<東京怪談ノベル(シングル)>


カンバセーション・ピース



「眩しくて眠れないわ、シギョウ。それ以上お仕事を続ける気なら灯を消して」
 凛と響くも舌足らずな声音にふと戸口を振り返ると、そこには年端も行かぬ幼い少女がじっと女を見上げて佇んでいた。
 白と薄桃の繊細なレースをあしらったネグリジェの裾から、小くすべらかな足がのぞいている。左手に抱えている銀毛の豹のぬいぐるみは、以前この国の王が彼女に与えてやったものだ。
 この国からずっと遠く、地の果てに住むと言われている銀豹。絵本に記されたそれを「欲しい」とせがんだ自分の娘に、王はかの国からこのぬいぐるみを取り寄せた。以来、少女は毎夜ぬいぐるみを抱いて眠っている。
「ずいぶんとご無体をおっしゃいますのね。しかしながらこのシギョウ、仰せつかった職務を途中で放りだすわけには参りませぬ」
 女――シギョウは苦笑しながら、少女をたしなめるような口調でやんわりと返した。白く細い指が古い書物のページを繰っている。そのすぐ横では薄い硝子のランプが灯されており、窓から漏れるその灯が少女の部屋の窓辺を照らしているのだった。
「姫さまも、どうか我儘を申されず――床におつき頂けますよう」
 鴉の濡れ羽がごとくつやめいた長い黒髪の、美しい女である。が、その姿をシギョウが人前に晒すことはごく稀だった。
 この国の、守護獣。
 建国された頃よりハルバニアを護る聖なる獣として、彼女は常に時の王の側にある。
「聞こえなかったの? 灯が眩しくて眠れないのよ。父さまにお願いされたお仕事を続けるのなら、その灯を消して。そうじゃないなら、早く寝て」
 戸口で腕組みをしながら、少女がいまだ板に付かない王族の貫録でそう曰うので、シギョウの微苦笑はわずかに深くなった。
 民、ならば。
 いかに少女の大人ぶった言動が微笑ましくとも、そして腹立たしいものであっても、王の娘である彼女の言葉は王の言葉に等しく絶対のものである。
 灯を消せ、さもなくば寝よ。
 この国に暮らす国民であれば、従わずにはいられない命令なのだ。
 が、シギョウはページを捲る手指はとめないまま、ゆっくりと首を傾いで少女――王女を見上げた。「しかしながら、姫さま――」
「わたしが寝なさいと言ってるんだから、シギョウは寝れば良いの!」
 業を煮やし、雷を落とす。それでも、シギョウの指先は止まらない。
「……しかしながら、姫さま。今宵のシギョウには、身体を横たえるためのベッドも、首を休めるための枕もございません。与えられたのは、王よりの責務とこの灯のみ」
「だからっ…!」
 勢いのままに紡ごうとした言葉は、王女の喉の奥で止まってしまう。恨みがましい眼差しを向けたままでいくばくか沈黙したあと、少女の声音がぽつりと、告げた。
「……ん…なさ…」
「この調べものを済ませてしまったら、王に新しい寝室の用意をお願い申し上げなくてはね……
「ごめんなさい……あの……」
「そう。明日のモーニングには、姫さまのお嫌いなビーンズのグラッセが添えられていると聞きました。でも、ご立派に成長遊ばされた姫さまのこと……シギョウの助けなどなくとも――」
「だからっ! ……ごめんなさいっ…!」
 そんな言葉の応酬に、耐えきれず吹きだしたのはシギョウであった。
 王女を見つめる眼差しは優しく細められ、可笑しくてたまらないと言ったふうに口許が綻ぶ。そこに至りようやく、シギョウが自分をからかっていたのだと気付いた幼い少女は頬を赤く染め、口唇を噛んでは無言の抗議に出る。
「姫さま、ご自分でなされぬことは容易に命じてはなりません。お一人では恐ろしくて眠れないというお方が、どうしてシギョウを部屋から追放して安眠できましょう」
 城の裏手には、決して一人で足を踏み入れてはいけないと王にも堅く言い含められている小さな沼がある。
 少女は昼間、たった一人でそこに足を踏み入れて一人遊びに興じ、結果ドレスの裾を破って帰ってきた。
 うっすらと付着した泥汚れが、沼に近寄ったことの何よりの証である。夕食のあと、それをくどくどと叱ったシギョウに対し、少女は部屋への出入り禁止を命じたのだった。
「だって、シギョウがひつこくわたしを叱るから……」
「沼への出入りを禁じているのは、何もシギョウだけではありません。王は勿論の事、姫さまを大切に思うものたちはみな――姫さまを想うがゆえの愛の鞭、どうかご理解あそばせ」
 んん、と少女は曖昧に唸り、扉に寄りかかってはもじもじと爪先で床を突いている。正論を問われ、困ったときの少女の癖である。自分が悪いと判ってはいても、さらに口から謝罪が漏らされるには時間がかかる。シギョウへの謝罪が、言葉数の問題とは言え三回もなされたことに関しては異例の事態と言っても過言ではない。
「と――お説教はここまでにいたしましょうか。早く眠らないと、お昼のピクニックにさしつかえます」
 ようやく、シギョウは分厚い書物をぱたりと閉じて机の端に寄せる。それは王から命じられた調べものなどではない。眠れぬ夜の伽噺として、シギョウが書庫から失敬してきた適当な一冊であったのだ。
 そこまでは少女に告げぬままで、シギョウはゆるりとソファから起ち上がった。「参りましょうか。シギョウの出入り禁止はようやく解かれましたか?」
 少女はぎこちなく、それでも大きく首を縦に振った。シギョウが伸ばした冷たい指に己が右手指を絡め、左手にぬいぐるみを抱き直す。
「もう沼には行かないから、わたしのことを叱らない?」
「姫さまが良い子でいて下さったら、シギョウはいつまでもにこにこしたシギョウのままでお側におりますよ」
「グラッセも食べてくれる?」
「勿論」
 我ながら甘い守護獣だと、心中シギョウは苦笑する。
 今の王――少女の父親がこれほどの年だった頃も、彼女は裏の沼に行ったと聞いては少年だった王を叱り、ホウレンソウがディナーに並べば食べてやった。
 歴史は、繰り返して行く。
 そして、繰り返すことこそが、王国の平和と安らぎに繋がっていく。
「今夜は、シギョウが子守歌を歌ってさしあげます」
 ふと思い出したのは、古くからこの土地に伝わっていた、名も無き短い子守歌である。彼女の父親が毎晩のようにせがんだ。
 月の見下す明るい晩に、万人は無垢で素直な赤子になる――繰り返し歌って聞かせたその歌は、少女のみずみずしい遺伝子の中にもその記憶を残しているのだろうか。
 月の明るい晩である。
 少女に左の手指をきゅっと握られながら、黒髪の女は窓の外を見上げ、目を細めた。
 
(了)