても過言ではないだろう。
毎日、兄は里で幾許かの日銭のために働く。
スティラは老婆の家で彼女の話を聴き、帰りにパンやバター、干し肉を持たされて帰ってくる。
決して裕福ではなかった。
が、決して、心は貧しくはなかった。
■
それから、何度目かの季節を迎えようとしていた頃。
兄妹はただ幼いだけの二人ではなくなり始めていた。
兄は少しずつ精悍さを増し、元来の生真面目さも相まって少しずつ手取りの賃金が高くなっていく。
スティラも少しずつ成長していき、里一番の器量良しと囁かれるほどの美しさを備えるまでになった。
それでも相変わらず、スティラは老婆の家へと通っている。
老婆の家で彼女の食事を作ってやり、話しの相手になり、庭の手入れを代わってやり、市場へ買い物へも行く。
出会った頃に比べて、老婆の言葉や背筋から少しずつ覇気が失われていくのを、スティラは何も云わずにただ見守っていた。
老いという名の重石が、少しずつ老婆の自由を搦め捕っていく。
力無い咳を耳にするたびスティラの心は深く沈み、例えようのない不安に押しつぶされそうになるのだった。
その頃になると、老婆とスティラの間では、遠視について語られることは殆どなくなっていた。
時折、誰もいないキッチンや庭の隅で、老婆から学んだままの方法をなぞって遠視に挑んでみることもある。
が、磨き上げたガラス窓はいつもスティラを遠視へと導かないし、枯れ葉浮く小さな溜まりはじっと沈黙を保つままだった。遠視が全く利かないのである。
「良いかい、スティラ。遠視をするのは、人んちの家の扉が開くのをじっと待つのとおんなじだ。自分から開けるんじゃない。じっと、中から開けてもらえるのを待つんだよ」
だから、焦ってはいけない。
そんな言葉は幾許かスティラの心を軽くすることもあったが、思い出すたいていは眩暈のような絶望を感じることが多かった。
自分には、遠視の能力など備わっていないのではないだろうか――老婆は、スティラに遠視の力がないことを早々に見抜き、それでふっつりと遠視の話題をしなくなったのではないだろうか。
そう考えるたび、スティラは老婆に申し訳のない気持ちになる。
それでも、もう老婆の家に通うまいと云う気持ちにはならなかった。小さくしぼんだ老婆の背中を見つめるたび、自分の中にある彼女への愛情を感じることができた。
幼いうちに両親をなくし、身寄りを失った自分たちを、まるで本当の肉親のように育ててくれたのは彼女だ。
自分が老婆の期待に応えられないことをスティラは哀しんだが、その反面、こうしていつまでも師匠の側にいられることを幸せに思っていたのも事実である。
■
その日、いつものようにスティラは老婆の家に向った。
前日の雨が空気中の不純物を押し流してしまったらしい。柔らかな日差しが濡れた青葉をきらきらと照らし、いつになく景色が美しく見えた。
こんな日なら、ここ数日臥しがちだった師匠も外に出られるかもしれない。
淡い期待を胸に、扉を叩いた。
「おはようございます。ねえ、今日は――」
その瞬間。
胸を突く、一筋の小針のような痛みが、あった。
「………!?」
それを感じたすぐ後で、自分の心の扉が勢い良く開き放たれたような錯覚に陥った。
足を踏み入れた筈の室内の景色が遠くなり、目を閉じる。
闇が一瞬でまばゆい白に弾け、代わりに違う光景が瞳の奥に飛び込んで来る。
庭。
今は青々と茂っている筈のポプラの木から、はらはらと赤い葉が落ちている。
時刻は夕刻、そのポプラの根元を見下す少女の後ろ姿が見える。
少女が何を見下しているのかが良く見えなくて、スティラは良く良く目を凝らす。
細い肩越しに、少女の視線を辿って土上を見下すと、そこには十字に組み合わされた小さな小枝がある。
墓標、だ。
心の眼を見開き、スティラがびっくりして少女を見上げる。
それは、沈痛な面持ちで口唇を噛みしめている、自分自身、だった。
「………!!」
咄嗟に言葉を発することができず、スティラは両手で自分の口許を押さえた。
今よりさらにいくつか先の景色の空気、その冷たさまで頬に感じることができる。
柔らかな髪がなびいていた。
夕日に頬を照らさせ、ずっかりと肩を落とした眼前の自分は眼を伏せている。
今よりも少しだけ大人びて、少しだけ背が高くなっていた。
老婆の――師匠の家の裏庭である筈なのに、彼女の姿はなかった。
それは、彼女の為の墓標であったのだ。
「――ああ、スティラ」
弱々しく乾いた老婆の声が耳を掠める。
この声音に、スティラは現実の世界へと急速に引き戻された。
はっとして、数度眼を目を瞬かせれば、軋む揺り椅子の背凭れにすっぽりと隠れてしまう老婆の痩せた肩が見えた。
「……いきなりじゃあ、びっくりしただろう。でもね、」
あんたはいつか、それが見えるってちゃんと判ってたよ。
老婆はゆっくりと振り返り、大きな目に涙を溜めて震えているスティラに優しく笑いかけた。
■
「遠視師なんて、なるものじゃないってずっと思ってたさ――誰が好き好んで、人の生き死になんてむやみやたらに知りたがるって云うんだい?」
スティラは目を伏せる。
シーツの上で重ねられている枯れ葉のような老婆の手の上に、さらに自分の手をそっと重ねた。柔らかな皮をゆっくりと撫でてやった後で、サイドテーブルの上にあるリンゴの実に手を伸ばした。
「でもねえあたしは、……自分の最期を『見た』とき初めて、ああ…遠視ができて良かったなあ……って思ったよ」
果物ナイフで、器用に真っ赤なリンゴの皮を剥く。
視界の端で老婆がじっと、窓の外に視線を投げているのを見ていた。
少しでも何かを言葉にしようとしたら、泣きだしてしまいそうだった。
「……おっかしいねえ、自分の死に際なんか知っちまったのにねえ――あんたみたいな子が、あたしみたいに好き勝手やってきたばばあの最期を看取ってくれるなんざ……」
スティラが見たのは、そう遠くない未来の光景だった。
今、自分の前で弱々しい咳をする老婆の最期。
老婆はスティラがそれを『見る』よりもずっと前からそれを知っていて、だから彼女を自分の側に置いたのだった。
「あんたには力がある。いつかあたしなんかよりもずっと実力のある遠視師になる……だから、泣いちゃいけない。これからはあんたが未来を『見』て、あんたが自分の歩く道を探して行かなきゃいけないよ」
老婆に諭され初めて、スティラはすでに自分がほろほろと涙を零していることに気がつく。
リンゴの皮の鮮やかな赤が揺れていた。
「泣くのはおよし。涙で大切なものが見えなくなっちまう」
スティラは頷く。
頷きながら、漸く剥き終えたリンゴの欠片を、老婆の手に握らせてやった。
「――そうか、もうすぐ……秋なんだねえ……」
皺々の口許を綻ばせ、老婆が目を細めて笑う。
拭っても拭ってもあとから溢れる涙をこらえきれずに、スティラは老婆の膝に顔をうずめた。
愛する師匠の死。
それがスティラ・クゥ・レイシズの、最初の遠視、であった。
(了)
|
|