<PCシチュエーションノベル(ツイン)>
未来をかけるもの
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朝靄の白濁を、手習いの鉛剣が斬る。
切っ先が上から下に素早く振り下ろされるとき、山の空気を真っ白に染め上げる濃密な蒸気が真空に断たれるのである。
かつて、海を割った賢者が存在したと云う。
彼が節くれ立った杖を天に翳して祈りを捧げると、大海は貧しく正しい者たちのために左右に裂け、生きるための路を彼らの前に指し示した。
十戒、そんな訓戒と約束の許に。
「………っ十九、千五百…二十っ」
少年――フィセル・クゥ・レイシズが鈍い剣を振り下ろすたび、靄と靄の白濁の隙間に透明の真空が生まれる。
その様子はまさに、裂けた海さえ思わせる光景であった。
両親が亡くなっていくらかしたあとで、彼はスティラ――大切な妹との生活を守るためにと里で日払の簡単な仕事を探すようになっていた。
たいていは、無力で幼い少年に耐えうる単純な労働である。子供のお守りや届けもの、老人の世話など。どんな非力な者にでもこなし得る仕事ばかりだ。
フィセル兄妹を不憫に思って与えるか、いくばくかのはした金を払って時間を惜しむ者が投げやりに与えるか、どちらかだった。
日払の仕事は、ありつける日とそうでない日とがある。
その反面、毎朝、里の住人に牛乳を運ぶ仕事は、特定の技術や修練を持たぬ若い者たちが競って選ぶ格好の週給職である。一度ありつけば、少なくとも一週間は仕事にあぶれることが無いからだ。
が、あまりに年幼く腕力にも乏しい小さなフィセルには、それすら遠い夢のまた夢でもあったのだった。彼には、牛乳瓶を詰めた篭を持ち上げることができない。それを担いで、里の端から端までを走る脚力もない。
体躯のできあがった年上の青年や、同世代の少年たちを思うと心が痛かった。
――彼らほどの腕力や脚力があれば、自分にも妹を養うことができるのに。
もともと社交的ではなかった彼の性格は、その頃さらに深く沈み込むようになっていた。
里の者と擦れ違っても、目を合わせることをしない。
妹の笑顔ですらも、疎ましく感じてしまう。
フィセルが十二の年の声を聞くほどの頃。
剣の師匠と出会い、彼の許で剣術の修業をしようと思い当たったのは、その頃だった。
師匠である剣士にはすでに何人かの、フィセルよりもずっと年上の弟子がいたが、フィセルは半年も経たないうちに彼らの剣の技術を凌駕してしまっていた。
もとより、身体が小さい。
腕も細く、修練のために用いる鉛でできた重い剣を振り回すことさえ始めは困難であった。
が、彼はそれらの苦難を、影に据える凄まじいまでの努力と根性でクリアしていく。
朝はまだ暗いうちから素振りの鍛練をこなしてから、兄弟子たちと時間を合わせて師匠の家の扉を叩く。そして日払の昼仕事があるときは午後からいくらか練習を抜け、戻ってくるとまた暗くなるまで重い剣を扱い続けるのだった。
身体の節々や筋肉が軋むように痛むことは、最初の数ヶ月で慣れた。
が、日々積み重なる疲労は、フィセルの事情を理解してはくれないのだ。
まばたきをする程の睡眠、一日に消費するだけのエネルギーをまかなえぬ食事。
擦り傷や打撲は後を絶たず、そんな生々しい兄の傷跡にいたたまれなくなったスティラが食事の最中にいきなり泣きだす日もあった。
「大丈夫だよスティラ。お前だって、遠視の師匠について毎日頑張っているだろう。俺がしていることは、それと同じなのだからね」
兄が心身共に疲弊していることを知れば、衝動に負けて涙を零したスティラも、長泣きすることはない。
熱くなったまぶたを手の甲でごしごしとこすると、自分の分のパンを半分、千切って兄の皿に置く。
そんな妹の気遣いを心の拠り所としながらも、そこに紙一重の気苦労を感じとるとフィセルもまたいたたまれない気持ちになってくる。
礼の言葉もまた、二人の間にあるさまざまな苦労を互いの前に突き付けてしまうような気がして紡げないまま、噛みしめる堅いパンからは幸せと貧困の味が滲む。
兄妹の心はひっしりと繋がり合ってはいたが、その絆には貧困による気後れと敬遠の蔦が複雑に絡みついていたのだった。
■
その日は珍しく、日が暮れかからぬうちに帰路についた。
太陽はゆっくりと傾き始め、もう少しすれば劇的なまでにだいだい色に染まった夕日を見ることができるだろう。
今夜はスープを作るからとスティラが云っていた。
予定よりもずっと早い帰宅だから、おそらくまだでき上がっていないだろう。
仕度を手伝ってやれるだろうか。
そんなことを考えながら、急ぎ足で歩いていると。
――遠くに、やはり精一杯の速足なのだろう、見覚えのある老婆がよたよたと此方へ向けて歩いてくるのを、見た。
「――んた、あんた……ちょっと……」
めずらしく、慌てた様子である。
スティラが修業に出ている、遠視師の老婆であった。
フィセルが歩み寄ると、自分が背にしていた里の大山を振り返って云った。
「あの子が、岩場でおろおろしてる所が見えたよ。この時間にあんな岩場にいたんじゃあぶない。暗くなると戻ってこれなくなる」
端折りすぎる老婆の言葉に、フィセルはいぶかしげに何度か瞬きをする。
が、云わんとしていることは汲んで取れた。
――スティラが危ない。
老婆に小さく頷くと、フィセルは跳ねるように駆け出し、遠くにそびえ立つ里の霊峰に向っていく。
西の空が少しずつだいだい色に染まっていく。
フィセルは走った。
堅い岩場に足の裏を取られ転げそうになっても、文字通り跳ねあがりながら、それでも駆けた。
剣術の修業のために何度も詰めた岩山である。スティラの足で登ることができるであろう場所にも、容易く見当がついた。
――スティラ。
フィセルは強く念じる。
――スティラ、どこにいる。
どこで俺を待っている。
切り立った岩の斜面をびっしりと覆うように、背の低い針葉樹が生えている。
その林を抜け、視界が開けた岩場の上に立ち止り、肩で息をしながらフィセルが辺りを身回した。
「――っ……スティラ……!」
はたしてスティラは、彼が登ってきた岩山のさらに高く、鋭く空を刺すような細い岩崖の側にいた。
針葉樹の細く頼りない枝を左手がぎゅっと掴んでいるが、どういう訳か右手は胸の前で握る姿勢のまま伸ばさない。両手で枝を頼れば幾分か楽な体勢を取れるだろうに、スティラは片手で細い枝を掴んだまま足をすくませている。
また、そんな体勢のまま、半歩でも踏みだすと脆くなった岩肌がこそげ落ちてしまいそうだ。そうなれば、岩の隙間に根強く張った針葉樹の木ごとスティラは谷底へと落ちる。
彼女が落ちてしまう前にフィセルは幸運にもスティラを発見することができたが、不幸にも彼女が落ちてしまう前にその岩崖へ辿り着くのは不可能だった。
彼の足でさえ、そこに辿り着くまでには時間がかかるだろうし、万が一辿り着けたとしても、あの脆い岩質では二人分の体重に耐えられないだろう。
困ったように逡巡したスティラの眼差しに、目を瞠る兄の姿が映る。
「…………っ」
慌てて何かを叫ぼうとしたスティラの左手が強ばる。
と。
みしり、と音を立てるように、針葉樹の根差す岩の亀裂から先が崩れ落ちた。
「!!」
何かを叫ぼうとした口の形のまま、スティラの身体が宙を舞う。
――気が付けば、フィセルは強く岩地を蹴り、妹の身体よりも素早く宙に駆け出していた。
■
それは、一瞬の出来事だった。
フィセルの身体は、鍛えた強い脚力のまま宙を翔び、重力に引かれることがないままに高々と舞い上がった。
遠く妹の身体に向けて両手を伸ばし、指先は空気を掻くようにもがく。
彼の身体は刹那にして、若く雄々しい一匹の竜――竜眼開かれた第二の姿となり、スティラの服の一端を口に咥えて静かに岩場へと降り立ったのだった。
「・‥…―――」
できる限り、妹をそっと着地させようと努めたあと、すぐにフィセルの竜眼は閉じられた。
次いで自身が着地しようとした勢いのまま、フィセルは竜の身体からヒトの身体へと戻り、崩れ落ちるように堅い岩盤に膝を突く。
両足に襲った鋭い痛みに顔をしかめたが、初めて開いた竜眼に対する激しい疲労は受け身の姿勢すら彼に取らせない。
冷たい岩肌に頬を打ち付けるままぐったりと弛緩していると、背中から小さな腕がぎゅっと自分にしがみついた。
「――っお兄ちゃん・‥!!」
平素の彼女のものとは思えぬ強い力に腰を締められ、フィセルは不意の痛みに眉を顰める。
筆舌尽くしがたい疲労に、それでもフィセルは上体をよじり、妹の身に怪我は無かったかと彼女を見上げた。
スティラの手のひらもまた、針葉樹のしなやかな枝に擦れてうっすらと血を滲ませていた。
「・‥…危ないだろう、どうして………」
自分でもびっくりするほどの掠れた声で、フィセルは妹に問う。
溢れ出した涙が頬にほろほろと零れていくのを、スティラが右手の甲でぬぐったとき。
――ああ。
フィセルは息を呑んだ。
その右手には、彼女の小さな手のひらいっぱいに岩草が握り締められていたからだった。
「…………お前……」
フィセルが、継ぐ言葉を途切れさせた。
岩草は竜族に伝わる万能薬である。
練り薬にして傷口に塗れば、傷の治りが早くなる。煎じて呑めば冷えから来る疾患に悩まされぬようになるし、煮て食べれば疲労が立ち所に消える。
――今夜は、スープを作るからね。
そんなスティラの言葉が、鈍く痛みを訴える脳裏に思い起こされた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……お兄ちゃん…ごめんなさい……」
スティラが繰り返す。
握り締めすぎたせいだろう、
岩草は少ししおれかけていた。
「もっと、怪我させちゃって……ご飯、遅れちゃって……疲れさせちゃって……ごめんなさい……」
今さらながらに腰を抜かし、がくがくと震えはじめたスティラが、フィセルにしがみついてわんわんと泣きだす。
そんな妹の肩を撫でてやりながら、フィセルはため息とともに苦笑した。
「助かったんだから、謝らなくていい」
そんな言葉を耳にして、スティラがなおさらに溢れ出す涙をこらえ切れずふるふると首を振る。
「その薬草は、だからとりあえず……明日の朝も出掛けられるように、帰ったら膝に使ってくれ」
日は、既に暮れてしまっている。
二人で下りるなら、下山もそれほど厳しくはないだろう。
尚もしゃくりあげて泣いているスティラの手を引いて、フィセルはふらつく四肢に力を込める。
自分には、竜族の血が流れているのだ。
何度も心に思い浮かべていた決心を、フィセルはまた新たにする。
剣を学ぶことが、いつか自分を竜族の答えに導くだろう。
妹を守ることが、いつか自分を強い男に育てあげるだろう。
未だ小さく、しなやかさ残る少年が体験した初めての飛翔は、彼を大人の竜族へと導いていく。
妹の手を握る右手の指に、ほんの少しだけ力が篭った。
(了)
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