<東京怪談ノベル(シングル)>


『蛍火の杜』

 ― 【オープニング】 ―

 ここはあたしがこの数ヶ月住んでいた街から北西に向った先にある古い神殿の遺跡。
 何でも大地の精霊の祝福を受けた神殿だったらしいが、かの国の暴君によって滅ぼされてしまったそうだ。
 そう、ひとえにこの神殿が大地の精霊の祝福を受けて得た奇跡ゆえに。
 かつて神殿であった時はおそらくは静謐な空気に覆われていたであろうこの地も、廃虚となった今では埃臭い空気の臭いしかしない。
 体に纏わりつく夏の夜の不快な空気。
 もあっとした空気は外にいるのに、長いこと締め切った部屋に入った直後をあたしに連想させる。
 だからと言って、しかしあたしは汗ひとつかいていない。それどころか喉がカラカラ。それは深い緊張のせい。
 戦慄する意識はあたしの体中の毛穴を開かせている。
 そう、ここは大地の精霊の祝福を受けし、神殿。故に大地の精霊より古の宝珠を与えられし神殿。恐れ多くもその宝珠を狙ったかの暴君にこの神殿が滅ぼされてからも、この神殿の廃虚にはかの暴君と同じくその宝珠を狙った賊が来るし、そして・・・


『我はガーディアン。かの暴君との古の盟約によってこの神殿を護りしエンシェント・ドラゴン。汝に問おう。我と戦い死ぬか、今すぐにここを立ち去るか。さあ、選べ』


 エンシェント・ドラゴン。それはドラゴン族の中でも最高峰に属するドラゴンで、人の言葉を操り、また失われしルーンによる高等魔法も使う。まさしく神に属する竜。
 その言葉も空気を震わせあたしの耳朶に届いたのではなく、直接脳裏に響いたかのようだ。それだけで思い知らされる。このエンシェント・ドラゴンの脅威を。
 だけどあたしは腰のショートソードに手を伸ばす。それが果たしてこのエンシェント・ドラゴンに有効かどうかなんてのは今のあたしには問題ではなかった。そう、やれるとかやれないの問題じゃないんだ。


 あたしはやらなきゃ、ならないのよ、彼女のために!!!


 あたしはカラカラの喉に無理やり出した唾を飲み込んで、飽和しきれぬほどの濃密な緊張を孕んだ空気を震わせてショートソードを鞘走らせた。
 エンシェント・ドラゴンは目を鋭くさせる。
『汝もまた我に剣を抜く。汝もまた宝珠を狙う悪しき者か。ならば、我は汝を排除せん』
 宝珠を奪いに来る者への怨念に塗れたエンシェント・ドラゴンの瞳は金色から血の色に変わった。


 ― 【カーニバル】 ―

 青い晴天。
 それはまるで青い絵の具を塗ったキャンバスに白い絵の具を重ね塗りしたのに似ていた。
 手を伸ばせば届きそうで、だけど中指の先すら届くことはない。
 空に伸ばした手をそのままにあたしはしばし、青い空を見つめていた。
「あ、いたいた。ノージュ」
 軽やかなソプラノ。
 それはまるで朝を謳うすずめのようなとても明るい響き。
 あたしは空を眺める時に浮かべていた表情を消して、一瞬にしてその明るい声に塗り替えられた心に相応しい表情を浮かべる。
「こんにちは」
 だけどそう言ったあたしに彼女は唇を尖らせた。
「こんにちは、じゃないわよ。なにをやっているの、ノージュ」
「何をやっているの、って、絵を描いているんだけど?」
 この街の隅にある花がとても綺麗に咲いていた。だからあたしはその花を描いていた。そう、ただそれだけ。だけど彼女はそう答えたあたしになぜかとても悲しそうな表情をした。
(どうしたのだろう?)
 彼女はこの街の皆のアイドル。皆が彼女を愛していて、その明るく優しい表情に救われている。彼女もそれを心得ているようにだからどんな時もその美貌から明るい笑みを消さない。だけど・・・


 さぁー、と一陣の軽やかな風が街の通りを駆け抜けた。


 その風に彼女の長い髪は舞って、しばしあたしの視界から彼女の顔を隠した。
 そして次の瞬間にそのさらさらの亜麻色の髪を掻きあげた彼女の顔に浮かんでいたのは優しいいつも通りの笑みだった。しかもなぜかとても悪戯っぽい。
「もう、ノージュったら。今日は街のお祭りなのよ。だからさあ、早く行きましょう」
 彼女はあたしの手から筆を取り上げて、それを水桶に入れると、空いた両手であたしの右手を握って引っ張った。
 あたしの心は慌てるのと、そんな彼女におかしくなるのとで半分半分。
「ちょ、ちょっと、待ってよ。あたしは絵を」
「あら、絵なんかいつでも描けるでしょう」
「いつでも無いよ。花だって生き物なんだから。今が一番綺麗なんだ。だからその時を描きたいって」
「うーん、じゃあ、わかった。ノージュが絵を描き終わるまで待ってるから、それから行きましょう。ただし、広場の噴水のところで行われるダンスまでには終わらせてね♪」
 にこりと笑う彼女。あたしは彼女と知り合ったその日にその天使が如くかわいらしい笑みが、だけどものすごく後で怖いと言うのを、彼女と酒場をやっている彼女のお父さんとのやり取りで知っている。
(怖いんだよね、本当にこの笑み)
 あたしは苦笑いを浮かべながらそれを了承した。
 そうしてあたしは花を眺めながら絵を描いて、そして花を眺めながら絵を描くあたしを眺めながら小鳥が囀るような声で延々とおしゃべりをしている彼女がいるという光景ができあがる。その彼女の話し声はなんとなく街の中央にある広場から風に乗って聞こえてくる音楽に合わせて彼女が歌っているようで、面白かった。
「そうそう、ノージュ。お祭の実行委員会の人たちが呼んだ吟遊詩人のお姉さん、すごく綺麗だったよ。声なんかもうそれはすごく透明で響き渡るようだったんだから。だけどノージュがなかなか待ち合わせの場所に来てくれないから帰ちゃったけど」
 楽しそうにおしゃべりしていた彼女はまた頬を膨らませた。
 あたしは苦笑いしながら肩をすくめる。
 そしてそのあたしの横顔に彼女も何かを悟ったらしい。
「完成したの、ノージュ?」
「うん」
 そして彼女は絵を覗き込んだ。あたしはそろりそろりと後ろに下がって逃げる準備。だって彼女の華奢な肩が震えてるもの。
「ノぉ〜ジュぅ〜」
 ほら、怒ってる♪
「って、なに逃げてるのよぉ!」
 後ろに逃げてるあたしに彼女は頬を膨らませる。
 その彼女の表情を見て、あたしは笑うのだ。
「ほら、あたしの絵とそっくり」
「ノージュ。ひどい」
 そう言ってだけどとても楽しそうに笑う彼女の後ろにあるキャンバスには花と一緒に頬を膨らませて怒る彼女の絵が描かれているのだった。


「まずはわたしの家に寄っていきましょう」
「あれ、広場に直接行かないの?」
 そう言うと、彼女は呆れた、というような顔をした。
「ノージュったら、その服装で行く気?」
 あたしは自分の服装を見てみる。小首を傾げる。別段、おかしい部位は無いと想うけど?
「あー、もう」
 と、彼女は肩をすくめると、
 次ににやりと微笑んだ。
「まあ、いいわ。そんな男の子の格好をしているノージュを飛びっきりかわいくコーディネートしてあげる♪」
「え? なんだか怖いなぁ〜」
「そうよぉ〜、怖いんだからぁ〜」
 そう言って顔を見合わせあったあたしたちはくすくすと笑って、片腕を絡めあって、彼女の家に向った。


「あ!!!」
 彼女が驚いた声をあげたのは、彼女の家がやっている酒場でリュートを持った女の吟遊詩人さんがいたからだ。確かにすごい美人。長い黒髪に、紫暗の瞳。透明なルージュが塗られた唇が何かを囁くようにして動いた。それだけであたしの心が震える。
「先ほどの娘よね。さっきはあたしの歌に惜しみの無い拍手をありがとう」
 にこりと笑う。
 そして彼女は彼女の方が恐縮したようにふるふると顔を振った。そして次に彼女はばっとあたしの顔を見たかと想うと、おもむろに吟遊詩人さんに懇願を始める。
「あの、すみません。もしもよかったら、先ほどの【蛍火の杜】の歌をここでやってもらえないでしょうか? わたし、ノージュ・・・あ、この娘にもあの綺麗な歌を聞かせてあげたいんです」
 きょとんとするあたしを彼女は吟遊詩人さんの前に押し出す。あたしは慌てる。
「こら、やめねーか。お客様に失礼だろうが。いや、すみません。娘の言う事は無視してやってください」
「もう、お父さんは黙っててよ!!! わたしはこの吟遊詩人さんにお願いしてるんだから。ほら、ノージュもお願いして。本当にお願いします。この娘、絵を描いていたから、聴けなくって」
 言い合う父娘と、その間に挟まれて目を瞬かせるあたしを見て、その吟遊詩人さんはしばし呆気に取られた表情をしていたけど、やがてくすくすと笑いだした。
 そして小さな顔を頷かせる。
「わかりました。それでは【蛍火の杜】を詠いましょう」


 頭の中に浮かんでくる映像。それはどこかとても静謐な感じのする神殿。
 その神殿の奥深くにある部屋の扉を開けると、
 そこは無限とも想える蛍が飛び交う杜。
 涙流れるようなとても綺麗な澄んだ声で詠われるのは、そういう杜の情景。
 そして語られる。
 その【蛍火の杜】の伝説。
 その【蛍火の杜】の蛍たちに愛されし者は、願いをひとつだけ聞いてもらえる、と。
 その伝説に魅せられた乙女が想う男のためにその【蛍火の杜】に行き、蛍に愛され成就する恋物語。
 それはとても幽玄優美な光景で、あたしの心を震えさせる。


「ね、ノージュ。とても綺麗なお話でしょう」
「うん」
 あたしたちは無邪気な幼い子どものように拍手をした。
 吟遊詩人の女の人(と、言ってもあたしよりもほんの少し上ぐらい)は軽く会釈をする。
「それではあたしはこれで」
 そう言って彼女はお店を去ろうとした。だけどふいに彼女は足を止めると、あたしの顔を見つめて、にこりと微笑んだ。
「絵を描くあなたなら、きっと行けるのでしょうね」
 その時はあたしはそれが何なのかわからなかった。ただ彼女があたしに予言を告げたのだということは無意識に理解していた。


 ******
「うん、ノージュ、綺麗よ。美人さんがすごい美人さんになっている」
 鏡に映っている青い色の髪に縁取れたあたしの顔。鏡の中の瞬く緑の瞳はあたしの意思通りに動いているから、やっぱりそれはあたしの顔だ。
 それを確認したあたしの頬はほんのりと桃色に染まった。
「なんだか恥ずかしいな」
「あら、なんで恥ずかしいのよ? こんなに綺麗なのに」
 彼女は本気でわからないという顔をしていた。
 だけどそれはあたしの本心だ。
 少女の冒険者だと足元を見られることが多いので時々男装+男の子っぽい言葉遣いを用いる事はあるが、それをあたしは別段恥ずかしいとは想わない。だけどこの顔にした化粧と、それとあたしの体を包み込む白のワンピースドレスはちょっと恥ずかしかった。慣れていないせいだと想う。
「あの、あたし、いつもと同じでいい」
「ダメ」
 彼女は頑なに言い張った。そしてあたしがぎょっとしたのは彼女の瞳が涙で潤んでいたからだ。
「あ、あの・・・」
 慌てるあたしに彼女は言う。
「だってノージュったら、またどこか違う街に行ってしまうのでしょう。それがわたし、すごく嫌なの。だからノージュをとても綺麗に着飾って、街の誰かにノージュをゲットしてもらって、この街にずっといてもらって、ずっとわたしの友達でいてもらいたいの。旦那への愚痴を言い合ったり、子育ての苦労を相談しあったり、おばあちゃんになったら一緒に温泉に行ったり・・・そうやってずっと一緒にノージュといたいの。わかってるよ、自分でも子どもっぽい考えだって。ノージュが自分を探すための大切な旅をしていることも。だけど、ノージュ。さっきだってまるで時を止めようとしているかのように絵を描いていて・・・そんなの・・・とてもノージュが・・・・・・だからわたしは」
 そう言って彼女は顔を両手で覆って泣き出してしまった。
 あたしはそんな彼女にふわりと笑うと、両手で抱きしめた。
「ありがとう。そんなにもあたしの事を想ってくれて。大丈夫。あたしはいつまでも友達だから。だから大丈夫」
 そうしてしばらく「うん」と頷いた彼女はあたしの腕の中で泣いていた。


 ******
 そんなとても大切な友達の彼女。だけどあたしとしては、あたしの恋人を作ってもらうよりも・・・
 街の中央にある広場。そこにある噴水を真ん中に囲んだ男女が、楽師さんたちが奏でる音楽にあわせて軽やかなダンスを踊っている。
 そのダンスの輪から外れた場所で立ち尽くす男女。女は彼女で、そして男は彼女が想う男で、ちなみに男も彼女を想っている。だけど二人はお互いに照れ屋で未だにお互いの気持ちを伝えられない。本当にもう、世話の焼ける。
 あたしは立ち尽くす二人に言った。
「さあ、グズグズしているとダンスが終わってしまうわよ」
 二人の手を繋がせる。お互いに指の先が触れ合っただけでびくりと震えて。なんだかこっちが赤くなってしまう。
 それでも背中を押された二人は瞳を重ねあうと、お互いに小さくはにかんだ笑みを浮かべて、ダンスの輪に。
 あたしはそれを離れた場所にある階段に座って眺めていた。もちろん、あたしにだってお誘いの言葉は数知れず。だけどあたしはそれを丁重に断っていた。
 彼女はあー言ってくれたけど、だけどやっぱりあたしは自分が何者なのかを知りたい。だから旅をしなくっちゃならないわけで・・・
 それでもいつもよりも同じ場所に長くい続けるのは、彼女がいるから。
「贅沢な悩みだな」
 ぽつりと呟いて、あたしは肩をすくめた。
 だけど次にあたしはびくりと肩を震わせる。耳朶に届くのは馬の蹄の音。しかも高位のユニコーンの足音だ。
 あたしは空を振り仰いだ。果たしてそこにいたのは、青い空に浮かぶ曇よりも白い純白のユニコーンだ。
 それはざわめく人々を無視して、とても優雅にダンスの輪の中に舞い降りた。
 そしてそのユニコーンに乗る騎士はざっと周りを見回し、そして次に一点に視線を集中すると、体を震わせた。
「王子」
 そう叫んだ騎士が見ている先には驚きに固まっている彼女と手を繋ぐ彼がいた。


 ― 【嘆きの乙女】 ―

「どうだい、ノージュ?」
 あたしは顔を横にふった。
 それを見た彼女の両親は落胆の表情を深くした。
 あの後に彼は騎士に連れられていった。
 そして人々の間に流れたのは彼に関する真実だった。彼は隣国の王子様で、この街にいたのは、いずれ王となるべきその日に備えて、領民の暮らしを知る良き王となるべき修行をしていたのだ。しかも彼にはちゃんと許婚もいるらしい。
 その彼に彼女は別れの間際にこう言った。
『良き王となるその日を心よりお待ちしております。どうか健やかに』
 そう言った時の彼女の表情は笑っていた。とても綺麗に。だけど彼がユニコーンにさらわれるように乗せられて国に帰っていくと、彼女の顔からは表情は消えた。
 そして彼女はそのまま部屋に閉じこもり、あたしにすら顔を見せてくれない。
「どうしてこんな事に? くそ。あの男、うちの娘をよくもたぶらかして」
 どんと叩かれるテーブル。そしてそれと同じ瞬間に天井でもどんという音がした。まるで何かが床に落ちた…もしくは誰かが倒れたかのように……。
「まさか???」
 あたしは階段を駆け上った。
 そして彼女の部屋のドアのノブを握るけど、鍵がかかっている。
「えーい、ままよ」
 あたしはドアを蹴り破った。
 そして部屋に飛び込む。
 そこで見たのは・・・・・。
「【嘆きの乙女】」
 そう、そこにいたのは数人の透けている女たち。この世界を彷徨う哀れな女たちの魂だ。結ばれぬ恋をし、失意のうちに死んでしまった彼女らの魂はこの世界の精霊たちの祝福から離れて、彷徨う魂となる。そうしてその彼女ら【嘆きの乙女】は同じように決して結ばれぬ恋をしてしまい、強く死んでしまいたいと望む女の前に現れて、その魂を連れて行こうとするのだ。
「そんな事って。えーい、【嘆きの乙女】たちよ、貴女たちに彼女は連れていかせない」
 あたしは腰の剣を抜いて、それを闇雲に振り回した。それでというわけではないだろうが、【嘆きの乙女】たちは消え去った。
 あたしは剣を捨てると、急いで彼女を抱き起こした。彼女の口と左胸に続けて耳を押し当てる。
「生きてる・・・」
 あたしはほっとする。だけど・・・


「ダメじゃな。完全に心を【嘆きの乙女】たちに連れられていってしまった。このままではすぐに体が衰弱して、死んでしまう。残念じゃが私にはどうしようもない」
 この街の最高位の神父がさじを投げた。
 おばさんはその場に放心したように座り込んでしまい、そしておじさんはそんなおばさんを抱きしめながら、声を押し殺して泣き始めた。
 あたしはぎゅっと下唇を噛み締める。口の中に血の味が広がっても。
 ―――彼女のあの優しく温かい笑みを見ればわかる。彼女がどれだけ両親やこの街の人に愛されて生きてきたか。彼女は紛れもなく大切な娘だったんだ。だけどその彼女は・・・
 あたしはだからポケットからリボンを取り出すと、おろしていた髪を後ろでひとつにまとめた。
 腰に剣を帯びる。
 そのあたしを見て、神父さまは慌てた声を出した。
「何をする気だ、ノージュ」
「決まってます。彼女を【嘆きの乙女】たちから連れ戻しに行くんです」
「何を馬鹿な。あれらはこの世界すべての精霊の祝福から離れた存在。連れ戻せるものか。逆におまえが殺されるぞ!!!」
「じゃあ、どうすればいいと言うのです!!!」
 ヒステリックに言ったあたしの瞳から神父さまは逃げるように瞳を逸らした。そしてかえってその態度があたしを冷静にさせる。呆れる、という感情によって。
「すみません。神父さま」
「いや」
 神父さまはそう言うと、彼女の身体に手をかざして、この世界にいる精霊たちへの祈りを捧げ始めた。それでも衰弱する彼女の命を繋げられるのはわずか数日。
 あたしは小さく頭をふると、部屋を出て、一階の店に降りた。
 その店を見てると、自然に涙が溢れてきた。この街に来て、彼女と出会い、友達となって、それで今日までの事が脳裏に次々と思い浮かぶ。いつも笑っていた彼女。そう、彼女は笑っていた。それはつまり、誰にも自分の苦しさや怖さを見せなかったという事。彼女はずっと背負っていたんだ。そして今になって気づく。


『良き王となるその日を心よりお待ちしております。どうか健やかに』
 ―――そう言った時の彼女を。


「そうか。知っていたんだね、彼が誰なのかを・・・くぅそぉーーーー」
 あたしはがんと壁を拳で叩いた。
 どうしてあたしは彼女のその怖さに、悩みに気づいてあげられなかったのだろう???
 彼女はあたしをちゃんと見ていてくれたのに・・・。


『さっきだってまるで時を止めようとしているかのように絵を描いていて・・・そんなの・・・とてもノージュが・・・・・・だからわたしは』


 涙に歪む視界。だけどその時にその涙に歪んだ視界を横切ったのは一匹の蛍だった。


 ― 【扉】 ―

「絶対に諦めない。彼女のために」
 あたしはほとんど風化した石畳を蹴った。
 そして高くジャンプしたあたしは剣を一気に振り下ろす。しかしその刃は、硬い鱗の前に跳ね返されてしまう。
「くぅ。馬鹿にして」
 ダメだ。やはり剣では敵わない。
 ならば、今あたしが持ちうるすべての戦闘スペックを使って・・・
 あたしは一端、エンシェント・ドラゴンから距離を取る。そうして精神の集中。この世界の空気の一つ一つにある魔法の力を呼吸をするのと同じように体内に取り込む。


 お願い。
 あたしの中にある力。
 今までで一番の力を、あたしに与えて。
 力が欲しい。
 大好きな人を、
 大好きな人の笑顔を、
 大好きな人の心を、
 取り戻せる力を、あたしに。


『ノージュ。おばあちゃんになってもわたしたちずっと一緒にいようね』


 ――― そして奇跡が起きる。―――
 記憶を無くしたノージュ・ミラフィス。
 しかしその彼女が秘めたる力は、かつてこのエンシェント・ドラゴンと契約を交わした者よりも上であったようだ。
 ノージュの瞳が光り輝き、その瞳の中に高位魔法陣が描かれている。
 そして彼女の唇が何かを囁いた。
 転瞬、虚空に描かれる召喚魔法の魔法陣。そこより発せられた金色の光より現れたのは、一太刀の剣を持つ三対の羽根を持つ妖精。それはこの世界に実しやかに囁かれていた伝説の聖獣だ。
 そして、ノージュは何かを囁きながら、オーケストラの指揮者がタクトを振るように両手を動かした。まるで虚空に楽譜を描くように。
 そう、もしもそれが楽譜であったのなら、おそらくはその奏でられしメロディーはレクイエムであったのだろう。
 蒼銀色の鞘から剣を抜いた妖精は、その剣の一太刀によって、エンシェント・ドラゴンの命とも言える逆鱗を切り裂いた。
 ――― そして故にエンシェント・ドラゴンは灰となって消え去るのだった。 ―――


「はあはあはあ」
 まるで魂の力すべてを絞られたように力が入らない。
 あたしはその場に座り込む。
 だらしなく開けた口からでたらめなリズムで呼吸音が漏れる。呼吸が整わない。
 意識は混濁していた。
 視界は真っ白だ。おそらくは今、ほんの少しでも気を抜けば、あたしの意識は失われる。
「ダメ、ここで意識を失ったら・・・」
 ――意味が無い。
 あたしは下唇を噛み締めた。
 その痛みで飲み込まれそうになる意識を繋ぎ、ふらふらの足で立ち上がる。はっきり言ってもはや何がどうなって、あのエンシェント・ドラゴンを倒したのか覚えが無い。
 とにかくあたしは無意識ながらも神殿を目指した。目指すはあの吟遊詩人の歌にあった【蛍火の杜】。


 廃虚の神殿の奥深く。
 崩れ残ったそこに【蛍火の杜】への扉がある。そう、歌にはそうあった。
 だけど実際にそこに扉などを見る事はできない。あるのは古い部屋の壁のみだ。
「そんなぁ・・・」
 やっぱり、歌はただの歌。古い言い伝えなどではなく、ただの作りモノだったのだろうか?
 これまで必死に叱咤してきた膝もがくがくと震えて、あたしはその場に跪いてしまった。
 悔しさに溢れ出る涙で視界が歪む。だけど・・・
「あっ・・・」
 声が零れ出た。
 あたしの視線の先にある壁の部分には、文字が刻まれていた。
 あたしは弾かれたようにそこに近寄って、その文字を覆う埃などを慎重に壁を崩してしまわないように払った。
「これは失われた古代ルーン文字。だけど・・・」
 読める訳が無い。


 やっぱり、すべてがあの見上げた青い空と同じなのだろうか?
 ―――触れられそうで、その実指の先すら触れられない・・・


「くそぉ。くそぉ。くそぉ。くそぉ。くそぉ」
 両拳を石畳に叩きつける。何度も。何度も。何度も。何度も。
 そしてあたしは数十回そうやって両拳で石畳を叩いて、
「よし、八つ当たり終了」
 握り締めた拳で涙を拭うと、文字と睨めっこした。
 生きる者はあたし以外には誰もいない廃虚を風が吹き渡る。その音色があたしに昼間聴いた吟遊詩人のリュートを思い出させて・・・


『絵を描くあなたなら、きっと行けるのでしょうね』


 そうだ。あの吟遊詩人はあたしなら行けると言った。絵を描くあたしなら・・・。


 考えろ。絵を描くのに大切なのは何だ?


 何だ?


 器用さ?


 色のセンス?


 観察力?
 ―――観察力???


「観察力?」
 あたしはずっと文字を読むことに躍起になっていたから、今までそれに気づけなかった。だけど・・・
「これは・・・絵?」


 そう!!! そうなのだ。この古代ルーン文字・・・それが書き綴られた文章は絵になっている!!!!!


「これはああ、そうか。だまし絵・・・」
 あたしは愕然とした。
 そしてじっとその文字を眺める。
 眺める。
「ああ、見つけた扉・・・」


 なんとその騙し絵の中に扉があったのだ。


 恋する乙女は、扉を開き、【蛍火の杜】へ・・・。


 脳裏に響くあの吟遊詩人の声を聞きながらあたしはその開いていく扉を見つめて・・・




 ―【大地の精霊】―

 ・・・そして気が付いたらあたしは深い杜の中にいた。
 息苦しいのは、樹齢何万年にもなるのだろう樹々が呼吸をしているからだろう。
 あたしは後ろで髪をしばるリボンを解いて、髪をばっと掻きあげると、杜の中に進んだ。
 【蛍火の杜】。そこには大地の精霊から与えられた宝珠がある。
 そしてその宝珠がある場所に、蛍たちがいる。
 その蛍たちが願いを叶えてくれる。


 蛍は何処?


 だけどここには蛍などいない。
 生きているモノは樹や草のみだと想われる。いや、それすらも怪しい感じが。
 そう、まるでどこか杜にいるというよりも墓地にいるような・・・。
 そんな気味の悪い感じに苦しみながら、あたしは杜の奥へと向った。そちらから水の匂いがするのだ。
「蛍は水辺にいるはずだからね」
 しかしあたしのその考えははずれていた。確かにそこに池はあった。とても澄んだ水の池が。だけど、そこには魚すらも住んではいない。まるで一口飲んだだけでも死んでしまいそうなそんな感じ・・・。冥界にでも繋がって・・・
「なぁ・・・・」
 あたしは絶句する。
 まさしく冥界にでも繋がっているような、そう想った瞬間に、池からあの世の亡者たちが這い上がってきたのだ。今あたしが感じるプレッシャーは先ほどのエンシェント・ドラゴンの比ではない。
「くそぉ。そんな、ここまで来て」
 あたしは剣を鞘走らせる。しかしあたしの腕ではあの世の亡者たちなど・・・。
 どうすればいい?
 ―――そこへ来て、あたしの視界にそれが映った。かの暴君が目指した大地の精霊の宝珠。あれがあれば、ここの亡者たちどもなど目じゃない。それにひょっとしたらあたしの失われた記憶だって・・・。
 そう想った瞬間・・・


『ええ。記憶だって、取り戻せるわ、ノージュ』
 ―――そう笑いながらあたしに言ったのは青い髪に縁取られた美貌の中で翡翠色の瞳を悪戯っぽく輝かせているもうひとりの自分。
「そんな、あたしがどうして?」
 ―――しかもいつの間にかあの亡者どももいない。


『さあ、ノージュ。この宝珠を手に取りなさい。そうすればあなたの記憶は取り戻せる。そしたらもう自分探しの旅なんてしないですむわ』
 自然に足が一歩、前に出ていた。
 ―――心は欲している。あの宝珠を・・・記憶を。


『記憶を取り戻したら、そしたらおばあちゃんになるまで・・・いつかこの世界にある大いなる魂の輪に還るまであの街にいられるわ』


 周りはもはや【蛍火の杜】ではなかった。
 周りは、あの街。
 彼女と一緒に腕を絡めて歩いた街・・・


 彼女?


 そうだ、あたしは・・・


『残念ながら、この宝珠には彼女を助ける力は無いわ。だけどあなたは記憶を取り戻せる。それでいいじゃない、ノージュ。他人なんか知ったこっちゃ・・・どうしたの? 何を笑っているの、ノージュ?』


「ダメよ。ダメ。ダメダメじゃない、あなた」


『なにが?』


「間違わないで。あたしはここに大地の女神の宝珠を求めてきたんじゃない。この【蛍火の杜】に住む蛍たちに願いを叶えてもらいたかったから、それでよ」


『蛍たちに願わずとも、この宝珠であなたの記憶は戻る』


「だからそうじゃない。あたしは彼女の命を救うためにここに来たの。記憶はいつか必ず自分の手で取り戻すわ」


 あたしが怪訝そうに眉根を寄せたのは、そう言ったあたしにもうひとりのあたしがけたけたと笑い出したからだ。


「何がおかしいの?」


『いえ、ごめんなさい。ノージュ・ミラフィス。ええ、ノージュ・ミラフィス。あなたはすごいわ。その【意志の強さ】−世の中の理不尽や困難な事態に直面しても笑って受け入れ、乗り越えて行ける意思の力。ええ、あなたはその華奢な外見から想像するよりもずっと、ずっと強いのね。そう、とても眩しき意思の力。故にこの【蛍火の杜】に蛍が舞う』
 

 そして彼女がそう言った瞬間に、再びあたしは【蛍火の杜】にいた。
 ―――そのあたしを取り囲む数の概念を超える蛍たち・・・蛍?


「蛍じゃない・・・これは魂?」
 そのあたしの問いにもうひとりのあたし、いや、
『そうです。ノージュ・ミラフィス。これは蛍ではない。聖獣界ソーンに住まっていた聖獣たちの魂。しかしこの【蛍火の杜】に集まる聖獣たちの魂は色んな理由で汚れてしまった魂。自力では大いなる魂の輪にも戻れず転生も望めぬ魂。だけどノージュ。あなたがそれを救ってくれた』
「あたしが?」
 あたしは指で自分を指す。そしてそのあたしに・・・大地の精霊が頷いた。
『そうです。あなたは自分の事を二の次にし、友の命を優先させた。故にその清らかな想いの力が、汚れてしまった聖獣の魂を浄化したのです。ああ、そうして聖獣の魂は大いなる魂の輪に還る事ができる』
 その瞬間に蛍のように蛍光に輝く魂たちは、【蛍火の杜】の上空に飛んでいく。星空さえ望めぬ太い枝に隠された空に。
 そしてあたしは大地の精霊を見た。
『すべては儀式でした。邪なる者がもしもこの試練に望み、この儀式が失敗していたら、聖獣たちはまた待たねばなりませんでした。次の者が来るのを。だけどあなたが来てくれた。本当にありがとう。さあ、ノージュ。これがあなたの望みを叶えるモノです。この花の蕾に溜まった露を、彼女に飲ませなさい。そうすれば必ずや彼女は助かります』
「ありがとうございます」
 あたしがそう言うと、彼女はにこりと笑い・・・

 ・・・そしてあたしは気づくと、あの廃虚の扉の前にいた。


 ― 【援軍】 ―

「おっと、お嬢ちゃん。生きて帰りたきゃ、その手の中のモノを置いていきな」
 あたしを待っていたのは、この廃虚の周りをうろついていた山賊ども。最悪だ。
「ふん。先ほどのエンシェント・ドラゴンとの戦いはすごかったが、しかしもはやお嬢ちゃんには魔力は残ってまい。さあ、命が欲しけりゃ・・・がふぅ」
 と、そこで男が言葉を止めたのと、口から大きな血塊を吐き出し、胸から矢を生やしたのとはほとんどが誤差数秒だった。
「な、なんだ?」
「どうしたんだ?」
「誰が御頭を???」
 ざわめく山賊ども。そして、その山賊どもの頭上から矢が降ってくる。あれは・・・
「あの国の旗は!!!」
 月光に照らされて夜風に翻る旗に描かれたのは彼の国の紋章だ。
 まさか、彼が・・・
「ノージュさーん」
 そしてあたしの前に一頭の煌びやかな馬具を身につけたユニコーンが舞い降りる。そしてそれに乗っていたのは、
「やっぱり、あなた」
 感動に喉を詰まらせたあたしに彼は優しく微笑んだ。
 彼は頭を下げた。
「すまない、ノージュさん。だけど俺は、彼女には嘘は言っていなかった。彼女を想う気持ちは」
「ええ、わかっているわ。だからあなたはここに来てくれた。だけどいいの?」
 ――彼には許婚がいた。
 彼は頷いた。
「お互いが親が決めた間柄。実は数刻前まではお互いに顔も知らなかった。だからお互いに未練は無かったんだ。彼女にも想い人がいて、両方の親もわかってくれた」
「そう」
 あたしは夜空を見上げる。そこにあるのは満月。それはやっぱり手を伸ばせばその手に取れそうだけど、しかし取れないのだろう。だけどあたしが望んだ彼女の幸せはちゃんと今、彼女と彼の手の中にある。だからあたしは・・・
「はい、これを」
「これは?」
「それは彼女の命を救う花。その花の蕾の中にある露をあなたが口移しで彼女に飲ませてあげて。そうすれば彼女は助かるから」
「し、しかし、その役目はノージュさんが・・・」
 あたしは肩をすくめる。
「お姫様を悪い魔法から救う一番の魔法は王子様の優しいキスだわ。あたしはその二人の仲を取り持つ良き魔女。そう、それだけ。だからさあ、早く」
 あたしはためらう彼の手に花を握らせる。
 そして彼はあたしに頷いた。
「じゃあ、ノージュさん。早く、俺の後ろに乗って」
 だけどあたしはそれに顔を横に振る。
「ごめん。ちょっともうへとへと。だから、先に行っていて」
「・・・ああ、わかった。じゃあ、また後で」
 そして彼は満月の光が一筋降りる地にある街へと、ユニコーンを走らせた。


 ― 【ラスト】 ―

 自分探しの旅の途中でふらりと立ち寄った街で買った新聞には、A国の王子がお后をもらったというおめでたいニュースが載っていた。
「なんだい、ノージュ。嬉しそうな顔をして」
「ううん、何でもないの。ただ良かったって」
「良かった? 何が??」
「友達の幸せが♪」
 あたしはそう言って笑うと、青い空を見上げて、手を伸ばす。
 相変わらずその青い空は指の先に掠りもしないけど、だけどほんの少しだけ、前よりも近くに感じられた。


 もしも自分を見つけることができたら、そうしたら彼女に会いに行こう。
 ―――きっと、その時にはあの変わらぬ笑顔で迎えてくれて、そしてその後にぷぅーっと頬を膨らませて、こう言うに違いないから・・・

『もぉーぅ、ノージュったら、お礼も言わせてくれずにわたしの前から立ち去って』


 あたしはくすくすと笑いながら前に歩き出すのだった。


  ― fin ―



 **ライターより**
 こんにちは、ノージュ・ミラフィスさま。
 ライターの草摩一護です。


 どうもこのたびは本当にありがとうございました。><
 ご依頼していただきとても嬉しかったです。
 どうだったでしょうか、【蛍火の杜】?
 お言葉に甘えさせていただき、目いっぱい草摩色でやらせていただきましたが?
 少しでも気に入っていただけていると、嬉しい限りです。^^
 本当に気持ちよく、楽しく書かせていただくことができました。

 ソーンは本当にこういうライトノベル形式しか書けないので、どうかな? とずっと想っていたのですが、こうやってご依頼もしていただけて嬉しかったですし、安心もできました。またやる気もいただけましたし。本当にもうお世話になりっ放しで。^^


 ソーンは今のところシチュノベ一本でやっていくつもりなのですが、またよろしければ書かせてください。その時は誠心誠意書かせていただきます。


 それでは本当にありがとうございました。
 失礼します。