<東京怪談ノベル(シングル)>


邯鄲の夢

●共演
 華やかな喧騒が夜を彩る。
 聖都に暮らす人々の大半がたいらかなまどろみに抱かれ安息を紡ぐ“闇の刻”は、歓楽街として知られるベルファ通りがもっとも活気に満ちる刻でもあった。
 魅惑の踊り子・エスメラルダが切り盛りする黒山羊亭は、色とりどりの提灯が幻想的な光を投じる石畳の目抜き通りにひときわ賑やかな華を撒く。――入れ替わりの激しい歓楽街では既に老舗と呼ばれる部類に入り、又、治安の悪いこの界隈では比較的安全な店として聖都の観光案内にも載せられていた。

 この夜――
 黒山羊亭に足を運んだ酔客は、ふたりの踊り子の共演の場に居合わせるという、ちょっとした僥倖に恵まれた。
 ひとりは当代随一の舞い手と讃えられる黒山羊亭の女主人・エスメラルダ。そして、今ひとりは、レピア・浮桜(−・ふおう)という名の異国の踊り子。――近頃、夜の巷でその名が囁かれるようになった美女である。
 どこから来たのか、どこで踊りの修行を積んだのか。
 鮮やかな紺青の髪に、豊かな体躯。いかにも人目を惹く素養をもったこの女の素性は一切不明。――それどころか、夜以外の時間に彼女に会った者さえいないのだ。
 尤も、レピアに限らず素性を隠す者はいくらでもいる。黒山羊亭の客の半分は、冒険という名の果てない夢の波間を漂う根無し草なのだから。
 軽快な楽の音に合わせて、ふたりの美女が艶やかな旋律を紡ぎ出す。
 しなやかに躍動する豊かな身体があふれんばかりの色香を周囲に振り撒き、疲れた心を蕩かして‥‥
 艶やかに、優雅に。そして、扇情的に――
 時には客のテーブルの上に飛び乗って踊るレピアに、人々は惜しみない拍手と喝采を送った。

□■
「あー楽しかった!」
 舞台を終えた充足感と手足に残る心地よい疲労に満足げな吐息を落し、奥の席についたレピアは自らのゴブレットにワインを注ぐ。
「エスメラルダ、あんたも早くこっちにおいでよ。乾杯しよう」
 店の主らしく方々から掛けられる声に愛想よく応えていたエスメラルダはその呼び声に軽く肩をすくめ、ひとこと、ふたこと客をあしらいレピアの席へとやってきた。
「ずいぶん、楽しそうだね」
 のんびりとかけられたエスメラルダの声に、レピアは酒と熱気にほんのりと上気した顔に笑顔を浮かべる。
 ひとりでは決して得ることのできない昂揚。互いに競い、導きあって‥‥結果、持てる以上の力を引き出した。
「そりゃあ、もちろん。こんなに気持ちよく踊れたのはホントに久しぶり。――あんたに感謝しなくちゃね」
 差し出された杯を受け取り、エスメラルダは鷹揚な仕草でこつんとレピアのグラスに自分のそれをぶつける。
「それはこっちのセリフだよ。客もみな満足してくれたようだし。――いっそ、うちの専属になってみるかい?」
 エスメラルダの口から得られる最高の賛辞。この日、最も嬉しい労いに、レピアはにっこりした。
「魅力的なお誘いだけど、あたしは‥‥」
「そうかい? ま、気が向いたらいつでもおいでよ」
 それは、残念。と、言いながら、もともと期待していたワケでもないのだろう。芳しくない返答を詫びるように言を濁したレピアに気を悪くする風もなく、エスメラルダはにこりと人好きのする笑みを返した。
 酒場の踊り子も悪くない。
 でも――

 贅を尽くした料理に、極上のワイン。
 きらめくシャンデリアの下に浮かぶ泡沫<うたかた>の夢。最上の絹と宝石に包まれた高貴な人々が住むきらびやかな世界‥‥

 王の名で与えられた様々な便宜と恩恵。
 ひとつを享受すると、際限なく次が欲しくなる。――王族とか貴族と呼ばれる人間が、民衆より偉いとは思わない。
 だが、心のどこかで彼らを羨み、認められたいと願う自分がそこにいて‥‥。


●砂上の楼閣

 ――パァ‥ン‥ッ!

 投げ捨てられた水晶細工は大理石の床にぶつかり、繊細なフレスコ画の描かれた高い天井に涼やかな音を響かせて砕け散る。
 誰もが思わず息を呑み、玉座にて不興を顕す女を見つめた。――この国でもっとも高貴な女性。民の敬意と信頼を一身に集めるその容貌は、瞋恚に彩られてさえ艶やかで美しい。
 いったい何が気に障ったのか。
 王妃の真意を測りかね、居合わせた者たちはただ落ち着かなげに視線を交わす。先刻まで、機嫌よく遣いの奏上に耳を傾けていたというのに‥‥。
 顔色を失くし立ちすくんだ宝石商と不機嫌を隠そうともしない王妃を交互に眺め言葉を捜して唇を濡らした国王に、王妃はちらりと冷ややかな一瞥を投げた。
「先日、陛下は子飼いの踊り子に、これと同じものを贈られたとか?」
 国王が街で評判の踊り子を宴に招いたのは、ひと月ほど前の話。レピアという名の舞い手が披露した異国の踊りを高く評価した王は請われるまま逗留を許し、惜しみない援助を約束した。
 新しい劇場。
 宝石に飾られた絹の衣装――彼女が望む物は全て与え、都の郊外に贅を凝らして建設させた壮麗な別宅まで用意して住まわせているという。
 元々、享楽に耽り政<まつりごと>を蔑ろにする向きの強い王であったから。一概に、全てを彼女の咎にするのは間違いであるかもしれない。
「陛下が誰を贔屓になさろうと構いませんわ。――でも、どうして妾<わたくし>がそのような下賤の輩と同じもので身を飾らねばいけないのでしょう?」
 そして、強国と名を馳せる隣国の王女としてこの国に嫁した女は、疲弊した国の内情に疎かった。

□■
「ねえ、ちょっと。そこのアンタ」
 曲がるたびに趣を変える庭園に面した吹き抜けの回廊を歩いていた娘は、そのはすっぱな呼び声に驚いて立ち止まる。――王の別荘たるこの場所に、相応しくない下町の言葉。
 思わず周囲を見回した視界の中に紺青の髪をした踊り子の姿を見つけ、侍女はこそりと吐息を落とした。
「‥‥何かご用でしょうか‥?」
「もちろん。用があるから呼んだに決まってるだろ。これ」
 相手の顔に浮かんだ表情には頓着なくレピア・浮桜は、指先に引っ掛けていた舞踊沓を娘に突き出す。やわらかく羽根のように軽い紗で作られたその沓は、長時間の練習に擦り切れ、穴が空いていた。
「‥‥‥‥‥」
「履き潰してしまったんだ。早く新しい物を用意してよ」
 状況を理解できずにぽかんと立ちすくんだ娘の手に沓を押し付け、王の客分として館に逗留する踊り子は次々に思いついた用を言いつける。
「それから、仕立屋を呼んでくれない?」
 新しい舞の衣装を作りたいから。
 舞踊を引き立てる最高の楽師の手配。
 稽古で疲れた身体を癒す風呂と、腕の良い整体師――
 至高を目指し、欲を張ればきりがない。

□■
「酷いものだな‥」
 荒廃した街を眺めて、男は呟く。
 ところどころで崩壊し半ば廃墟と化した家。大通りにも人の影はまばらで、開いている店もほとんどない。
 数年来の飢饉が招いた荒廃は農村に深刻な打撃を与え、民を困窮へと追いつめた。有効な対策が講じられず、今では王都でも飢え死にする者がいるという。――辺境で流行の兆しをみせる疫病が蔓延すれば、死者の数は計り知れない。
 早急に、何らかの手を打つ必要があった。
「‥‥あれは‥?」
 広場に面した一郭に、人が集まっている。なにやら巨大な建造物の建設工事が急ピッチで進められているようだ。
 男の問いに、従者は曖昧に笑って肩をすくめる。答えが主の気に障るものだと、理解っていたから。
「ああ、新しい劇場でしょう。――例の踊り子が陛下に強請ったとか‥‥へぇ、ここに建てられるのですね」
 ここには病院が建つのだと聞いていたのですけどね。どこか達観した風に薄く笑った従者に、男は不快げに眉をしかめた。
 もはや苦言を口にする気もおきぬ。
「――西の都では、王妃様の別宅にも着手されたとか‥」
 一方で、王妃のご機嫌取りにも余念がない。
 傾きかけたこの国に援助の手を差し伸べる国があるとすれば、列強と知られる王妃の生国だけだから。
 だが、その見返りは――

 国の未来を憂い、男は誰にともなく吐息を落す。
 ひとりは、王妃。幼い頃より最高の贅沢に浴して育ち、人を人とも想わぬ傲慢に慣らされた籠の鳥。
 ――ひとりは、踊り子。藝によって身を立てることにのみ熱心で。上り詰めた頂からの光景に心を奪われ、山の形を忘れた女。
 共に、自らの行いに悪意はなく、むしろ当然とそれを享受する。――この国は、ふたりの女に身代を食い荒らされて沈むのだ。

□■
 破綻は意外に早かった。
 王の享楽に愛想を尽かした王妃の生国が王都に攻め込んだ時、搾取と飢えに疲弊した民は快哉でこれを迎え、その声は隣国にまで届いたという。
 レピアは捕らえられ、王を惑わした罪で裁きにかけられた。――審判には、レピアを憎む王妃が証言台に立ち‥‥全ての罪を下賤な踊り子に押し付けた。
 賢君と名高い隣国の王は奢侈に溺れる妹に似ぬ堅物で、その分、民を苦しめた者への処分は過酷を極める。
 生きたまま手足を落とされなかったのは、あるいは僥倖かもしれぬ。
 レピアに下されたその罰は――


●微酔
 少しばかり酒が過ぎたようだ。
 ほんのりと眦を酒精に染めたレピアを眺め、エスメラルダは密かに思う。
「‥‥と、まぁ。そういうわけさ‥」
 どこか寂しそうに謂れのない罪を受ける我が身を語り、レピアは残ったワインを飲み干した。
「ま、起こってしまったコトは悔やんでもしかたないからね。――そのおかげで出会えた人々もいるわけだしさ」
 悪いことばかりじゃない。
 感傷をふりきるように明るく言い切り、レピアは勢いよく席を立つ。店中に響く拍手と喝采を受けて再び舞台で踊り始めた踊り子を眺め、エスメラルダは吐息を落とした。
 レピアを縛るのは、神罰<ギアス>という名の呪い。ただ人である王妃がそれを望んだとして、果たして神は本当に無実の者を咎人と認めるのだろうか。

 その答えは、きっと‥‥

「エスメラルダ! アンタもおいでよ!!」
 楽しげな声に呼ばれ、エスメラルダは苦笑を落す。――確かに、エスメラルダが気に病んでも詮ないことだ。
 ひと息に煽った酒器を放り投げ、エスメラルダも酒場の喧騒へとその身を沈める。

 華やかな共演は、夜明け前まで飽くことなく観衆の心を魅了し、
 ベルファ通りにまたひとつ。
 ――覚めない夢の逸話を残した。


=了=

《ライターより》
 レピアさんとお会いするのは、2度目でしょうか。
 少しお待たせしてしまいました。――酒場で語るには、少々、重すぎるお話ですね(かねがさね申し訳ない)。過去に王族と関わって酷い目にあっているのに、やっぱり王族と関わりたい心理が微妙で‥‥迷いながらの描写となってしまいました。