<東京怪談ノベル(シングル)>


虹魚と自由の空

 ずっと前から思っていた。ずっと前から感じていた。
 自由な風を。
 自由な空を。
 今、めいっぱい胸に空気を吸い込む。ほら、こんなにドキドキするのは気のせいじゃないから。

「お嬢さま〜! シノンお嬢さま――!!」
 声が遠ざかっていくのを確認して、あたしは小さく胸を撫で下ろした。
「メイド長、ごめん……」
 呟くけれど、それは後悔の言葉じゃない。これから始まる遊びの時間の合図。
 だって、毎日礼儀や作法のお勉強じゃ、気が変になりそうんだもん。
 あたしの家、つまりルースティーン家はいわゆる大きな地主のようなもので、広い屋敷にはメイドが4名に料理長とコック。何の不自由もない――はずなんだけど、あたしにとっては鳥篭だった。与えられた自由は屋敷の中だけ。街に出るのも散歩に行くのも父の許可が必要だったし、許可が下りたってもちろんお供付きに決まっていた。
 森も川も、街も村も、そこに住む人々だって大好きなのに、あたしはいつも籠の中。

 だから逃げ出す。いつも。
 声が完全に聞こえなくなったのを確認して、茂みから顔を出した。そっと腰を屈めて、綺麗に整えられた庭を奥へと進む。周囲の物音探査に気を取られ、危うくクイナダの実に触れて音を鳴らしてしまうところだった。この季節には実が熟して、涼やかな音色を響かせるのを忘れていた。
「ちょっと静かにしててよ」
 をそっと通る。あたしの誕生を祝って父上が植えてくれたクイナダの木。もうすっかり私の背を追い越していた。本来、枝葉の頂上辺りにしか実らないクイナダの実に触れる理由はこの木がまだ幼いからだ。それ故に背が低いことを痛感してしまうが、この際は放っておく。小柄なことで助かった経験が何度もあるんだから。
 ようやく葉と実の間をすり抜け、庭の端にきた。見張りはいない。
「父上、親不幸者をお許し下さい……なんて! うししっ美味しいお茶でも飲みに行こ――!」
 駆け出す背中に懺悔の色はない。あるのは、歓喜の色だけ。


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 お気に入りは街の雑談所。気のおけない友人がたくさんいる。あたしがルーティーン家のお嬢さまだってことを知ってもなお、喜んで友達でいてくれる大切な人達。今日も誰か来ているかもしれない。
 煉瓦の敷き詰められた街角を、心も軽く闊歩する。鼻歌混じりでご陽気に。
「あれ? 何してるのかな……?」
 ふと目に止まったのは、橋の欄干に座っている少年達だった。近づくと長い棒のようなものを川へと下ろしている。
「ねぇ、何してんの?」
「シッ!! 静かに」
「へっ? なんで静かにしなきゃいけないんだよ!」
 少年達は困ったように眉を寄せて、あたしをグイグイと引っ張った。ずいぶんと橋から遠ざかってから、大声で怒鳴られた。
「今、釣りしてんの!! ここの魚は音に敏感なんだ。寄餌蒔いたくらいじゃかかんないんだぞ!!」
「魚……って釣るものなのか?」
 驚きのため息。分かってる……自分が無知だってことくらい。

 ――だから、父上の言う通り勉強したって、世の中に出たらなんの役にも立たないんだ……。

 自分の身の上に憮然としていると、肩を叩かれた。
「今時、魚を釣るってことも知らない奴がいるなんて知らなかったよ……不憫」
「なっ何だよ! あたしだって、好きで知らないわけじゃなんだから!」
「あたし……って、お前女だったのか!?」
「悪いかっ! どうして男って身なりを気にするの? いいじゃないか、好きなものを着たいんだもん」
 あたしの剣幕驚いたのか、少年が一歩後ろに下がった。仲間通しで顔を見合わせ「ゴメン」と小さく謝ると、ニッカリと笑った。
「釣り、知りたいか?」
「……えっ? うん!! 知りたい。釣りがどんなものか知りたい!」
 少年達について声を抑えて橋の欄干まで戻った。釣り上げられた魚が小さな器の中で泳いでいる。
「綺麗……これ、どうするの?」
「売るんだ。ニギって名前で、色の配色がよかったり珍しい色だと、高く買ってくれるんだ」
 そう言えば、父上の友人宅に招かれた時に見たことがあるような気がする。
「虹みたいだね♪ あたしも釣りたいな」
「俺のを貸してやるよ。釣れたらやる」
「ほんと! ものすごーく綺麗なのが釣れても返さないからね!」
 少年が笑いを堪えられないのか、腹と口に手を当てて足をバタつかさせた。
「も、もちろん! 男に二言はないぜ」
 釣れるわけがないとでも思っているのだろう。声に出さずに笑っている奴の後ろで、他の少年が「無理だよ」と肩をすくめた。こうなったら、絶対に釣ってやるしかない。あたしは決心した。

 ――初めてだろうと、難しかろうと、やる時はやるんだからね!

 よくしなる棒を垂らす。先についた糸に針がくくってある。丸くこねた餌を取りつけてあるけれど、食いつくのは一瞬らしい。
「ほら、失敗。……まぁ、見てなって」
 何度も挑戦したけれど、魚が食いつく瞬間すら分からない。閉口していると、少年達が見本を見せてくれた。
 ちょいと下げて、ちょいと上げる。棒の先に視線を集中させ、わずかに棒先が動いた途端、ものすごい勢いで釣り上げる。彼が大きく伸ばした腕の先にはキラキラと太陽の光を浴びて輝く魚の姿。
 感動すら覚える。
「負けないからね!」
 あたしはもっと心を込めて、再び垂らした棒の先を見つめた。
 繰り返すこと数十回。
 太陽は夕焼けにその身を焼き始め、あたしの頬も川の水面も可笑しそう見ている少年たちの顔も、美味しそうないい色に染まっていた。
 もう駄目だと諦めかけた時、指にわずかな振動が伝わった。
「今――!!」
 思いっきり引っ張った棒の先に、虹色の光。
「うわぁ〜上玉じゃん! やられたなぁ……」
 針から取ってもらった魚は美しい虹色。特別だと手渡されたガラスの器に「あたしのニギ」を入れた。水の中で、揺らめく虹色の鱗。あたしは嬉しさに飛びあがりそう。少年達にお礼を言おうとした瞬間、
「お嬢さま!! 見つけましたよ!!」
「メイド長!? なんで、ここが……」
「あんなに大騒ぎされていたら、誰でも気づきます! さぁ、ご主人様が心配されてますよ」
「もう、父上帰ってるの?」
「とっくに!! さぁ、急いで」
 あたしは強引に馬車に乗せられた。手には魚の器。走り出した馬車の窓から叫んだ。
「ありがとう!! また、きっと一緒に釣りしようね!!」
 手を振る。少年達も手を振ってくれた。
 お互い名前も、素性も知らない。けれど、心を通わせることはできる。
 あたしも始めなくちゃ、何か。

 自分自身を輝かせる何か。
 友達になってくれた人に恥ずかしくないように。
 いつか自由になった時のために。


□END□

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 初めましてv ライターの杜野天音です。
 ソーンと言う世界にちゃんと生活して、立っているんだと分かるようにしたかったのですが、
如何でしたでしょうか?
 シノンは素敵な子ですね。自分で歩くことを知ってるから。
 そんな頑張り屋さんとまた会える日がくることを楽しみにしていますvv
 今回は楽しい作品を書かせて頂き、ありがとうございました!