<東京怪談ノベル(シングル)>


降り積もる歌声

 もう駄目だと思った。
 痛みと苦しみ。背中にあるべきものを失う恐ろしさ。
 今の自分を思う時、常に思い出すのはあの時のこと。楽師として生きることを誓ったあの日のことを。
 俺はボンヤリとした視界に手を振ると、瞼を完全に閉じた。セピア色の夢が折重なるように、記憶を連ねていく。
 夢を見ていた。

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「もういいっ! 放っておいてよ」
 乱暴に振り払った優しい手。遠ざかっていく人の姿を目の端に捕らえながらも、動くことはできなかった。
 橋の欄干。美しく正方形に整えられた石が積み上げられ、アーチを描く石橋。もたれかかって見る夢などありはしない。不運だったと言ってしまえば、それだけだったのかもしれない。
 けれど――。
「どうした? ひどい怪我じゃないか……もう、血は止まってるがこりゃぁー」
「あっちに行ってよ。関係ないじゃないか!」
 近寄ってきたのはひどい身なりの男だった。手には手製だろうか? 見たこともない楽器らしきものを持っていた。
「もう治らない。知ってるから、もう放っておいて……」
 俺には羽があった。一対の白い翼。今は右半分になって、左は萎れた花のようにただ背中についているだけ。治療するだけの勇気はなかった。この世の中に翼を再生できる医者がいることも知らないし、もう二度と生え揃うことはないと言われた時、俺は本当にどうすればいいのか分からなくなるから。
 フラフラとさ迷い、自らの不愚を呪うしか生きる意味を見出せないでいた。
「もういいから」
 そう繰り返す俺の腕を掴んで、流浪の男は俺を欄干に座らせた。
「まあ、そう言うな。怪我を気にしているのに悪かったな……。私は一応楽師でね」
「楽…師?」
「興味があるかね? ほら、私の商売道具さ」
 関わらないでいようと思った。しかし、彼の持っているものが何か知りたくなった。楽師という職業にも。
「触ってみてもいい? これは楽器なの?」
「ああ、ここの弦を爪弾くと綺麗な音がするのさ」
 彼は身を乗り出した俺に細く光に輝く弦を触らせてくれた。僅かに指先が触れただけなのに、耳に心地よい音階が辺りに広がった。
「すごい……」
「じゃあ、弾いてみよう」
 紡がれていくのは音楽。音色の間に景色が見えるほどに洗練されたメロディ。それは時に切なく、時に甘く、俺の胸に暖かな風を招き入れた。 自然に俺は惹かれていた。彼の紡ぎ出す音に。
 そして、唇が動き出す。
  『永久にと願いしこの白き 翼失い水面に揺らぐ   
   それでも生きよと     天の声
   闇と光のその狭間    目を閉じ降るは音の調べ
   爪弾く心の声に従い   今、欄干に降り注ぐ    』

 もうどうでもいいと自暴自棄になっていた気持ちが昇華されていく。
 謳う度に、言葉を旋律に乗せて飛ばしていく度に、心が穏やかで満たされていく。音楽にこんな力があるなんて知らなかった。
 そして何より、自分が歌うことが好きだったなんて知らなかった。
 今までずっと。

「なんだ。素晴らしい歌声を持っているじゃないか。実際見たことはないが、天使がいたならきっとお前さんのように美しい声なんだろうな」
「俺の……声?」
「そうだよ。私はもう歌いたくても歌えないんだ――楽師なのにね」
「どうして? あっ…聞いちゃいけなかった?」
 彼は首をに振ると「喉をやられてね」と言った。でも、彼の顔は晴れやかだった。音楽と共に生きる楽師。声は命だろうに、それを失ってもなお自信と誇りを失わない彼はすごいと思った。
「失ってからたくさんのことに気づかされた。周囲の人の優しさや本当に自分が音楽を愛していたんだってことに」

 手を振る。見えなくなるまで。
 俺は医者を探すことを心に決めた。目の前に開けたのは道。楽師という名の道。
「俺も、俺も楽師になるよーーー!!」
 叫んだ声はもう届かない。再び旅立っていく後ろ姿を見つめた。自分もきっとなってみせる彼のように、人の心を癒すことのできる楽師に。

                          +

 天は見捨てなかった。
 すっかり生え揃った白い翼。楽器を爪弾く才能はまだ未熟。けれど、歌うことを愛している。
「ふぁ〜、よく寝た。彼は今ごろどこにいるのかなぁ……」
 思い出に彩られた夢。
 今日も待ち角に立つ俺に、再び新しい朝を与えてくれた。
 奇跡は何度でも起こるはずだから。胸に降り積もる歌声のように――。


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 初めまして。そして遅れてしまい申し訳ありません。ライターの杜野天音です。
 狂歌さんの口調は掲示板を参考にさせて頂きましたが、イメージは崩れていませんでしょうか?
 初めての方を描写する時はいつも緊張してしまいます。如何でしたでしょう。気に入って頂ければ幸いです。
 また会える日をお待ちしています。ありがとうございました(*^-^*)