<東京怪談ノベル(シングル)>


兎とクローバー

1. 始まり

 暗く青い空が泣きそうな目でスラッシュを見ていた。スラッシュは窓の半分だけかかった白いカーテンから花の影を浴び、、ふとガラスの向こうに鋭い銀の目を細めた。粉雪が湧き上がる。行き交う常夏の人々。彼らは、皆急いでいた。スラッシュはその手に持ったカップの香りを嗅ぐ。空へと消える煙。数席あるカフェバーは、早朝のためか、人がひどく少ない。二、三席しか埋まっていないこの虚ろな空間と、外の仕込みをする人々の慌しさは対照的で、カフェに流れる雅な音楽とともにスラッシュは目を伏せた。夜が明ける。真っ赤な太陽。紅い光彩は、大通りを濡らして向かい側の黒く暗幕が垂れ下がった店のウィンドウの色も変えた。
「……ウサギは…寂しいと死ぬんだったけな……」
 スラッシュは呟く。季節外れに薄く積もった白雪と紅がスラッシュの感傷を呼び起こした。


2. 過去へ

「最近、果物がよく獲れないのよ」
と、目の前の女がぼやいた。砂煙が始終巻き起こる露天の前。スラッシュは目を細めながら聞いていた。陽はまだ高く、昼よりはまだ少し早い時間帯。空に雲はいつもどおり全くなく、空気が乾燥している。スラッシュは口を覆う布の上に手を当て咳を二、三度した。
「……それは…仕方ない…だろう」
「まあねえ」
 女店主もカラリと笑い、スラッシュから先に頼まれていたトマトとレタス、それからパンを渡した。スラッシュは黙したまま、外套のポケットからコインを三枚店主へと差し出す。女店主はその日焼けした顔を豪気に歪め、「まいどっ」と声を張り上げた。スラッシュは外套を翻す。
「あ、スラッシュにいちゃんっ」
 振り返った先には少女がいた。七、八歳くらいだろうか。スラッシュと目が合うとパッと目を輝かせた。腕の中に目を瞑った白い兎を抱きかかえている。
「あ……」
「あのね、にいちゃん、このこ、さっきもりでひろってきたんだけど、ぐったりしたままうごかないの。どうしてかな?」
 泣きそうな目で見上げられて、スラッシュは腰を落とした。その腕の中の白いものに用心深く触れる。兎はビクッと体を動かすが、それ以上の元気はないようだ。見れば、後ろの足一本が赤く染まっている。
「……怪我を……しているようだ。見た所…そんなに深くはないようだが…すぐに手当てをしてやった方が良い」
「でも……っ!!おうちにそんなおくすりなんてないよ?」
「薬草なら…確か…森にある。後で採りに行けば………。っ!!」
 少女は、スラッシュの言葉が終わらぬうちに走り出してしまった。スラッシュは、軽く舌打ちをし、駆け出す。銀色の髪が揺れた。

 少女に追いついたのは森だった。肩で息をし、スラッシュは静かに少女を睨む。少女はビクッと肩を揺らしたが、スラッシュが背を押し、立たせようとすると首を左右に大きく振った。スラッシュは軽くため息を吐く。
「……わかった。じゃ…俺が薬草を探してくるから…そこを動くな。……絶対だぞ」
 少女は小さく首を縦に動かした。スラッシュはそれを確認すると、トマトやレタス、パンが入った紙袋を少女に手渡した。
「……絶対だぞ」
 スラッシュは呟き、砂避けのマントの裾で弧を描き、森の奥に向かった。

 その森は、スラッシュのいる町から東へ出るとすぐのところにあるものだが、背が高い木が多いためか昼間でも陽が薄闇ほどにしか差さない。スラッシュは、膝丈まで伸びた雑草を踏み分け、やや高く盛り上がった土に埋められている大木へと急ぐ。四半刻歩くと、それは完全に目視できるようになり、頬から零れ落ちる汗を拭い、スラッシュは歩を速めた。
 大木の下には、他の雑草とは少し気色の違う緑色の大きなギザギザとした葉を持つ草が生えていた。スラッシュは、それを二、三本摘むと、即座にきた方向に返した。
 スラッシュが薬草を摘み、戻ると少女はいなくなっていた。スラッシュは軽く舌打ちをし、葉の隙間から僅かに零れ出る光の筋に目を細めた。来た方向とは逆方向に歩を進める。眦が吊り上っていた。

 少女は、そこから歩いて六半刻くらいの湖の近くにいた。その上だけパックリと開いた緑のために光が湖底をそのまま映し、青く輝いている。スラッシュはその眩しさに二、三度瞬きをすると、その湖底のすぐ横に膝まずいている少女の肩を強く掴む。少女の顔を覗き込んだ。
 少女の横顔は前方を見たきり、動かない。時折、七色の光を放ち、小波を立てる水面に見入っている。スラッシュは軽くため息を吐いた。その横に静かに座る。放心している少女の腕から兎を慎重に放し、持っている薬草を石で磨り潰し草に塗りつけた後、丁寧に足に巻きつけた。そして、今度は軽く肩を叩く。
「……おい」
「……えっ!?あっ!!スラッシュにいちゃん……」
「……ふう」
「ご、ごめん……」
「……いいから。早く帰らないと…お母さんが心配する」
「う……うん」
 そう言いながらも、何度も湖の方を見る少女に、スラッシュはまたため息を吐いた。
「……また…ヒマな時にでも連れて来てやるから」
「う、うんっ!!」
 少女は輝くような笑顔で言った。スラッシュと少女は兎と食料を交換し、家路に着いた。少女は、兎の温かさに触れると小さく「……ごめんなさい」と呟いた。

 三日後。
 スラッシュが自分の工房で働いていると、戸口に誰かが立った。あの時の少女だ。スラッシュは機械を扱い、真っ黒になった掌を返し、腕で額の汗を拭った。お昼時に近い。上がってきた温度に少し眉を顰めた。少女は、怪我をしていた兎を腕の中でまた包み込んでいる。だが、その紅い目はしっかりと見開かれ、スラッシュを不思議そうに見つめると、その長い耳をぴくぴくと動かした。
「……元気に…なったようだな」
「うんっ!!」
 少女は笑う。スラッシュは壁に垂らしてある白いタオルを一枚顔に取って、少し擦りつけると、少女の方に向いた。
「……行くか」
「うんっ!!」
 少女は笑った。

「あのね、このうさぎね、なまえをつけたのっ!!」
「……あのな…すぐに返すものに名をつけても仕方が無いだろう……」
 少女と森に行くすがら、街道を歩く途中。二人は、今日も快晴な空の下、顔を突き合わせていた。少女がスラッシュの背に合わせて背伸びしながら歩いているためだ。スラッシュも少しだけ腰を屈めている。
「だってねっ!!おかあさんがいってたの。ぜんぶのものにはなまえがあるんだよって。じゃあ、このこにもなまえをつけてもよいでしょっ!?」
「それは…そうだが……」
「でっ!!このこのなまえミニちゃんっ!!ちっちゃくてかわいいからっ!!」
「……そうか」
「ね。ね。いいなまえでしょ?」
「……ああ」
「わたしね、このこがもりのどこにいてもわかるよっ!!だって、わたし、このこのことだいすきだもんっ!!」
「……ああ」
「ねえーミニちゃんもわたしのことだいすきだよねー」
 少女は兎の耳にすりすりと頬をつける。兎も心地良さそうに目を細め、少女の頬をチョロリと舐めた。少女の目にはうっすらとクマがかかり、手は多少荒れていた。
 スラッシュは黙したまま、森への道へ少女の肩を押した。

 森の入り口に着くと同時に、スラッシュは少女の肩を軽く叩いた。少女は大きく首を横に振る。スラッシュはその少女の目の高さまで腰を落とした。正面から見る。少女は涙交じりの目でスラッシュを見ている。
「……スラッシュ、にいちゃん」
「……」
「う……ううー」
 少女は雫をポロポロとその頬に落としながら、兎を一度だけ強く握り締めた。スラッシュはその顔を二度だけ叩く。
「う……ううー」
「放して…やれ……」
「う、ううー……う……ん」
 少女はその手を腰から屈め、解放した。兎がするりとその腕をすり抜ける。少女は顔を上げない。兎はぺろりとその雫を舐めて、森の茂みに走り抜けていった。スラッシュはそこでうずくまったまま顔を隠して泣く少女にずっと何も言わず付き添っていた。

「……もう…大丈夫か?」
 陽が西に傾きかけた後、スラッシュが言った。少女の泣き声はもう掠れ声に近くなっている。まだ喉が鳴くのが止まらない少女は、それでも気丈に微笑んでみせた。
「だいじょうぶだよっ」
「……そうか」
 スラッシュはそれに少し目を細めた。
「……森の湖…行ってみるか?」
「……え?」
「……約束……しただろう」
「あっ!!で……でも」
「仕事のことなら…構わない……。そんなに急ぎの…仕事でもない」
「ホ、ホント?」
「ああ…ホントだ」
 スラッシュは僅かに口端をあげ、先に森の中に歩を進め、少女を手招きした。

 森を抜け、先日のとおり、湖のあった場所に行くと、ぽっかりと空き地が広がっていた。砂煙が地から空へと上がっている。少女の目はこれ以上はないというくらい開いた。うずくまり、また目を伏せ、しゃっくり出した。スラッシュも目を細める。そして言った。
「……この湖は…砂に還っていったんだな……」
「ううーそ、それじゃ……このもりも……すぐになくなっちゃうのかな……。……ミニちゃん……も……い、いなく……な、なっちゃうのかな……」
「……」
 スラッシュは空を見上げた。少女の、兎のように二つに束ねた髪を見て、二、三度瞬きをして、目を伏せた。

 スラッシュはそれから、夜が暮れて帰宅した少女とともに家まで行って一緒に頭を下げた後、自分の工房に帰り、白い羊皮紙をテーブルの上に広げた。頭に思い描いたイメージを紙に書き写す。型紙を切り、鉄くずを鍋の中に入れて溶かす。そして型を取った容れ物に入れ、冷やす。余った歯車をそれに取り付け、くるくると回した。それは軽くて柔らかい音がした。スラッシュは口の端で少しだけ微笑んだ。

 次の日、目が覚めると、スラッシュは工房の壁で寝ていた。作業着のままだ。スラッシュは正面の刳り抜きの窓から差し込む強い陽射しに少し目を顰めた。首を振る。手早く作業着から普段着に着替えると、工房の入り口の扉を開いた。
「あ……」
 あの少女が立っていた。彼女は小さく呟き、俯いた。目がまだ赤く腫れ上がっている。クマも濃く瞼の下についていた。少女はパンと自分で自分の頬を一回叩いた。元気よく笑う。
「あ、あのねっ!!きのうはありがとうっ!!わたし、もうほんとにだいじょうぶだからっ!!そ、それであの……」
 少女の声は突然小さくなった。真ん中でキレイに割れたクローバーを差し出す。
「あ、あの……これっ!!このまえ、もりのみずうみでひろってきてたの。しあわせになれるっていうよつばのクローバー。でも、もうあのばしょなくなっちゃったから……はんぶん、これ、スラッシュおにいちゃんにあげるっ!!」
「……でもこれは……お前が探し出したものだろう」
「だって、これもってたらスラッシュにいちゃんとしあわせはんぶんこ。わたしがしあわせなときはスラッシュにいちゃんもしあわせってわかるから……」
「……ああ。……そうだな」
「うんっ!!」
 少女は笑った。スラッシュは苦笑する。徹夜で作り上げた兎のオルゴールをポケットから出す。少女の目がパチクリと動く。スラッシュは言う。
「……交換だ」
「うんっ!!これなら、なくならないねっ!!」
 少女はスラッシュの手を取り飛び跳ねた。


3. 未来へ

 雪は陽の光を浴び、水になっていた。想い出にふと心を奪われていたスラッシュは首を振る。
「……」
 道具袋からメモを取り出し、あるページで止めた。四葉のクローバーの半分。スラッシュは数瞬目を閉じる。そして開いた。席を立つ。メモを道具袋に戻して、冷えた飲み物をテーブルに置いた。
 スラッシュは真っ直ぐに出口に向かった。

『あ、あのねっ!!あのきえたみずうみは、またちがうところにあらわれたんだってっ!!それでことしはくだものがたくさんとれたっておかあさんがよろこんでたよっ!!』
 オルゴールをあげた一年後の少女の話。

 スラッシュは今のソーンの空を見上げた。