<東京怪談ノベル(シングル)>
天井裏の天使
風の音がやけに騒いで、落ち着かない夜だった。
起きているのか、寝ているのか分からない。そんな気分で、うたうたと夢の狭間を漂っていた。
刀伯・塵は、腕を枕にゴロリと寝返りを打った。行燈の灯が揺れる度、壁に映った物影が生き物のように蠢く。
それはまるで主の寝ている隙を見計らい、いつ壁の中から這い出そうかと、怪しげな相談をしているかのようにも見えた。
嫌な想像ばかりが膨らむ。
塵は仰向けになった。
風が囂々と鳴く。
戸を叩き窓を軋ませ、時折、何かを転がしてゆく。
その音は、ガタガタと、ゴロゴロと、何かしらの音を絶えず響かせ、塵の眠りを妨げた。
ほお、と息を吐く。
天井の隅の、大きな影に目をやった。
どの影よりも、一際黒い。
ほぼ真円で、大きさは塵の両手を広げたほどもある。
一体、何の影なのだろう。
辺りにそんな影を作りだすようなものは、何も置いていないのだが。
スー、と。
影が動いた。
「まさかな」
塵は目を見張る。
だが、そのまさかであった。
五センチ、十センチ、二十センチ。
影は天井の中心へ向かって移動している。
音もなく、ゆっくりと。
やがて塵の真上まで来ると、ピタリと動くのを止めた。
手が、無意識に枕元の刀をまさぐる。
これは本当に影なのだろうか。
命を持って動いているようにも思える。
塵は、その考えに慌ててかぶりを振った。
「そんな馬鹿な事があってたまるか。これは単なるカ──」
言いかけた言葉を飲み込む。
何かがそこを横切ったのだ。
流れ星のように一瞬で、形まではハッキリと見えなかったが、黒い円の端から端へ、白い物体が通り過ぎた。
外側では無い。『内側』を、だ。
「な、何だ?」
塵は柄を握りしめた。鼓動が早くなっている。
風が不安を煽った。
ゴクリと唾を飲み、影を見つめる。
何も起こらない。
多分、気のせいだったんだと思った矢先──
ニュと。
無数の顔が、円一杯に現れた。
ぎゅうぎゅうとひしめき合い、三日月のような目と口で、ニタニタとイヤらしい笑みを浮かべている。それが、皆、自分を見下ろしていた。
影では無かった。生き物でも無かった。
あれは、穴であった。
得体の知れない輩を呼び込む、出入口だったのだ。
「冗談は止めてくれ! 俺の願いは、穏やかな隠居生活なんだ!」
塵はそう言って、飛び起きた。
否、そうしたつもりだった。
だが、どうした事か背中が布団に貼りついたまま、一向に剥がれようとしない。先ほど、刀を掴んだ腕も、全く動かなくなっていた。
「くそっ! どうしたんだ!」
三日月が塵を見つめて笑っている。
塵は焦った。
起きあがろうとして、もがいた。
微塵にも動かない足と手に苛ついた。
それをあざ笑うかのように、顔が塵めがけて一斉に落ちてきた。
満身の力で。
塵は跳ね起きた。
刹那──
はたと、目が覚めた。
夢だったのだ。天井には影も顔も無い。塵はホッと胸を撫で下ろした。
外では相変わらず風が吠え、窓や戸を叩いている。
体が嫌な汗をびっしょりと掻いていた。心臓も荒れ狂っている。
布団がやけに重い。
「なにかいるな」
頭を起こすと、白ワニが大きな体を塵の腹の上に横たえて眠っていた。
この圧迫感。悪夢を見たのも、体の自由が利かなかったのも、これのせいに違いない。
「ここで寝るなと言っただろう」
塵は疲れ切った面もちで、ワニの体を転がした。
チラリと天井に目を向ける。
「しかし……本当に夢なのか?」
怪現象を呼び込む通用門。
あり得ない事では無い。
塵はおもむろに後頭部を撫でた。
先日、娘と共に出くわした、謎の生物を思い出したのだ。それは天井から落ちてきた。
フワフワ金髪に、白い顔。愛くるしい笑みを浮かべながら、ぺこぺこと頭を下げる。
この世界へ来てから知った、『天使』と言う西洋の神の使いに似ていなくも無い。
だが、何故かヌルヌルしていた。
ヌルヌルの理由は、今なお不明であった。
「まさか……」
塵の頭に、嫌な考えが渦巻く。
未確認の天井裏で展開する、ヌルヌルワールド。そこでは、ヌルヌルしたあの天使が寄り集い、ウヨウヨと集会を開いているかもしれない。
「今日は天井の大掃除だな」
塵は鬱めいた顔で、天井を見上げた。このモヤモヤを吹き飛ばすには、それしかなさそうである。
だが、今は朝まで、もう一寝入りだ。
塵は布団に潜ると、再び目を閉じた。
風はしばらく唸っていたが、明けと共に雲を連れて南へ去った。
見事な快晴の朝がやってきた。
「良し、行くぞ」
まるで、討ち入りだ。
着物の袖と裾をたくし上げ、塵は天井を睨んだ。
小脇に抱えた梯子を、壁に立てかける。深呼吸一つ、塵は一段目に足をかけた。
通路の曲がり角から、温泉ペンギンとカエル男爵が塵を眺めている。
「……」
「ゲゲゲ」
何をするつもりなのか、とそんな様子であった。
塵は二人? の視線を受けながら、一段一段、ゆっくりと梯子を昇った。
ギイギイとそれが鳴る。
頭が天井へ辿り着いた。
羽目板を押し上げると、真四角の黒い穴がぽっかりと開く。
塵は夢で見た顔を思い出し、ぞっとした。
「行くしか無いんだよな……」
はあふうと深呼吸し、塵は天井裏を覗き込んだ。
真っ暗である。
用意した蝋燭に火を灯そうとした、その時。
ヌルゴッ!
「うわっ!」
何かが後頭部に思い切りぶつかった。
塵は顔を前に突き出した格好で、眉根を寄せる。
この感触。
頭の後ろがべったりする。
間違いない。
『あれ』だ。
げんなりする塵の目の前に、『ヌルヌル天使』は現れた。
パタパタと羽ばたきながら。
ゴメンナサイ、ゴメンナサイと、必至になって謝っている。
やはり、天井裏にいたのだ。
塵は目眩を覚えた。
天使は謝りながらも、塵から遠ざかろうとする。
「待て」
天使はビクリとして振り向いた。顔が今にも泣きそうだ。
塵は気まずい思いで、手招きする。
「何も取って食おうって言うんじゃない。話がしたいだけだ」
だが、天使は遠巻きに塵を眺めたまま、口をへの字に曲げている。来るのを拒んでいるようだ。
「俺が行くしかないか」
塵は、やれやれと天井に手をかけた。
その途端──
ヌル。
「!」
その手触り。
慌てて手を離した塵は、バランスを崩して豪快に梯子から滑り落ちた。ドドドドッと転がって、嫌と言うほど床に頭を打ち付ける。
「だぁっ!」
目から星が散った。激痛のあまり、涙が出てきた。頭を抱えると両手がヌルリとした。ヌルヌルでベッタベタである。
「だから何故、こうなんだ!」
塵はがなった。
天使が穴から塵を見下ろしている。躊躇っていたようだが、やがてパタパタと塵の傍らに舞い降りた。
ダイジョウブ? ダイジョウブ?
と、表情で問いかけてくる。
怒るに怒れない愛らしさだ。
手の中では、大きなコブが膨みかけている。
塵は顔をしかめて起きあがった。
ヌルヌルしていなければ、可愛いのだ。
ヌルヌルしていなければ、気の優しい生物なのだ。
だが、髪も体も顔も、ヌルヌルしている。
それが非常に気になるのだ。
塵は、ヌルヌルを取り除こうと考えた。
「それは落ちないのか?」
──コックリ。
天使は頷く。
「洗えば落ちるんじゃないか?」
フルフルと横に動く顔。
「もしかして、そのヌルヌルは、自分で出してるんじゃないよな?」
間髪置かず頷く天使。
深く長い呼吸を、塵は吐き出した。
天使は可愛い顔をして、体中から粘液を発する、希代な生き物だったのだ。なめくじ科?
ヌルヌルする子のヌルヌル落としを、塵は諦めた。
「……他に仲間はいるのか?」
ブルンブルンと小さな顔が揺れる。
「いないんだな?」
──コックリ。
塵は梯子をかけ直し、行燈を手に無言でそれを昇った。
そっと天井裏を照らして、卒倒しそうになる。
想像していた通りだった。
一面、ヌルヌルだ。
たった一人で、ここまでヌルヌルさせた事に、塵は感心したり呆れたりした。
下を見ると、天使がニッコリ笑っている。
誰も褒めてはいないのだが、褒められでもしたかのように誇らしげだ。
塵は言った。
「こんな屋根裏で暮らしているから、不健康になるんだ。いっそ下で生活したらどうだ?」
しっとりヌルヌルする理由は、そこにあると言わんばかりの物言いだ。
だが、天使もそうしたかったのかもしれない。コクリと頷いた。梯子の一番下の段に腰掛け、足をブラブラする。小さな背中に、小さな白い翼がきっちりと折り畳まれていた。塵を見上げた顔は笑っている。
温泉ペンギン、白ワニ、ムサいおっさん像、カエル男爵、赤ん坊、その他もろもろの幽霊達。
今更何が増えようと、大して変わらないと思うのは、やはり適応能力の為せる業だろうか。
塵は羽目板を元に戻し、梯子を降りた。
天使がパタパタと道を譲る。
ヌル!
ドサ!
天使の居た場所がヌルヌルしている事を、塵は見事に失念していた。そこを踏み場にするとは。
「……」
もう言葉が出ない。
仰向けに倒れた塵の顔を、天使が不安そうに覗き込んだ。
「やはり、そのヌルヌルを何とかせにゃあならんな……。とにかく、もう、上には戻るなよ?」
天使はうんうんと頷いた。
塵は無意識に手を伸ばし、その頭を撫でる。
ヌルヌルヌルヌルーッ。
これさえなければ……。
塵は少し遠い目で、苦笑した。
問題がまた一つ片づいたのである。
達成感に包まれながら、塵は大きく伸びをした。
窓の外を見やる。
空の青を映した、ガラスのような水面。庭の池の小さな島で、長いヒゲを生やした亀が、ひなたぼっこしている。
穏やかな良い一日になりそうだ。
できたてほやほやの島と、謎の亀の出現に気付くまでは。
終
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