<東京怪談ノベル(シングル)>


追憶
 チェチーリアが岩場に腰かけてぼんやりしていると、砂浜でふたり並んで語りあう恋人たちの姿が目に入った。
 ああ、自分にもあんな時代があった。チェチーリアはふと、思い出す。
 そう、自分がまだ人間だった頃のことだ。
 幸せだったあの頃。
 もう戻らないあの頃。
 チェチーリアは目を閉じて、波の音に耳をすませた。
 優しい波の音だけが、チェチーリアの心をなぐさめる。
 波の音に揺られて、チェチーリアの心は過去へと飛んでいた。

「それが、おまえのためなのだから」
 父がそう口にする。
 チェチーリアはきっと、父をにらみつけた。
「私のため? お父様は私のことなど、少しも考えてくださらない。お父様の頭の中にあるのは出世だけだわ。私のことなんてどうでもいいのよ!」
「……もう、決まったことだ」
 それだけ言い残すと、父はチェチーリアを残して部屋を出て行く。
 チェチーリアは寝台にすがり、そして泣いた。
 逆らうことなどできないのだ。
 相手は国王――側室になれと言われれば、拒むすべはない。
「……そうよ、あの人に……」
 そしてひとしきり泣いたあとで、チェチーリアは立ち上がった。
 恋人のもとへ行こうと決意したのだ。
 もしかしたら、あの人がなんとかしてくれるかもしれない。そう思ったのだ。
 だが、そうして訪れた恋人の屋敷で、チェチーリアは絶望の底に叩き落された。
「……なにがあろうと、僕は必ず、きみのもとに帰ってくるよ」
 悲痛な面持ちで、彼はそう口にした。
 燃えるような赤い髪をした恋人は、貴族であり、騎士だった。だから、王から戦地へ赴けと命じられれば、行かないわけにはいかないのだ。
「でも、私はその頃にはもう……王のもとへ嫁いでいるわ」
 チェチーリアは恋人にすがり、いやいやと首を振る。
 できることならば、このままふたりで逃げたかった。見ず知らずの男の妻になどなりたくはない。
 もちろん、そんなことができるはずはない。それはチェチーリア自身、よくわかっていた。
 それからすぐに彼は戦場に行き――そして、死んだ。

 側室として嫁いだチェチーリアのもとに、国王が訪れていた。
 国王はチェチーリアよりずいぶんと年上だ。とはいえ、まだ若く、40には達していない。
「歌え、と命じている。なぜ歌わない?」
 国王はいらだったような声音で言う。
 チェチーリアはそっぽを向いた。
 チェチーリアは望まぬ歌をうたうような、そんな女ではない。
 国王がせめて、民から愛される国王であったなら、チェチーリアはうたっただろう。
 けれども、そうではなかった。国王はただの暴君。民はいつも心に不満を抱えている。
「歌え、と言っているのだ!」
 国王はさらに、傲慢に命じる。
 チェチーリアは顔を上げた。
「アナタが民の為に歌うなら、私はアナタの為に歌うわ。慈愛の心を持たぬ者に私は歌は歌わない」
「……この、小娘が!」
 国王が剣を抜く。
 その剣が、チェチーリアへと振り下ろされた。
 声を上げるいとまもなく、チェチーリアは倒れ伏した。
 毛足の長い絨毯を、血が赤く染めていく。
 薄れゆく意識の中でチェチーリアが耳にしたのは、
「恋人を死地においやってまで手に入れたというのに」
 とつぶやく国王の言葉だった。

 やがて、息絶えたチェチーリアを見下ろし、国王はおつきのものへと視線を向けた。
「死体は海へ投げ捨てよ」
 命じられた相手は、ひざまずき、こうべを垂れる。
 そして国王が去ったあとで、複数でチェチーリアのなきがらを抱え上げる。
 この部屋のすぐ下は、海となっている。
 開け放った窓から、チェチーリアのなきがらは放り出された。しばらくして水音が響いたが、水面は静かなまま、なんの痕跡もなかった。