<東京怪談ノベル(シングル)>


想い箱

 何かしたいという気持ちは膨らむ一方だった。
 でも――。
 自分でいったい何がしたいのか、よく分からなかった。考えるのは苦手だ。
 とりあえずは、目の前に起ころうとしている現実に立ち向かわなければならない。
 それは父上のこと。
 あたしのことを叱ってばかりの父上のこと。母上はいつも庇ってくれたけれど、あたしもも子供じゃない。母上が困っていることは知ってるつもり。
 ちょっと溜息。
「お嬢様? どうかされました?」
 対面に座っていたメイド長が首を傾げた。揺れる馬車の窓からは、すっかり山に消えた夕日の残り光が長い雲をオレンジに染めていた。
「ううん。なんでもないよ。父上、怒ってた?」
「ええ! そりゃあもう! 今度ばかりは誤魔化しきれませんでしたわ」
 さも心配そうにメイド長が大きく肩を落した。つられて、あたしも2回目の溜息をついたのだった。

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 今までになく怒っているとすぐに分かった。顔面に色はなく、小刻みに握り締めた手が震えているのが見える。
「言いたいことは分かっているな」
 殊更、声を静めて父上が口を開いた。どんな時でも感情的になるのは恥ずべきことだと、常に口うるさく言っている父らしい。あたしは素直に謝ろうかと思ったけれど、できなかった。反射的に出たのは反抗の言葉。
「知ってる! 父上の言うことなんかいつも同じじゃない!」
「なら、どうしてできんのだ!?」
「あたしはもっと自由でいたいの。それがどうしていけないことなの?」
 父上があからさまに肩をすくめた。
「お前は仮にも、この長い歴史を持つルースティーン家の息女なのだぞ。仮にもだ。なのにお前ときたら、私がいないとすぐに街に出たがる。出ただけならいいが、河で魚つりだと? それが家を守りし、令嬢のすることか!」
「あなた……」
 母上がそっと怒りに震えている父上の腕を取る。あたしは勤めて冷静でいようと思った。
 視線を泳がせた。開け放たれた窓からは、夜の涼しい風が入ってくる。レースのカーテンが幻想的に揺れる様に目を奪われた。
「聞いているのかっ!?」
 激しい叱咤の声に我に返った。そうだった、今怒られている最中だったんだ。青筋を立てている父上に気づかれぬよう小さく舌を出す。
 ――決心してるから、恐くなんかないよ。
 呟いた心の声。それを無視するように父上の説教は続く。いつものことだから慣れたもの……でも、母上の寂しそうな顔だけは見ているのが辛かった。
 
 ――ごめんね。もっと、普通の女の子なら母上もずっと楽だったのにね……。

 カーテン越しに昇り始めた月を見た。青白い光を放ち、あたしの心を誘惑する。父上を怒らせても、母上を悲しませてもあたしはあたし。たくさんの人と出会い、色んな経験をして、あの透き通った空の彼方に飛び上がりたいんだ。
 あたしのエメラルドの髪がなびく。もっと短く切りたい。お嬢様に生まれたというだけで、髪形や服装まで決められてしまうなんて間違ってる。あたしはあたしの意志で生きて行きたい。
 瞳に強い決意を輝かせた時、父上の拳がテーブルを叩いた。
「シノン!! もういい、お前の態度が変わらないなら、私にも考えがある。これからその相談に行くから、お前はもう休みなさい」
「……まさか、あなた」
 父上の言葉に母上が息を飲んだ。あたしはただならぬ空気に目を見開いた。背中で閉じられた重厚なドア。ひどく嫌な胸騒ぎを覚えた。

 蜀台の炎が照らす部屋に、母上とあたしだけが残された。
 華奢な体が僅かな光に揺らめいている。涙を浮かべる母上の横顔。掛ける言葉はない。見つけられない。知っているから、自分のせいだと。
「……夕食、まだだったわね」
「う、うん……」
 押し黙ったまま、料理長の運ぶ少し冷めたメインディッシュを口に運んだ。味がしない。胸の奥が痛むばかりで、味なんてしない。
 母上はほとんど食べてなかった。父上がこれからあたしにしようとしてることを、たぶんもう知っているんだ。だから、あたしのことを思って悲しんでいるんだ。
 デザートの氷菓子。銀のスプーンの上で溶けた。
「母上。あたし、どんなことになっても、あたしはあたしでいたいの」
 ちゃんと言わなければと思った。母上に心配ばかり掛けてゴメンと伝えたかった。
「父上が怒るの、無理ないよ。でもね、でも――」
「――もう、ずっと前から存じてますよ」
「母上!」
 柔らかな笑顔。あたしは子供のように膝にすがって謝った。こんなに大事にしてくれてるのに、あたしは自分の思うようにしようと思ってる。
 何度謝っても足りないよ。
 母上の背中を撫ぜてくれる手のひら。暖かな眼差し。あたしはもう、泣かないと決めた。母上を心配させ悲しませた分、あたしは元気でいなきゃいけないんだ。
 風が夜を運んで、朝がゆっくりと近づいていた。

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 夜明け。父上の部屋。
 言い渡されたのは「ウルギ神官の元で修行せよ」との命令。出発の準備はすでに整えてあり、馬車にあたしが乗り込むだけになっていた。
「お嬢様、いいんですか?」
「もちろんだよ。あたしはもっと世界を見たいの。きっとあたしを必要としている場所があるはずだから」
「そう…ですか……。寂しくなります」
 メイド長が目頭を押さえた。馬車に乗り込む。ウルギの神殿までは長旅になる。そうそう屋敷には戻れないだろう。いや、父上が戻らせてくれるはずがない。
 母上は二階の窓から手を振ってくれていた。父上の姿はない。
 最後まで喧嘩したままだったな……。
「これを、ダンナ様からですわ」
「箱? 中身は何?」
「さあ、存じませんけど」
 あたしはどうせ、守るべき規律なんかがどっさり書いてある手紙が入っているんだと思った。開けないまま、馬車は走り出した。メイド長他、たくさんの召使いが手を振ってくれている。
 屋敷が森に隠れようとした頃、箱の中身が気になってそっと開いた。飾り装飾を施した木製の箱。その細い造作の隅に埃が見えた。長年使われてきたもののように思えた。
「何を入れてあるのかな?」
 開いた内側は赤いシルク。銀のクロスと小さな手袋。そして、カードが一枚。

 『今、生まれし我子よ。
  その深緑の髪に相応しく
  伸びやかに育て

  シノン
  我娘、我命、我生きがい』

 これは父の字だ。少し癖のある固い文字。これは、幼いころの写真にあった私の手袋。
「父上……」
 言葉にならなかった。疎まれていると思っていた。思い通りにならない娘だと。
 でも、ずっと父上なりに心配し、愛してくれていたんだ。
 銀のクロスを手に取った。そっと首にかける。
「ごめんね……似合わないや」
 僅かに口元が緩む。そして、涙が零れた。
 これからも、父上の願い通りの娘にはなれないかもしれない。でも、父上の想いだけはちゃんと分かる人間になるから。
 あたしは窓を開けた。屋敷は飛び去る景色の向こう。もう見えない。
「父上ーーーーっ! あたし、元気でいるからねーーーー!!」
 叫んだ声は届くはずもない。
 暖かな風が開いた車窓から飛び込んでくる。あたしは胸いっぱいに、新しい空気を吸い込んだ。



□END□

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 連作ありがとうございます。ライターの杜野天音です♪
 今回もまた、素敵なシノンを書かせてもらえて光栄です。特に、自分の意志をしっかりと持っているところがとても好感が持てます。これからも、彼女はきっと前向きに進んでいくのでしょうね。
 シノンの眩しい未来を楽しみにしています(*^-^*)