<東京怪談ノベル(シングル)>
最後の日
今日でこの部屋ともお別れなのだ。そう思うと、なんだかしみじみとしてしまって、ラピス・リンディアはゆっくりと部屋の中を見まわした。
城内に与えられた部屋だけあって、ひとりで寝起きするにはじゅうぶん過ぎるほどの広さがあり、調度品も自分にはもったいないくらいに豪華だ。
ものに対して執着する気持ちはさほどないが、それでも、人生の半分ほどを暮らしたこの部屋から離れるのは、寂しいような、そんな気がしていた。
「……ラピス、やっぱり、僕に黙って出て行くつもりだったんだね?」
そんなとき、音もなく扉が開いて、そのわずかな隙間から青年が身をすべりこませてきた。
夜着をまとっているものの、ひと目で高貴な血筋につらなるものだとわかるその面差しに、思わずラピスは膝をついた。
「ほかに誰もいないというのに、そんな形式ばった真似、する必要はないのではないかと思うのだけど」
「いえ……、ですが、王子。私はあなたに仕える身。人がいようといまいと、それに変わりはございません」
「……ラピス」
王子は悲しげにつぶやくと、ラピスの前に膝をついて、そっとラピスを抱きしめてくる。
「王子……なりません」
ラピスはいやいやと首を振った。
そう、いけないのだ。
彼は王子――穢れた魔族の血を引くこの身に触れていいような、そんな相手ではない。
「僕は今ほど、この身分を憎んだことはないよ」
「……私もです。幾度我が身を呪ったことかわかりません……けれど、今ほど、呪ったことはありません」
ラピスはしぼりだすような声音でつぶやいた。
ラピスは、今夜、この城を出て行く。そして、もう、戻らない。
ラピスは魔族と人間の間にうまれた、呪われたさだめを持つ娘なのだった。人間の血が濃いおかげで、人間に近い心を持ってはいるが、それでも、彼女は魔族なのだ。人間ではない。
王子はそのようなことは気にしない、これからもこの国のために働いてくれと言う。
女王も、あなたはこの国に必要な人材なのだから、気にすることなどないのだと言う。
その言葉そのものは、ラピスにとってありがたい。
けれども、だからこそ、迷惑をかけることがあってはならないと――そう思い、ラピスは出て行くことを決意しtのだった。
「止めはしないから……ひとつ、約束してくれないか」
王子が顔をあげもせず、ささやくような声音で口にする。
ラピスは小さくうなずいた。気配でそれが伝わったのか、王子がふたたび口を開く。
「この部屋は、ずっと、そのままにしておく。誰も触れさせはしない。そのままに残しておく。だから……いつか、帰ってきてくれないか」
「……それは……」
ラピスは言葉につまった。
いつでも帰ってきていい、というのは、たしかにありがたい。
既に故郷を追われた身にとって、これほどありがたいことはないと言ってもいい。
けれども、甘えるわけにはいかなかった。
「……いつか、もしも、この身から魔族の血を消し去ることができたなら、帰ってきます」
そんなことが叶うはずはない。ラピス自身、それはよくわかっていた。
けれども、どうにかして、王子や女王の愛情に応えたかったのだ。
「なにに誓う?」
「……あなたの与えてくださった、この名に」
ラピスはこうべを垂れて、胸の前で聖印をきった。
かつて、みなしごであり、魔物の子だと恐れられていたラピスを見出し、城へ連れ帰り、新たな名を与えてくれたのは目の前にいる王子だった。
その相手に誓うのならば、やはり、名に誓うべきだろう、とラピスは思う。
その意図を察したのか、王子はラピスの頭を優しくなでる。
「何年でも待っている。だから……必ず……」
「……はい」
ラピスはうなずくと、立ち上がった。
荷物はすでにまとめてある。それをつかむと、夜闇にまぎれて動けるようにと用意しておいた外套をはおった。
「……気をつけて」
王子はそれだけ言った。
ラピスは振り返って無言でうなずくと、また前を向き、窓の方へと向かった。
そして、窓から外に出る。
今夜は月のない夜だった。ラピスは闇にまぎれて、城の外へと向かう。
きっと見えなくなるまで、いや、見えなくなっても、王子はあのまま自分を見つめているのだろう、とラピスは思った。
けれども、ラピスが振り返ることは、なかった。
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