<聖獣界ソーン・白山羊亭冒険記>
練習曲(エチュード)
〜とある神父の思い出語りより
手を、止めた。
同時に、軽やかな音色が空間に余韻を引き伸ばし――そうしてついに、全ての音が、途切れる。
……それは、
「――セシールさん?」
あまりにも、突然の出来事で。
驚いたように楽譜から顔を上げ、譜面台代わりに使っていたオルガンの前に腰掛けていた神父は――この旧教教会の主任司祭でもあり、音楽指導者でもあるサルバーレは、するりとフルートを握っている少女の方を振り返っていた。
エルザードの、天使の広場で行われる、春の恒例コンサート。
今年もその舞台での独奏を行う事になっている少女は――セシールは、毎日その練習のために、この神父の元へと通って来ているのだが、
おや、と、
神父は内心、小首を傾げてしまう。
彼女のことだ。
別に、楽譜がわからなくなったとか、そういうわけでは、ありませんでしょうに……?
「どうかし――、」
「ねえ、楽長、」
「……はい?」
問いかけようとしたところで、神父は逆に、その少女から呼びかけられていた。
セシールはフルートを握った手を下ろし、譜面台を見つめていた視線で、椅子の上から自分を見下ろす神父をじっと見上げると、
「もう、春だね」
脈略も無く、呟いた。
「もう、春だよ。楽長」
「――そうですね」
穏かに頷き、神父もふと、窓の外へと視線を移す。
聖堂に入り来る光もやわらかみを帯び、優しく全てを包み込むかのような風の吹き始める、この季節。
この聖堂の裏にある庭にも、いよいよとりどり色の花々が、その色を大きく開かせようとしている事を、神父は良く知っていた。
――しかし、
神父の耳に届けられるセシールの声音は、それを喜ぶようなものではなく、憂いの色を秘めたもの。
「……もう、一年なんだ、今日で」
「あ――、」
不思議に感じていたものの、その言葉にはじめて、神父はセシールの抱える憂いの理由に、気がつかされてしまう。
……その理由を、知っていたからこそ。
神父はそこで、言葉を返せなくなってしまっていた。
暫しの、沈黙の後。
「後で、教会に行かなくちゃ……」
ここではなく、自分の一家が信仰する、新教教会へ。
先生のところに行って、お祈りして来なくちゃあ……。
響き渡る声音は、たった独りきり。
そんな、セシールの言葉に、神父は静かに天を仰ぐと、
「――そう、ですね」
そのままじっと、黙してしまう。
……そう、ですよね。
もうそういえば、あれから、一年か――。
思った、そのところで。
不意に、何の前触れも無く、聖堂の扉が静かに開いていた。
突如として入り込んできた外の空気に、神父とセシールとは、ほぼ同時にそちらの方へと視線を投げかける。
――と、
「あ、アイラスさんだ」
現れた影には、神父としても、セシールとしても見覚えがあった。
軽く駆け出し、聖堂の半ばほどまで来たところで、歩み寄って来た影に向って、セシールがぺこりと一つ、頭を下げる。
「お久しぶり――、です、元気だった?」
「ええ、僕は元気でしたよ。セシールさんは、どうでしたか?」
――アイラス・サーリアス。
眼鏡の奥から微笑みかける優しい深く青い色の瞳に、銀髪にも似た薄青色の長い髪。全体的に軽装、とも言える服装に身を包んだ青年は、近頃では事ある毎に神父の助けともなっている、軽戦士でもあった。
しかし、戦士と雖も、
「ボクは元気だった。ええっと、楽長から話は聞いてる……音楽監督の説得、すごかったって。あ、監督って、エルザード・フィルの、だよ?」
「ええ、でも僕は、大した事はやっていませんから。皆さんのお力添えがあってこその結果であって、僕だけがどうこうしたわけでは、ありませんから」
「あ、それにあの時のコンサート、ピアノも聴いてたんだ。やっぱり上手だなぁ、って、思って」
「それは――ありがとうございます」
セシールは、この青年が、穏かな優しさを内に秘めた人物である事を良く知っている。
音楽が大好きで、それから、本も好きで……とっても、頼りになる人。
「でも、どうしたの? ボクは楽長に、楽譜の解釈を手伝ってもらうのに来てたんだけど……アイラスさん、今日は、何かあった?」
アイラスと共に、自分の元いた場所へ――神父のいる方へと歩みながら、セシールがきょとん、とアイラスを見上げて問いかける。
アイラスはいいえ、と軽く首を振ると、
「別に、何かあったわけでも無いのですが、その……ちょっと、宜しければ、神父さんに音楽でも、教えてもらおうかなぁ、と思いまして」
でも、セシールさんがいて下さって、良かったです。
付け加え、ふわりと微笑みかける。
「……ボクがいると、嬉しいの?」
「ええ、セシールさんにでしたら、フルートも教えていただけますからね」
あぁでも、今日はフルート、持って来ていないんでした。
実に失敗してしまいましたね、と表情を変え、アイラスは落としていた視線を、ふと目の前の方へと戻していた。
そこには、オルガンの前に立つ、いつものあの銀髪の神父の姿がある。
「こんにちは、アイラスさん。今日は、何かあったんですか?」
奇しくもセシールと同じような事を問うてくる神父へと、
「こんにちは、神父さん。――えっと、何があった、というわけでも無いのですけれど。その、春に天使の広場でコンサートをやる、という話を聞いていましたら、何となく、色々と教えていただきたくなってしまって。この世界の音楽技法ですとかも、きっと色々とあるでしょうし――丁度時間もあったので、神父さんが暇でしたら是非、と思いまして」
春の、コンサート。
それは、国王も公式に出席する、かなり大きな行事であった。
ちなみに、実は昨年は、その指揮を神父が執る事となったのだが、今年はエルザード・フィルの新しい音楽監督がその指揮を執る事となっている。
と――、
しかしその言葉に反応を示したのは、神父ではなく、アイラスの後ろに立っていた、セシールであった。
「それ、ボクが出るやつだ……。ね、アイラスさんも、見に来るの?」
「ええ、時間があれば、是非行きたいと思っていますけれどもね」
勿論アイラスも、街中で話を聞いた時から行きたいとは思っていた。
――そろそろ花の、彩りが鮮やかなその季節。
「きっと、賑やかでしょうし」
世界を閉ざしていた氷は溶け消え、抜けるように滲む暖かな色の青空に、太陽の光はあちこちに舞い踊る。
暖まり始めた世界に、飛び交う大半の人々の――否、人々だけではなく、また花々の、素直な喜び。その形は、本当に様々ではあったが、
……コンサートだなんて、その典型ですから。
「僕も、音楽は大好きですし、ね」
「……それに皆、春が大好きだしね」
「ええ、――セシールさんは、春がお嫌いなんですか?」
しかし、少しだけ突っ返すかのように返って来たセシールの返答に、アイラスはふ、と、そう問い返していた。
アイラスの、心配の色の滲んだ瞳が、セシールの顔をじっと覗き込む。
――覗き込まれ、
「ううん、ボクも春は、好き」
セシールは首を横に振り、小さくアイラスに向って微笑んで見せる。
「春は、大好き。お花は綺麗だし、それに……、」
「それに?」
「それに、小さい頃には良く、街外れにお花見に行ったりしたから」
思い出が、ある。
「お花見、ですか」
「うん。街の外れの方にね、すっごく良い場所があるんだ。ボク、また行きたいなぁって思うんだけど……前の年も、今年も、行ってないから……、って、あ、そんな事より、ね、楽長」
言いかけて。
セシールは慌てて、その言葉を振り払うかのように、目の前に立つ神父の方へと言葉を移す。
「ね、でもアイラスさん、あんな事言うけど、そんな必要は無いと思わない? 教えるような事なんて、何も無いと思うんだ」
アイラスさん、とっても楽器が上手だから。
アイラスといえば、鍵盤楽器は勿論、管楽器や弦楽器まで、幅広く扱いこなす事ができる事は、セシールにとっても良く知るところであった。
しかしだからこそ――と、セシールの言葉に、アイラスは首を横に振ると、
「細かい技法、ってあるじゃないですか。きっと僕の知らない事も色々とあるでしょうし、是非、教えてもらおうと思って来たのですけれど」
でも、と、もう一つ付け加える。
……どうやらそれにしては、タイミングが悪かったみたいですね。
話と状況から考えるに、どうやらセシールと神父とは、そのコンサートに向けての練習をしていたらしいのだから。
大切な練習を邪魔してはならないだろうと、
「でも、また今度の機会にした方が、良さそうですね。セシールさんも、練習、お忙しいみたいですから……」
今日は一旦帰ろうと、アイラスが口を開いた、その途端であった。
「……ううん、そんな事無いよ」
ぽつり、と横から、セシールが呟きを洩らす。
――セシールとしても。
丁度、練習する気が起きずに、行き詰まっていた所なのだ。
……だから、
「ボクには何も教える事なんてできないけれど、でも、折角だから、ゆっくりしてったら良いと思う……ね、楽長も、そう思うでしょ?」
アイラスの登場は、セシールにとってはこの上なく間合いの良いものであった。
神父も神父でセシールの意図をわかっているのか、その言葉にすんなりと了承の反応を示す。
「ええ、そうですよ。それに私達も、今丁度一休みしようと思っていた頃ですから。一緒に少し、のんびりとしていきませんか? 同じ曲ばっかり練習していても、疲れてしまいますからね」
神父には後ほどオルガンの手ほどきをお願いする事として、先にアイラスは、セシールにフルートを教えてもらう事となっていた。
タンギングは基本中の基本、ビブラートは、悪趣味にはならない程度に音を震わせて。
基礎をざっと確認した後に、不均等音符で旋律の流れをなだらかにする方法を聞き、装飾音で、旋律の中の音を他の音で飾る方法も聞いた。
――ちなみに、アイラスが今手にしているフルートは、教会に置いてある楽器の内の一つであった。
この教会には、いつでも子ども達が楽器に触れられるように――と、それほど数は多くなかったが、ヴァイオリンやフルートといった、基本的な楽器はいくつか置いてある。
しかし、様々に練習するその内に、
「デンシ楽器?」
いつの間にか、そんな話題になっていた。
『僕がいたのは、サイバーパンクの――機械の、世界ですから。あまりこちらの世界の細かい技法は良くわかりませんし、電子楽器の方が、本当は得意なんです』
アイラスの言葉に最初に興味を示したのは、セシール。
何気無い一言に聞きなれない単語を見出し、セシールはそれを、素早くアイラスへと問いかける。
「それに、キカイって、ええっと……、」
「電気ですとか、エネルギーで動く――って言っても、わかりにくいですよね。どう説明すれば良いでしょうか……」
軽くアイラスが悩み始めたところで、
「その話、私も興味がありますね。書物とかにもたまぁに出てきますが……私、こちらに来たのは五年程前なのですけれども、あっちの世界でも、機械なんて、あまり見た事がありませんでしたし」
楽譜に視線を落としていたサルバーレが、ふ、と話に割り込んでくる。
――異世界からの住人の導かれる場所、即ち、ソーン。
セシールはこのソーンで生まれた者ではあったが、アイラスも神父も、この世界には呼ばれて≠竄チて来ている者であった。
その原因は、強すぎる好奇心であったり、偶々偶然不幸が折り重なった結果であったりと、人によって色々ではあるのだが。
「……こっちの世界でも、最近は見かけるんですけれどもね。エンジン付きの船ですとか、見かけた事が無いわけでもありませんし」
「えんじん?」
「ええ、機械なんですけれども、そういうものがありまして……多分あれなんでしょうね。僕の他にも、異世界からいらした方は、いるでしょうから。そういう方々が向うの世界の技術を持ち込んで、そういった物を作ってしまうのでしょう。きっと良くも悪くも、これからはそういうものも、きっと増えると思いますよ」
だから、今ほど珍しいものでは、なくなると思います。
付け加えたアイラスに、
「増えると、まずい物なの?」
セシールが、きょとんと問いかける。
「まぁ、一概にまずいとは言えないんですけれどもね」
その問いに、アイラスは苦く笑うと、どう答えて良いものか――と暫し悩んだその後に、
「使い方を間違えれば、大袈裟に言えば、世界が壊れてしまいますからね。難しい話になりますから割愛しますけれど、例えば機械を使いすぎると、その時に出た煙とかによって、変な雨が降ったりもします」
「変な、雨?」
「ええ、森を枯らせたり、池の中の魚を殺したり。そういう、雨が降る原因になったりもします。その他にも色々とあるんですよ。ですから、一概に増えて良いもの、とは言えませんね」
その言葉は、セシールにとっては、かなり意外なものであった。今一、機械、という物に対して、想像がつかないのだが、
……魚とかが、死んじゃうもの?
そういうモノを生み出すのが、機械なの?
「……じゃあ、悪い物?」
「悪い物、でもありませんよ。機械があれば、魔法が使えない人に出来ない事が、できるようになったりもしますから。例えば、一人で空を飛んだりですね。それに、機械全てが、そういうわけでもありませんし。環境に優しい機械も沢山ありますし、沢山開発されたんです。使い方を間違えなければ、便利な物なんですよ?」
アイラスの説明に、ふぅん、とセシールは頷いた。
……良く、わかんないけど、
「でも、それで音楽ができるって、どういう事?」
――やっぱり良く、わかんないや。
キカイって、
「キカイで、音楽も作れるの?」
船を動かして、変な雨を降らせて、でも環境に優しくて、空を飛べて、音楽もできるもの?
「ええ、作れますよ。曲を機械に演奏させる事もできますし……そうですね、機械のピアノを作る事も、できます」
「キカイの、ぴあの? それも使ったら、変な雨が降るの?」
「……セシールさん、機械、というのは動物、という言葉と似たようなものですよ。動物の中には、猫も兎も犬も鳥もいますでしょう? 機械の中にも、それと同じく色々なものがあるんです。その中には、そういう変な雨を降らせる機械、降らせない機械、色々とありますからね。例えば空を飛べる動物もいれば、飛べない動物もいる、といった具合にですね……ちなみに機械のピアノは、使っても、変な雨を降らせる原因には、」直接的には、「なりませんよ」
直接的には。
様々な理由から、挟みたかった言葉ではあったが、挟めばセシールが更に混乱するのは、目に見えている。
……説明するとなると、大変ですしね。
その上、どうせ説明するのであれば、細かい事よりも、まず大まかな部分をわかってもらった方が良いだろう。
「音楽を演奏するための機械も、沢山あります。エレクトーン、なんていう機械の楽器は、ピアノにもとっても似ているんですけれど……とにかく、機械の楽器といいますのは、例えばピアノは鍵盤を押すと、中にある弦が弾かれて音が出ますけれど、機械のピアノはそうではなくて、電気、というもので音を出します」
「デンキ、って……」
「魔法の力にも似たようなものですよ。そうですね……魔法の力を使えば、弦や、弦を打つ小槌がその場に無くても、その音だけが呼び出される――そういうものがあるようなものかも知れません」
「……ええっと……、」
「何も無い所から、魔法の力と呪文で、音を召還≠キるのと同じようなものです」
魔法の代わりに電気やエネルギー、呪文の代わりに回路を用いて、音を作り出す。
「ちなみに、見目形もピアノにそっくりですし、その機械の鍵盤を押すだけで、誰でも音を出す事ができます」
この説明に、セシールもようやくぴんと来たのか、あ、とにっこり微笑むと、
「わかった!……ような気がする」
「――ですね。私にも正直、あまり想像はつきませんけれど、何となく、今のでわかったような気がします」
興味深そうにアイラスの話に耳を傾けていた神父も、するりと口を挟む。
しかし一方で、セシールはもう一度うーんと悩み始めると、
「でしたら、鍵盤を押したらフルートの音が出る、ですとか、そういう事もできるんですか? 極端な話――、」
「でもアイラスさんの世界には、ピアノが無かったってコト?」
神父の言葉を遮り、素直に疑問を口にした。
「ありましたよ?……何でですか?」
「だって、ピアノがあるなら、ピアノを使えば良いのに。わざわざキカイって物で、ピアノを作る必要なんて無いと思うんだ」
……ああ、なるほど。
尤もな問いであるかも知れないと、アイラスは改めて、ここが剣と魔法の幻想世界である事を感ぜざるを得ずにいた。
なるほど、それはですね、
「機械のピアノの方が、本当のピアノよりも、価格が安くなる事があるんです。この世界と違って、僕の世界では、機械のピアノは珍しいものでは、ありませんでしたから。それに小さくて、持ち運びができて場所もとらないようなピアノもありますし、それに何より、機械のピアノって、調律が必要ありませんからね」
「……それって、すごく良い事なんじゃないかな。調律って、すっごく面倒だし、高いし」
それは、ピアノに限らず、フルートでも同じ事。
セシールもセシールで、愛用のフルートを、年に何度か、クレモナーラの職人の元まで持って行き、きちんと調律や修理をしてもらっているのだから。
しかし、アイラスは小さく首を横に振ると、理想を想像しているであろうセシールの思考を、やんわりと否定する。
「確かに、良い事ではあるかも知れませんね。でも、ピアノにはできて、機械にはできない事も、ありましたから」
「なぁに、それ?」
勿論、アイラスには感覚的にそれがわかっているのだが、セシール達にはそれがわかるはずもない。
確かに機械のピアノはそれはそれで便利で性能も良いものではあったが、故に普通のピアノには、どうしても敵わないであろうという点も多かった。
それを、悪いと位置づけるか、良いと位置づけるか。それはあくまでも、個人個人の見解によるものでしかない。
それでも、
例えば、喩えるとするならば、ですね。
「そうですね、例えばほら――造花と、野原の花との、違いのようなものでしょうか。造花はいつまでも美しいですけれども、野原に咲く花には、どうしても勝てない部分ってあるような……そんな気が、しませんか?」
「……あ、」
「そういう、事です」
この世界では珍しい物を、どう説明すれば良いものか。
話し始めた当初は、思っている事が伝わるのかどうか、些か不安であったのだが、
……どうやら少しくらいは、わかってもらえたみたいですね。
「ですから、折角機械ではない楽器を弾くのでしたら、その魅力を、最大限に引き出せたら良いな――と思いまして。僕はただの趣味人ですけれども、そういうのも、素適だと思いますから」
「ええ、そうですね。こういう技法には、歴史的な側面もあったりしますから、知っておいてきっと損は無いと思いますよ」
アイラスの言葉に、ご尤もです、と言わんばかりに神父が小さく微笑んだ。
それに、と、セシールと一瞬、視線を合わせてから、
「使いこなせれば曲の色もより一層鮮やかになりますし。一枚の楽譜から、世界も広がりますよ?――ねえ、セシールさん?」
「うん、楽譜を解釈通りに弾ければ、とっても嬉しい気持ちになれるし……」
話を振られ、セシールもこっくりと頷いていた。
「本当に、色々と参考になります。……なかなか理論だけでは、上手くできない事も多いですからね。実際に例を見せていただけますと、本当に参考になりますし……」
「うん、ボクもそう思う。ボクも全部、見て覚えてきたから。教則本なんて読んだ事無いし。ぜーんぶ、直接教えてもらったんだよ」
神父はお茶を淹れに、一時席を外していた。
機械の話にも一区切りつき、再び二人が練習を始めてから、暫く。
「……ねえ、アイラスさん」
スタッカートによって、音に弾みを出す事についてざっと復習を終えたその後、不意にセシールは、そう切り出していた。
それから、どうせならもう一つ、ボクが教えてもらった事があるよ――と、
一瞬窓の外を一瞥し、アイラスの方へと視線を戻す。
「それとね、ボクにも、良くわかんないけど。でもボクは、本当なのかどうかは今でも良くわかんないけど、絶対に心だけは忘れるなって、そういえばボクは、そうやって教えてもらってるんだ」
「心、ですか?」
「うん、そう」
ボクには、わかんないけど、
もう一度そう付け加え、
「ボクは、そうやって教えてもらった。キモチ、って言われても良くわからないけど、例えば野原の風は歌うのが上手だけど、でも、もしそれが淡々と吹いてるだけじゃつまらないだろ?――って、そう、教えてもらったの」
――それは、
セシールとしては、良く、教えられた言葉であった。
あっという間に自分の技術を追い越し、成長していくセシールに向い、セシールの師とも言うべき彼が、最後まで教え続けた事が、これであった。
――彼。
セシールの、兄。
「小さい頃から、良く覚えてる。タンギングとか、複付点音符とか、色々と教えてもらったけれど、毎日毎日、これだけは同じ事を言われてた」
セシールの将来が有望視されたのは、彼女がまだ、十歳にも満たない頃からの話であった。
周囲からの期待に応えるかのように実力を身につけていく妹に、兄としてはもう、何一つ教える技術など無かったのだが、
「ね、」
どうか、これだけは忘れないでおくれ、と、
自惚れる事になっては、ならないからと、
いつまでも、頻繁に兄が教え続けた、最もの技法。
思い出し、セシールはフルートを抱え直し、体裁を整える。
「ね、アイラスさん」
「はい?」
アイラスの返事に、細く息を吐くと、ふ、と、唐突に新しい話題を振った。
「……ボクのフルートの師匠は、おにーちゃんなの。こういう事を全部教えてくれたのは、ボクの、おにーちゃんなんだよ」
「お兄さん、ですか?」
「うん」
そのまま近場の長椅子に腰掛けると、膝の上に手を置き、じっとアイラスの顔を見上げてこくりと頷く。
そうしてセシールは、ゆっくりと瞳を細めると、
「――命日なの」
決意を決めたかのように、切り出した。
「……え……、」
「今日。命日なの。おにーちゃん、前の年に死んじゃったんだ」
――勿論、アイラスは。
そのような話を、聞いた事も無い。
突如として聞かされた話に、思わず言葉を失ってしまう。
しかしセシールは、そんなアイラスの反応には、あまり構わずに、
「おにーちゃんがボクにフルートを教えてくれたから、ボク、こうやってフルートを吹いていられるの。小さい頃から、色々と教えてくれたよ。おにーちゃんには、一番最初に、お古のフルートをもらったの」
今でもそれは、部屋に大切にしまい込んである。
今のフルートとは違い、金属製ではなく、木製の玩具のようなフルートではあったが、その音色の優しさは、今でもしっかりと覚えている。
……特に、
おにーちゃんが吹くと、すっごく、上手だったから。
「だから、ボクが今アイラスさんに教えた事は、全部おにーちゃんが教えてくれた事なの」
兄との思い出、そのものであった。
「……そう、だったんですか」
セシールの話に、アイラスの中で、ようやく様々な糸が繋がり始める。
――色々と、疑問には思っていたのだ。
セシールの見せる反応に、あれ……と思わされる事は、何度と無くあったのだから。
続くセシールの話に、アイラスは改めて耳を傾ける。
「ね、おにーちゃんとは、良くね、お花見に行ったんだ。桜ってゆー木が、とっても綺麗なの。桃色のお花が、いーっぱい咲いてるの」
……ああ、だから、
「おにーちゃんが元気な頃は、ボクも良く連れて行ってもらったの。だけど、前の年はもう、そんな事、できるような状態じゃなかったから……」
それで、お花見に、また行きたいって――そういう、わけだったんですね。
セシールの時々見せる、寂しそうな反応も。春という単語に言葉を詰まらせた理由も、全て、
――こういう、事だったんですか。
「約束してたの。おにーちゃん、前の年にね、ボクが音楽会で、舞台の上に立つのを見に来てくれるって。でも、それは無理だったから……うん、でも、」
そこでゆっくりと、セシールはアイラスに向って小さな微笑を浮かべると、
「アイラスさんのおかげで、ちょっと元気になったような気がする……ありがと、」
フルートを、握りなおした。
その姿に、アイラスも自然と、小さく微笑みを零し落としてしまう。
「……いいえ、こちらこそ」
ありがとう、と言わなくてはならないのは、むしろ僕の方ですよ。
「今日は色々と教えていただけて、本当に嬉しいです」
――そこで、
ふと聖堂の扉の方から、ようやくお茶を持ってきたのであろう、神父の足音が近づいてきた。
これだけ時間がかかっている以上、もしかすると神父は、たんまりとお菓子でも持って来ているのかも知れない。
「神父さん、戻って来たようですね」
「うん、お茶会だね。……そしたらまた、練習、かな? あ、それから……」
そこで唐突に立ち上がり、セシールはアイラスの腕を取っていた。
――それは前の年、セシールが兄と結んだ、叶わなかった約束と、
……同じ、約束だけど。
「ね、アイラスさん。良かったら音楽会、来てね。エルザード・フィルの演奏もあるし、それに、今年はクレモナーラからも有名なサックス奏者が来てるし、きっと面白いと思う。だから……、」
だからきっと、
「ええ、でしたら、必ず」
来てくれたら、嬉しいな。
強く頷いたアイラスの言葉に、セシールは素直に喜びを露にする。
アイラスはそんなセシールの頭に、偶々偶然、かつて彼女の兄がそうしたように手を置くと、ふわりと屈み、正面から彼女の瞳を見据えて笑いかけていた。
そうして、言い放つ。
「勿論、セシールさんの演奏も、楽しみにしていますよ?」
Fine
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I caratteri. 〜登場人物
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<PC>
★ アイラス・サーリアス
整理番号:1649 性別:男 年齢:19歳 職業:軽戦士
<NPC>
☆ セシール
性別:女 年齢:12歳 職業:フルート奏者
☆ サルバーレ・ヴァレンティーノ
性別:男 年齢:47歳 職業:エルフのヘタレ神父
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Dalla scrivente. 〜ライター通信
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まずは長々と、本当にお疲れ様でございました。
今晩は、今宵はいかがお過ごしになっていますでしょうか。海月でございます。今回はご発注を頂きまして、本当にありがとうございました。
早速ですが、今回はちょっと本題がプレイングと逸れてしまっているのではないかなぁ……と、心配しておりましたりします。色々と、んん? とお思いになる部分もあるかとは思いますが――先にお詫びを申し上げておこうかと思います。
セシールのお兄さんのお話ですが、実際に丁度一年ほど前に、兄が死んだ時の話を書かせていただいておりましたので、少々お話に絡めさせて頂きました。セシールとお兄さんは本当に仲が良かったようでして、実際セシールのフルートの技巧は、兄譲りの物が殆どであるようです。お兄さんはプロというよりは素人よりの立場でしたが、だからこそプロになりたい、と思うセシールに、あのように教えていたのではないかなぁ、と思います。セシールはまだプロではありませんが、もし仮に今後エルザード・フィルにでも入団する事となりました際に、某音楽監督みたいな性格になってしまいますと、兄としてはとても悲しく思うでしょうし……。
ちなみに勝手ながらに、セシールはどうやら、相当アイラスさんに懐いてしまっているようです。実際お兄さんににた雰囲気も感じられるのではないかとも思われますが……。
では、乱文となってしまいましたが、そろそろこの辺で失礼致します。
何かありましたら、ご遠慮なくテラコン等よりご連絡をよこしてやって下さいませ。
――又どこかでお会いできます事を祈りつつ……。
19 aprile 2004
Grazie per la vostra lettura !
Lina Umizuki
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