<東京怪談ノベル(シングル)>


時計

 金色の輝きが目を覆った。スラッシュは瞬きを二、三度する。フードを被った男の顔。ニカッと笑ってスラッシュの額を小突いた。
 スラッシュは首を振る。上半身を起き上げ、男の頭を押し退けた。男は「ハハッ」と楽しそうに笑う。
「……いつ…帰ってきたんだ?」
 スラッシュは木のベッドの縁に足を投げ出し、あくびを一つ噛み殺し、立った。朝の冷たい空気に白いカーテンから注ぎ込む陽光が暖かい。スラッシュは目を細める。甲高い鳥の声。一度目を閉じ、壁にかけてある作業着を手に取った。男は「相変わらずだなあ」と笑った。
「今朝だよ。だから、スラッシュの寝顔もバッチリだぜっ」
「いつも言っているが……不法侵入だろ……」
「それこそ今更だろ?」
「…………まあ……な」
 スラッシュは笑った。
 男も笑った。後ろ頭を掻く右腕に青い痣が現れた。スラッシュは作業着を壁に掛け直して、その腕を無言で引っ張る。男は「お?」とおどけた顔をして笑った。スラッシュはタンスの二番目を開いて男に薬草を放り投げる。
「……ここは…診療所じゃないんだぞ」
「へへっ。でも、こうやって薬草くれるだろ?」
「……そういう問題じゃないだろ」
「そういう問題。大体、医者ってあまり好きじゃねえんだよ。……他人に体を預けるっていうのも不安だしさ」
「だが……」
「それより」
 男は薬草を器用に巻きつけた後、立ち上がり、スラッシュに人差し指を向けた。
「お前、また根詰めて仕事してただろ?顔色が悪いぜ。こんな早朝に起きてる場合じゃないだろ」
「……」
「街の人から聞いたぜ?孤児院の子どもたちに無償でおもちゃを作ってやるために無理してるって」
 男はそう言うとさっさとベッド横の小椅子をどけ、スラッシュの肩を掴んだ。方向転換をさせ、ベッドの前に立たせると強く背中を押す。スラッシュは片眉を上げ、肩越しに男を寸時睨むが、軽くため息を吐き、毛布の下にもぐりこんだ。男は笑う。スラッシュの前髪をくしゃくしゃと嬉しそうに撫でる。スラッシュはやや目をそらす。
「……お前こそ…何のためにこんな毎回怪我して帰って来るんだ?」
「あ?お前、オレの職業、探索士って知ってるよな?」
「……ああ」
「それなら、わかるだろ?お宝探しをしてんだよ」
 スラッシュは、窓の外に目をやった。青い空に溶けそうな白雲が駆けていく。黒い鳥が白い花が咲く木に止まり、また飛び立つ。風が吹く。茶色の砂塵が全てを視界から隠す。
「じゃあ…見つかったのか?」
「いや……そうカンタンに見つかるもんじゃねえみたいだ」
「……以前言っていた……“夢”のものだろ?」
「ああ」
 男は笑った。スラッシュの頭をもう一度軽く押し、背凭れのない椅子を引き寄せた。道具袋から何かを出す。スラッシュは握らされた手のひらを開いた。銀色の睫が大きく瞬きをした。それは、金の時計だった。精巧に唐草模様も彫ってある。
「やる」
「……は?」
「お前、頑張ってるからな。最初ん時の礼もなんだかんだでしてなかったし」
 男は紅い顔でポリポリと頬を掻いている。スラッシュはその顔に手を伸ばす。フードを一気に下ろした。
「わっわっ!?何すんだっ!!」
「……やっぱり。髪の毛を売ったな」
 男の髪は耳の上でざっくばらんに切り揃えられていた。スラッシュはため息を吐く。男は笑う。
「はははっ。カンが良すぎんのも、問題だな。案外、お前の方が“探索士”に向いているかもな」
「……冗談はよしてくれ」
「もちろん、冗談だ」
 男は笑み、マントを翻す。フードを被り直した。スラッシュはその裾を掴んだ。
「――何だ?」
「……時計と方向を知れる人形がタンスの一番上にある。持っていけ」
「……フッ。OK」
 男はまた笑んだ。大股でタンスに近づき、人形と時計を取り出すと、スラッシュに片目を閉じた。
「行ってくる」
「ああ」
 スラッシュも笑った。

 二日後。その日は砂の激しい日だった。アルビノのため、あまり肌が強くないスラッシュは日中を避け、夕方に隣街の孤児院へと向かっていた。比較的大通りなのだが、風が強いせいで店や家の扉はすべて閉まっており、人もまばらでスラッシュも前かがみで腰を折り曲げ歩いていた。
 風の啼く音。全身を叩きつけるような風圧。スラッシュは右の手のひらに持った大きな巾着袋を離さぬよう両手で持ち直した。
 ふと、右手首の金時計がカチリと音を立てた。スラッシュは左手に袋を持ち替え、手首を上げる。時計盤に罅が入っていた。
「……これは」
 急に一点、すぐ前方の雲が切れ、光が射し始めた。金色の輝き。スラッシュはかかとを思い切り踏みしめ、駆け出した。

「まだお若いのに……」
「可哀想に……」
「どうしてこんな所に来たのか」
 口々に野次馬が輪をなしている。スラッシュは数十人の肉の群れを避け、中心に急いだ。
 やはり、そこだけ晴れている。キラキラと砂が金に染まり、天高く舞い上がっていた。
「……まさか」
 左手で右手首を覆う。息が上がっていた。そして、最後の一人の肩を押し退けた後。
「……」
 スラッシュは立っていた。
 二日前まで笑っていた男の顔。後頭部からは血が滲み、下の岩を濡らしている。太い腕は静かに前で組まれ、足は揃えられ、横たえられていた。
「……なあ」
 スラッシュはその頬に一瞬触れた。すぐに離す。指、肩、足、そして最後に心臓を撫でる。男は動かない。左の手首にある、スラッシュ愛用の時計は昨日の昼で針が止まっていた。
「そ……んな」
 スラッシュの背中に強風が吹きつける。スラッシュは振り返り見上げた。数百メートルの崖が目前に聳え立っていた。
「お前こそ……気をつけろよ」
 口中で呟く。小石が崖から落ちる。石は、地につくことなく磨り減り砕け散って砂塵に消える。
「お前の為に薬草……用意してあったのに」
 隣に神父が座る。両手で十字を切り、「アーメン」と言った。スラッシュの瞳は乾いていた。
 男の横では南を指すはずの人形が北を示していた。

 スラッシュはその日の午後、工房の看板を二つに折った。両隣に籠一杯の果物を配り、翌朝、日が明けぬうちに道具袋を一つ肩にかけ、旅立った。