<東京怪談ノベル(シングル)>


凪を得る



 煌々と光り輝く日の光が斜きはじめるころ、街は鮮やかなだいだい色に照らされる。
 辺りに漂う夕餉の匂いに、人々は足早に家路を急ぐ。
 そんな彼らの穏やかな横顔を尻目に、葵は広く浅い石造りの階段にどかりと腰を下ろして人心地の息を吐きだした。低くなった視線の高さは、階段の下を行く人々と等しいほどの高さである。彼らは葵の姿に脇目すら振らない。ただ真っすぐに前を見据え、一日の終りを自身の自宅で過ごすことを考えて歩を進める。
「――ほれ。器量よしは得だな、落ち着いて飲めよ」
 右手に掴んでいた牛乳の瓶は、通りすがったミルクスタンドの店員が寄越したものだ。得意げに鼻先をふんふんと鳴らしながら葵の後をついて歩く白い仔猫を、彼女は気に入ってしまったらしい。今日はたくさん売れ残ってしまったからと笑って、瓶に詰めた二本の牛乳と浅い紙皿をくれた。
 代金を払うと何度も葵は彼女に申し出たが、その子を可愛がってあげてねと笑うだけで決して金を受け取らなかった。一本はすっかり色あせたバッグの中に、そしてもう一本が葵の手によって蓋を開けられ、仔猫の前の紙皿にとくとくと注がれている。
 半分ほど中身を注いだ残りの瓶を石の上に置き、ひとさし指でちょいと猫の頭を撫でてやる。
「もう一本は、明日の分……な」
 返事をするでもなく白猫は、皿の中に顔を埋めて牛乳を飲む。その様子をしばらく見下してから、葵はジャケットのポケットを探って煙草を取りだした。すっかり本数の減ったそれはソフトケースの中でくしゃくしゃに折れ曲がってしまっている。指先でいくらか形を整えてから、葵は一端を口に咥え、火をつけた。
 そしてゆっくりと、白く濁った煙を吐きだしながら、見るとはなしに人の流れを眺める。

 こうして、ただ人の流れを眺めている。
 そんな状態を自分が享受できるようになったのはいつ頃からだったろうかと、葵はふと思いを巡らせる。
 少なくとも、少し前――軍隊に籍を置き、カモフラージュを顔に塗り付けて戦場を駆けていたころでは無理だったろうし、軍属の化学者として兵器の開発に関与していた頃でも不可能だったろう。
 落ち着かない気分にさせられるのだ。腹の底から喉の奥に、じわじわと焦燥感がせり上がってくる。
 ふと気を抜いた瞬間に、足の裏で地雷が爆発するようなことがあったら。
 握り締めた銃の安全装置が外れて、暴発するようなことがあったら。
 検体として観察しているマウスやハエ、豚や猿に変化が起きたら。
 眠っている間に、敵軍からの襲撃があったら。
 機密を持ちだそうとするスパイの存在は。
 実用試験の失敗があれば――研究中の理論に孔はないか――口に運ぶ食事の安全性は――そもそも――
 後から後から、そんな不安や不審、そして恐怖が湧きだしては葵の体内を澱ませていった。
 が、今はそれがない。
 ただ穏やかな心で人の波を眺め、鮮やかな夕日を見れば素直に美しいと思い、夜はどんな些細な物音にすら目を醒ますようなこともない。
 鈍くなっている――そんな言い方もあるだろう。だが、何かもっと違う、根本的な何かが揺らいでいる。そんな予感が、葵にはするのである。
「――何だ、もっと飲むのか。腹壊すなよ」
 軍属を経験した者はすべからく、生死に関してそれぞれの価値観を持つことになる。
 死という概念を恐れ、貪欲なまでに生への執着を見せる者がある。
 生が継続していくことに言い知れない恐怖を覚え、死に急ぐ者がある。
 かと思えば、生死という感覚や状態への感情を麻痺させてしまい、自分の精神を病む者もあるし、性善説や性悪説の論議を日々の糧としはじめる者もある。
 葵はその中の、どの道も選ばなかった。
 生を享受し、死を享受する。
 生きることは、現在を進行させていく行為だ。そしてその先に、遅かれ早かれ死の存在がある。彼はそのどれも恐れなかったし、執着することもなかった。日々を淡々とこなし、去るものはそのままに、留まるものもそのままに。
「お前ほどドライでクールや奴も珍しいさ、アオイ。狂っちまったほうが幸せだって思うことはないかい」
 唯一、親友と呼べる存在がいた。葵と同じく軍属の人間で、葵に負けず劣らず「ドライでクール」な男だった。俺達は、誰かの命を奪って生き延びる悪魔なんかじゃない。ただ少し、幕引きを早めてやっているだけのことさ。
 人は、いつか死ぬ。
 人だけではない、全ての「生きとし生ける者」には、やがて死という終焉がある。
 生きるも死ぬもたった一人であるのに、必死に何かとの繋がりを求める行為はばからしいことではないだろうか。
 そんな考え方そのものは、今の葵も変わることがない。
 ない、のだが。
「――駄目だ、一本全部は飲みすぎだろう」
 どうして自分は、こんな小さな生き物と共に在るのだろう。
 どうして、こんな非力で柔な生き物と行動を共にし、話しかけてやったりしているのだろう。
 揚げ句それに名前まだ与え、所有の証を得ようともしているのだ。
 自分の心が揺らいでいるのを葵は感じる。
 それと同時に、心が――凪いでいることも。
 
「わあ、可愛い!」
 葵の背後から階段を下りてくる小さな少女が、必死に牛乳を飲んでいる仔猫に駆け寄ってきた。
 猫の後ろにしゃがみこんで、両手でぐりぐりと背中や尻をなで回している。
「名前は?」
 満面の笑顔で少女が問うので、答えてやった。
「そう、牛乳おいしい?」
 少女が何度か猫の名前を繰り返していると、愛想というものをようやく思い出したか猫はにゃあと鳴いて少女の腿にすり寄る。「何歳?」「どうだろう。半年より小さいくらいじゃないか」「ふうん」
 しばらくの間、ぐりぐりと白猫を撫で回したあとで少女は起ち上がると、猫と葵に交互に手を振りながら走っていった。咥え煙草のまま、葵もちらりとだけ手を振り返してやる。「明日また、遊ぼうね!」
 嬉しそうに駆けていく少女にも、ああして帰っていく場所が、あるのだ。
「明日も遊ぼうね――だってさ」
 葵は苦笑して、猫に言葉を投げる。
 まだまだ身体付きのまろさを滲ませる白い仔猫は前脚で、自分の顔を綺麗に舐めている。
 ああ、明日も晴れるか。
 猫が顔を洗うと晴れる――葵にそう教えた、薄紫の長い髪を持つ少女は今ごろ何をしているだろうか。
 だいだい色の中に蒼を滲ませ始めた夕暮れの空を見上げながら、葵は短くなった煙草を石に押し付ける。
 そして瓶の底に残った白い液体を、勢いよく飲み干した。

(了)