<東京怪談ノベル(シングル)>


朱護

 人間は、時として酷く驚かせられる存在だ。何年一緒にいようとも、共に生活しようとも、全てを理解するなど不可能なほど。


 シギョウは丘の上で大きく息を吸った。ざわ、と風が吹き、シギョウの黒く長い髪を揺らす。同時に、シギョウの纏っている黒く長いワンピースをも揺らしている。さらさらと流されている髪と服が、丘の上の風が強い事を物語っていた。だが、シギョウは臆する事なく髪と服のみを風になびかせている。
「ああ、そろそろ収穫の時期か」
 眼下に広がっている麦畑で、黄金の穂を摘む人々を見ながらシギョウは呟き、穂を映したかのような金の目を細める。
(こうしている間にも、時間というものは流れているのだ)
 長い長いと思っていた時間は、気付けば驚くほどのスピードで流れている。季節は巡り、年月は重なり、年を連ねていく。抗う事すら許す事なく。
(それを私は止める事は出来ないですし、遅くする事も早めることも出来ないんですね)
 ハルバニア国を守護すると決め、およそ400年。こうして数字にしてしまえば恐ろしく長い時間だが、それでもシギョウにとっては一瞬のような時間であった。
(最初は、本当にどうなる事かと思っていたのだが)
 シギョウはくすりと小さく呟く。最初は本当にちっぽけな国であった。国と言っても良いのか疑問に思うほど、ちっぽけな。だが、それは徐々に「国」へと成り立っていった。幾人もの国王が就任するたび、それは確実に成長していっていたのだ。
「ああ、こんなにも……」
 シギョウは呟く。幾人もの国王達は、皆シギョウを称えた。共にいてくれて有難うと感謝の意を述べ、そうして見守っていてくれて嬉しいと。誰もが、シギョウを必要とし、大事にしていた。
(私はただ、隣に立っていただけだ)
 シギョウはそう常々思っていたし、国王達にも進言してきた。だが、帰ってきたのは包容力を持った笑みだけだった。否定もしないが、肯定もしない。ただただ、包み込むような笑顔。
 ハルバニアは国であり、そこに暮らしている人は国民であり、国王はそれを統治している。ただ、それだけの事なのに、酷く愛しさを感じる。
 シギョウはそっとスタールビーをあしらった華奢な首輪に触れる。初代ハルバニア国王から賜った、大事な品だ。シギョウはそれ以外に装飾品をつけない。ただ、これだけだ。
(契約の、証だ)
 そっと目を閉じ、微笑む。契約した時の事を、まだ克明に思い出せる。だが、その時の事を他の代の国王に言った事はない。聞かれたことは何度かあったが、一言も話す事は無かった。
 話す事が嫌だったのではない。ただ、話す必要がないと判断していたからだ。初代国王との契約は、初代国王とシギョウだけのものだ。他の代の国王よりも、初代国王が大事というわけではない。ただ、契約は契約として別の場所に在るかのようだった。
 勿論、他の代の国王がシギョウに契約時の事を話すように強く命じれば、シギョウは答えざるを得ない。強く命令されて、それを拒否しようなどとは思わぬからだ。だが、他の代の国王は強くは命令してこなかった。
(ここの国王達は……優しい)
 それは、幾代もの国王達と接してきたシギョウの、正直な感想であった。ただ単に優しいというわけではない。得も知れぬ包容力に満ち、その場にいるだけで温もりを感じられる雰囲気を作り出す。それはどの国王も共通していた。シギョウをただ国を守る宰相として、扱っている訳ではない。シギョウはシギョウとして、確固たる存在として扱うのだ。
(本当に、良かった)
 再びざわり、と風が吹いて、シギョウの黒髪と黒い服を揺らす。眼下に広がる麦畑の黄金の穂も揺れる。ゆらゆらと、ざわざわと。シギョウは目を細める。妙にきらきらと光に満ち、眩しい。
(今年も豊作のようだな)
 そう思うと、胸の奥底から温かなものが溢れてくる。何という感情なのか、シギョウにははっきりとした言葉は出てこない。長い年月を経てきたシギョウにでも、分からぬ言葉の感情。分かっているのは、守ってやりたいという意志だけだ。
(愛しい)
 きっぱりと胸を突き抜けていく、感情。
(この国を、民を、国王を)
 全ての幸せを願わずに入られない。平和を、満ち足りたる毎日を。
(私の腕で守ることが出来るのならば)
 神獣の一種である神狼、その中でも地狼であるシギョウは、人間よりも何倍も長生きをする。人間よりも何倍も出来る事がある。人間よりも何倍も力を持っている。だが、時として人間は思い出という形となり、シギョウよりも何倍も長生きをする。人間は驚かせるような事をする事が出来る。人間はあり得ぬほどの力を発揮する。それは幾年隣に立ちつづけていた今も変わらない。
(本当に、凄い)
 シギョウは感嘆する。はかり得ぬ力を持つ人間達。いつだって、驚くのは自分の方なのだ。人間達は自然とシギョウという存在を受け入れているのにも関わらず、シギョウ自身は驚かされてばかりだ。何しろ、「同じ」という事は全くないのだから。
 シギョウはくすりと再び笑った。眼下の黄金の穂は、大方摘み取られてしまっている。もう何度、この風景を見てきただろう。慣れてしまっても、下手をすると飽きてしまっていてもおかしくないほど、同じような風景を見てきた。だが、それは毎回違う風景としてシギョウの目に映っていた。
(この場所は、なんとも素敵で……魅力的で……)
 シギョウは確信していた。ハルバニアという名は、古代の言葉で「未来」を意味している。その名の通り、ハルバニアは未来を見つづける国であった。時々立ち止まったり、後ろを振り返ったりしていたが、確実に未来へと向かって歩みつづけている国であった。国王を始めとする民の、一人一人ですら。
「こんなにも、美しい」
 ぽつりとシギョウは呟いた。不意に、全てを抱き締めたくなる衝動に駆られてしまう。こうして丘に立っていると、特に。世界の中心に自分という存在がいて、そっと手を伸ばすと全てを抱き締められるのではないかと思ってしまうのだ。勿論それが出来ないのは分かっているし、抱き締める代わりに愛しく思っていることも確かなのだ。
「シギョウ!また、ここにいたの?」
 幼い声に振り向くと、そこには現国王の娘が手を大きく振っていた。無邪気に笑う小さな王女に、シギョウはそっと微笑む。
(今まで、たくさんの人々と別れ……そして出会ってきた)
 駆け寄ってこようとする王女も、その一人だ。400年という歳月は、シギョウに数え切れぬほどの出会いと別れを与え続けてきた。それを疎ましいと思ったことは、一度たりとも無かった。全てが愛しく、時々悲しく、だが幸せでもあった。
「何を考えていたの?」
 幼き王女が首を傾げる。シギョウはそっと微笑み、王女と目線を合わせた。目をじっと見つめると、王女もシギョウの目を見つめてきた。
「連鎖についてですよ」
「れんさ?」
 突如出た難しい言葉に、王女は不思議そうな顔をして首をさらに傾げた。シギョウは微笑を崩さぬまま、口を開く。
「全てが繋がっているという事についてです。春夏秋冬、と季節が繰り返されるでしょう?そういった事です」
「繰り返し……よく、分からないけど」
 王女はそう言い、にっこりと笑う。
「シギョウのしているスタールビーの赤い色を見ていると、嬉しくなるわ」
「この首輪を、ですか?」
「そうよ。だってそれ、ずっとシギョウがしているでしょう?何故だか分からないけど、嬉しくなるわ」
 理由などはないと、王女は言った。シギョウは目を大きく見開き、そしてただただ微笑んだ。繋がっている、と先ほど言った自らの言葉を思い起こす。
(繋がっている……確かに、繋がっているのだ!)
 そっと首輪に触れる。繋がっている、繰り返している。変化に満ちた繰り返しが、目に見えたような気がしてならなかった。
「ああ、シギョウ!夕日よ。燃えているようね」
 王女が言い、沈みかける夕日を指差した。シギョウはそれに目をやり、そっと目を細めた。
(まるで、人間のようだ)
 突如生まれる実感。遠すぎず、近すぎず、暖かく、明るく。自らを照らす炎かのような太陽は、シギョウと関わってきた人々のようだと思わずにはいられなかった。
「綺麗だわ。炎のよう」
「……本当に、そうですね」
(例えば、国王達のように。王女のように)
 そっと心でシギョウは呟いた。赤き光に全身を照らされ、風に黒き髪と服を揺らしながら。密やかに、そっと。

<朱き光は護りの繋がりを実感させ・了>