<東京怪談ノベル(シングル)>
痛みに刻む
マクドガル邸の敷地の一角で、風を切る音と鋭く息を吐く音が響く。
木々に止まって羽根を休めていた小鳥たちも、すぐ下の世界で繰り広げられている光景に目を奪われ、飛び立とうともしない。
屋敷の主人の性格を現すかの如く真っ直ぐに植えられた木々の狭間で、一人の少女がその細い脚を呼気と共に懸命に振り上げては風を鋭く裂いていた。
少女の名はジュディといった。背中からお尻にかけての愛らしいラインを訓練用のタンクトップとスパッツに包んで身体を動かすたび、陽光にきらきらと金色の髪がなびくその様は、まるで小さな獣のようだった。
燦々と照りつける太陽の下、木陰に入って休もうともせずに、ジュディは一心不乱に蹴りの型を繰り返す。汗が飛び散ってもなおその動きは止まらない。
それもこれも皆、今は遠いあの背中に一歩でも近づきたいが為だった。
ジュディが生まれてからずっとその背中は、父という名を冠していつも前にあった。
家にいるよりも、冒険に出かけたまま何日も戻らない方が多い父だったが、ジュディはその生還を今まで一度も疑った事はない。彼女の中にいる父は誰よりも強い、至上の冒険者だからだ。
そしてそれは事実だった。誰よりも強い父はいつも笑顔で家に戻り、ジュディにその冒険の顛末を、どんなに疲れていてもいつもすぐに話してくれたものだった。
ジュディはそんな父を見ているうちに、ふつふつと血が沸き上がってくるのを感じた。
強い父。憧れの父。しかし見ているだけではもうどうにもならなかった。
追いつきたい。追いついて、父のように。
その願いは行動という形でジュディを突き動かしていく。こうやって戦闘訓練も欠かさず、知識を得る為に勉学にも励み、彼女は憧れへと必死で手を伸ばしていた。
「……はぁっ…………っ」
どのくらい経ったのだろうか。
日は中天よりかなり傾き、僅かに長くなった木々の影にそっと陽射しを遮られながら、ジュディはその場に座り込んで天をあおいだ。白い肌は激しい運動のせいで赤く染まり、息も荒い。
けれどジュディの瞳は疲労にも変わらずきらきらと輝いている。
「あたし、強くなったかな。これで少し、強くなったかな?」
ジュディの問いかけに、ずっと彼女を見下ろしていた小鳥たちはそれを肯定するかのようにチチチ、と鳴いた。
「ありがとっ。……へへへっ、うん、これからも頑張る!!」
満面の笑みで返すと、小鳥たちは一斉に枝を蹴った。
羽根が舞い、木の葉がひらりと舞い落ちる中、ジュディの背後から伸びてきた大きな手が、葉の一枚を宙で掴んでジュディへとそっと差し出す。
慌ててジュディが振り向けば、そこには見慣れた優しい笑みがあった。
「お父さま!!」
ジュディの父はみずみずしい木の葉を娘に手渡すと、それと娘の驚いた顔を見比べて笑う。
「まるで今のお前のようだな、ジュディ。青々とした葉のように生きる力に溢れている。……その様子だと、修行の方は上々だったようだな」
「はい、お父さま! 鳥さんたちからも誉めてもらったの。ジュディ、頑張ってるねって!」
花のように明るい笑顔で話すジュディの頭をひと撫でし、父は屋敷へと娘を促した。
「うむ、お前が頑張っているのは私が誰より知っているよ。それでは次は書庫に行こう。今日は天候の読み方と、語学だ」
「はーいっ! それじゃあたし、先に行って本揃えてくるねっ」
止める間もなく少女はすらりと伸びた足で地面を蹴り、手近な扉をけたたましく開いてあっという間に去っていった。
父は元気な娘の姿にひとり満足げに頷くと、自身も屋敷へと戻っていく。
しかし、突如吹いた冷気を含んだ突風に空を見れば、遠くの山から黒雲が顔を出しているのが見え、彼は眉をひそめる。
「……風が呼んだか。雨が、来るな」
扉が閉じられ、誰もいなくなった庭に、また冷たい風が木々を薙ぐようにして通り過ぎていった。
静謐な空間の中、ページをめくる音だけが響く。
父が長い年月をかけて集めた図書は、今や街のそれに引けを取らない数にまで膨れ上がっていた。ジュディが背伸びしても届かないほどの本棚には数限りない蔵書がおさめられ、誰かの手が触れるのを今か今かと待ちながら、ひっそりと本の群れはあるべき場所で眠っている。
古い本の匂いが充満する重厚な部屋の中央、ぽっかりと開かれた空間にジュディは座っていた。重みのある椅子に小柄な身体を座らせて、二冊の本を交互に見ながら時折小首を傾げている。
そんなジュディの前で、父は娘の苦悩を静かに見守っていた。
「……ねえお父さま。ここの文章、こっちの例通りに訳したら意味がぜんぜんわかんない」
「ジュディは素直だな。だが、そのまま訳するのではなく、自分なりの見かたで訳するというのも必要なんだよ。もちろん、前後の文脈から判断して意味が通るようにね」
「うーん……」
「もう少し考えてみなさい。分からなかったら、私を呼べばいい。自分で考えてから、だが」
「はいっ」
勢いよく返事をした我が子の様子に満足して、父親は手にしていた書物のひとつに目を落とした。
…………しかし数分後、顔を上げた彼は瞑目する。
「ジュディ…………」
ついさっき元気な返事をしていた少女は、ぐったりと頭を書物にあずけていた。うつ伏せになったなだらかな背中が、気持ちよさそうにゆっくりと上下に動いている。きっと訓練の疲れがそうさせたのだろう。
だがそれを許すほど、父は甘くはなかった。
「起きなさい、ジュディ」
静かだが、けれど背筋を凍らせる低音で父親は言った。
ジュディはびくり、と身体を震わせ、眠気の吹き飛んだ頭で現状をどうにか把握して青ざめる。また、やってしまったのだ。
実は彼女の居眠りはこれが初めてではなかった。あまり書物を使った勉強に慣れていないせいか、どうしても文字を見ていると眠気が襲ってきてしまう。今もそうだった上に、先ほどの訓練で疲弊していた身体が睡眠という誘惑に勝てる筈もなかった。
けれどそれは言い訳にもならない。
慌てて本の上から起き上がった少女が見たものは、穏やかだが、怒りの気配を十分に漂わせている父親の顔だった。
「おっ、お父さま……ごめん、ごめんなさいっ!!」
ジュディは涙ながらに謝罪の言葉を吐く。彼女にはそれしかできなかった。
本来、父は今日も所用でいない筈だったのだが、娘の訓練に付き合う為にその用を無理に曲げてここにいるのだ。申し訳なさと自分の気の緩みに、ジュディはうなだれる。
そんな娘をじっと見ていた父親は、「お前にはお仕置きが必要なようだ」と言って手招きをした。
無論、ジュディがそれに逆らう筈もなく、のろのろと立ち上がった少女はそっとスパッツと下着を下ろし、椅子の背もたれを両手で掴んで父親にその丸みを帯びた可愛らしい尻を差し出す。
剥き出しになった白い肌を、父親は平手で叩いた。
「ぁうっ!!」
ぱぁん、という肉と肉がぶつかる音が書庫の静寂を破る。それは何度も何度も繰り返され、そのたびに白いお尻に赤い手形が残されていった。
ジュディは歯を食いしばったが、耐え切れずに悲鳴が漏れる。だが許しを請う言葉は決してもらさなかった。悪いのは彼女自身であり、それによって受ける罰は正当なものだ。許しを請う事など、ジュディは思いつきもしなかった。
ただ、与えられる罰に心と身体を震わせる。
最後に一度大きくぴしゃん、と叩いて、罰は終わった。
「……あ、…………つっ」
じんじんと響く尻の痛みに涙する娘を、怒りの消えた穏やかな目で見つめながら、父はそっと立ち上がって書庫の重い扉に手をかけた。
「ジュディ」
背を向けられたままかけられた言葉に、ジュディはびくりと涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げる。
そこにあるのは、いつもと変わらない気配を有した大きな背中だった。
「……しばらくひとりで考えてみなさい、お前の冒険者になりたいという姿勢そのものを」
それだけを残し、父親の姿は扉の向こうへと消えた。
「冒険者になりたいという……しせい………………」
ひとり残されたジュディは、暗くなった書庫の中で呆然と呟いた。
唯一ある窓からはもう日は射しておらず、雨音が聞こえる。それは瞬く間に滝のような音に変わり、書庫はざあざあという雨音に打ち鳴らされ、まるで部屋の中にまで雨が降りしきっているようにジュディには思えた。
雨。
少女の中で、雨音に導かれるように記憶が紐解かれる。
(そうだ、こんな日でさえもお父さまは戦って、そして帰って来たんだっけ)
子供の頃聞かせてもらった話が、ジュディの中でよみがえる。
あの時父は奪われた大事なものを取り返す為に今のような雨の中敵地へと赴き、死闘を繰り広げたのだという。通常ならばそんな無茶は誰もしない。しかし父は行ったのだ。
そんな彼を助けたのは、知識だ。異国の天候読みの知識により雨が途切れる時期を割り出し、上手く侵入し奇襲に成功した。異国の語学も、そこにいた賊たちの同郷の言葉を用い、油断させるのに一役買ったと聞いている。
『ジュディ、身体を鍛えるのも大切だ。だが、考え知識を得ることを疎かにしてはいけない』
いつか言われた言葉が、雷鳴と共に脳裏に轟く。
そうだ、自分は。
「…………っ、よしっ!!」
痛むお尻をどうにか椅子に乗せ、背筋を伸ばし、改めてジュディは本と向き合った。難しい文字と数字と記号の羅列は決意のこもった瞳に見据えられ、もう眠気を呼び起こす材料にさえなり得ない。
辞書と本を首っ引きで合わせ読み、内容を徐々に解き明かしていく。父の言った通りに、自分なりの解釈を入れて読めば、異国の書物はすぐにジュディの心を奪った。
分からない事が分かり、知識が脳に吸い上げられていく。
けれどやはり詰まってしまう時、ジュディは呪文のように同じ言葉を唱えた。
「覚えるんだ。……絶対、この本一冊、完璧に覚えるんだから!!」
本を一冊丸暗記したところで、父の深い知識に追いつける筈がないのは分かっていた。だが、小さな一歩でいい。前に踏み出すという事実が彼女にとっては大事だった。
座りなおすたび、そして身体を僅かに動かすだけでもびりっとした痛みが走る中、それでもジュディは冷や汗を額に浮かべて我慢する。
この程度の痛みがなんだというのだ。
「えいっ!!」
ジュディは自分で自分のお尻を、それこそ力いっぱいにつねり上げた。ヒッという呼吸音がこらえ切れずに唇からもれる。
痛い、痛い、けれど。
「……あたしは……お父さまみたいになるんだから……っ!! 頑張らなきゃ……」
ここで逃げてしまったら、きっと自分で自分が、許せない。
自分をこれ以上信じられなくなってしまう。
怠惰な自分を、今捨てる。
ジュディは痛みと共に密かな決意を得て、また本と向かい合った。
雨は徐々に、止もうとしている。
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